日本イスラーム研究所 Japan Islamic Research Institute


人類の幸せのために天から下さった神の導きの一番正確な分かり安い邦訳と詳しい解説 

日本の歴史で初めての 

 

神からの啓示 

第一巻 

在日パキスタン人協会会長 

 フセイーン ハーン(東大修士)

 

聖クルアーンの最後の第30部の邦訳と詳しい解説 

 

はじめに 

啓示が残ってないから混乱  

 アダムイヴが創られた時から、神、アッラー、の導きによって、人間がどんな時代でも、幸せと平和な暮らしが出来るように啓示されています。その為に各時代に、いろいろな国々で約20万人以上の預言者たちが現れました。しかし歴史上では、そういう昔からの神の啓示は殆ど残っていません。

 その中で、約3000年前と2000年前に神、アッラー、から啓示されたユダヤ教とキリスト教が現在使っているトーラーと聖書が残っています。これは神、アッラー、から預言者イエスと預言者モーゼに啓示されたものでしたが、それにあとから神ではなく人間の宗教学者たちが、何の根拠もなく、勝手に自分たちの思い通りの考え方をそれらの中に徐々に入れ込みました。そのため、神からの啓示と、人間の付け加えたものの間に区別がつかなくなってしまったのです。こうして人類は、もともとの神の教えが何だったか、ということが分からなくなってしまったのです。

 こういうことがあって、人類の遺産である神からの啓示に基づいた教えや導きが元のままに残っていないのです。世の中に不正義と、嘘と、騙しあいと、強いものから弱いものへの苛めや圧迫と、混乱と戦争等がしょっちゅう起こって、人間が不幸の苦しみを味わいているのはそのためです。人類の歴史を見ると、神が教えた真っすぐの道を歩まない場合、こういう酷い結末に直面するような結果が明らかに見えているのです。

啓示によって平和と正義と平等の実績 

 しかし、イスラーム教の歴史の中ではそういうことはありませんでした。例えば、500年から800年ぐらいの間にずっと続いていたアラブ人のウマイッヤとアッバス帝国や、オスマントルコ帝国や、インドにいたムガール帝国や、800近くにわたりイスラーム教徒支配下にいたスペインやインドでは、あらゆる民族が一緒に仲良く、平和に暮らしていましたし、また一度も小さな民族紛争も起こりませんでした。 

 シャリアという神、アッラー、から聖クルアーンとハヂース(預言者の教え)に定められた法律の下で行われた正義に、非イスラーム教徒少数派も一度も不満を持たないでずっと満足していましたし、またお互いの人間関係も皆がうまく行っていました。いまでも、血縁関係のない違う民族のイスラーム教の信者等が、お互いに兄弟同様に扱っています。 

 シャリヤを実行するために、宗教の学者たちが裁判官として政府から任命されていました。彼らは政府の支配者や王様たちが何か違反したら、何も怖がらないで、勇気を出して正義を行いました。そのような支配者たちが罰せられるような判決も自由に出されていました。神からの啓示に基づいた法律として、シャリアが実行されていたからどんな弱い民間人も強い者に苛めや圧迫されなかったのです。シャリアの下では、不正義のことが一切あり得ないようになっていたのです。 

 世界の歴史で、イスラのーム教の支配下で正義と平和と平等などが出来たのは、神から啓示された聖クルアーンの教えの結果でした。 

啓示によって人間革命の実績 

 不思議なことは、歴史に言及する価値や貢献が何もない、ずっと何世紀も砂漠において貧乏暮らしに馴染んでいたアラブ民族の精神力がびっくりするほど変わったことです。神からの啓示を受けた砂漠の遊牧民族のなかには、世界の支配者になるぐらいの力と知恵が沸き上がりました。それほど人間を革命的に変えることが可能になったのは、やっぱり聖クルアーンの形で神の啓示に従ったからです。 

人間革命で1400年間も世界のスーパーパワーとして続いた

 6世紀から20世紀初めまで、約1400年間世界のスーパーパワー(Super Power)の役名を果たしてきたのはイスラーム教の信者等でした。世界中にわれらの支配力が予言者モハッマド(彼に平安があれ)の時代から始まって、インドの、1857年にムガール帝国が終末するまで、また1923年にオスマントルコ帝国の終結まで14世紀もの長い期間続いていました。それに比べると、18世紀から21世紀のあいだ、現代ヨーロッパやソ連()、アメリカの世界支配がただ200年も続かなかったのです。その違いは神からの啓示を受諾するか、しないかの違いなのです。

永久にこの啓示の守護の保証 

 同じく神から啓示されたキリスト教の聖書やユダヤ教のトーラーと違って、イスラーム教の場合は、アッラーがずっと審判の日まで、聖クルアーンを守護することを保証しています。アッラーは、自分のこの最後の啓示された教えが、人類の導きのため、この世の中が終わるまで聖クルアーンの形で残して置くこととしているのです。だから誰に対しても、これの一文字も変わらいないように守っていくという約束しているのです。 

 下記の節の意味は、皆にそういうふうに理解されています。人類の導きの為に神、アッラーは、聖クルアーンを啓示したから、それをもとのままに、それの一文字や、言葉や、内容が絶対に変わらいないように守護しておくということになっているのです。これにどんな偉い人間の考え方も、預言者モハッマド〈彼に平安があれ〉みたいな偉い方の教えもこれに混ざらないように、アッラーがずっと保護していくことになっています。預言者の教えも権威のある大事なものですが、それも聖クルアーンに混ざらないようにハヂスと言われて、別で大事に保管されているのです。聖クルアーンの場合は神、アッラーからの直接な啓示として永久に残されるということになっています。このことを聖クルアーンではアッラーがこういうふうに述べています。 

اِنَّا نَحْنُ نَزَّلْنَا الذِّكْرَ وَاِنَّا لَہٗ لَحٰفِظُوْنَ۝۹ [١٥:٩] 

(15-9)本当にわれこそは,その御言葉(聖クルアーン)を啓示し,必ずそれを(審判の日までに)守護(しゅご)するのであろう 

啓示によって人類の文明の発達 

 キリスト教の聖書とユダヤ教のトーラーも元々は神、アッラーからの啓示のものでした。しかし、神はその内容と言葉を、聖クルアーンと同じくずっと守護しておくという約束をしなかったのです。その理由は、23千年前に人類の文化がまだ発達してなかったからです。それに、直ぐに発達するような見込みもなかったからです。

 けれども6世紀に預言者モハッマドが現れた時には、聖クラアーンで神の教えによって人間のあらゆるすべての分野、学問や、科学や、通信や、情報や、報道や、産業や、貿易や、人類の文化など全部が著しく発達していくことを、アッラーは良く予知していました。だからその教えを変えられないように守護すれ必要があったのです。だからトーラーや聖書が下さった時代より聖クルアーンを啓示された時代とそのあとから人類が将来で発達出来ることの見込みが良く分かっていた神、アッラーは、聖クルアーンを守護することを決定したのだろうと思います。

人類に神の最後のメッセージ 

 また予言者モハッマド(彼に平安があれ)は、人類の歴史上に送られてきた約20万人の預言者等の中で、最後の預言者として決定されていました。その局面からみても、聖クラアーンが最後の予言者通じて、人類に対する神、アッラーの最終のメッセージとなったのです。 

 だから、神のこの最後のメッセージが元のままで、何の変更もなく、その一文字や、一行一行の言葉や内容も、人間の勝手な考え方が混ざらないように守護しておく必要性があったのです。それで神、アッラー、は先ほどの節(15-9)で、これがこの世の中が終わる最後の日まで、元の純粋の言葉のままで守護しておくことが約束したのです。 

永久に続く啓示の守護のメカニズム 

 6世紀からの世界の歴史で、イスラのーム教の支配下で正義と平和と平等が維持出来たのは、神からの啓示された聖クルアーンの教えが引き起こした結果でした。その時から今の21世紀までの1500年の間、どういうふうにこれが守護されてきたのか?また今から審判の日まで、どういうふうにして聖クルアーンが何の変わりもなく、人間の考え方が何も混ざらないように純粋に元の文字のままで守護されていくのか?そのメカニズムを神、アッラー、はどういうふうにそれを引き起こしたのか? 

 そのメカニズムが、ハフィズという信者です。過去1500年の間にも、これからこの地球の最後の日までも、各時代で、各イスラームの国で、何百万や何千万人がハフィズになるようになっています。ハフィズという信者がどういう方なのか?それは、聖クラアーンを初めの第一節から最後の節まで、全ての何千節を子供の時から何年もかけて完璧に暗記する人のことをハフィズというのです。

 そういうハフィズという信者たちが、毎年世界中の各国で、世界中のモスクで断食の月ラマデャンの時に毎晩行われている20回のタラーウィーという礼拝ヤサラートの中で、それのイマムとして、大きな声で聖クラアーンを初めから終わりまで読誦しています。毎晩聖クルアーンの全部の30部やジュズの中から、順番に約1部を平均として読誦しています。そうやって主に27日に全部の30部を読誦して、初めから終わりまで読み上げているのです。 

 もし世界中のどこかの国の印刷屋が聖クルアーンの一文字でも間違って印刷してしまったら、その国にいるハフィズたちが直ちにそれを直ぐ直してしまうでしょう。そういうメカニズムによって聖クラアーンが、一文字も変わらないように神に守護してもらっているのです。どんな時代でも、どこの国でも、イスラーム教の信者等の中にある何千万人の心や頭に聖クルアーンが暗記されたまま、彼らが死ぬまで守っています。こういうメカニズムによって聖クラアーンが何の変りもなく、元のまま永久に残っていくということなのです。この方法で過去1500年の間にも、またこの世の最後の日まで、これからの何千年の間も、アッラーは聖クルアーンを守護する自分の約束を果たしていけるではないでしょうか?

内容について 

 聖クルアーンは30部に分かれています。それの1/30は一つのジュズやパーラと言われています。これはその最後のパーラ第30部の全ての37章の邦訳と詳しい解説です。この最後のいくつかの章をイスラーム教徒の皆さんが暗記して毎日の5回の礼拝時に読誦しているのです。ですからこの邦訳と同時にその説明も解説の形で出しているのです。それで毎日の礼拝時に、その章をよく理解した上で読誦することが出来るのです。またこのいろいろな解説でイスラーム教の全ての基本的な概念と信条が良く分かるようになっています。それで、イスラーム教の信者の信仰の基礎が強くなると思います。

 またイスラームのことを初めて知った方も、世界で1/5以上人口の方々の宗教だけではなく、日常生活のあり方も良く分かるようになると思います。これで現在西洋の先進国、特にアメリカとヨーロッパ等の指導者、学者とメヂーヤなどがわざとイスラームはテロの宗教だというイメージをでっち上げていることの嘘も明らかに分かります。

 また現代世界でどこでも、イスラームが一番伸びている宗教と言われています。不思議なことには、そういう反イスラームプロパガンダをやっている西洋の国々にイスラーム教に入信する人が一番多いのは不思議なことです。反イスラーム学者バルナード・レヴィスは、今世紀が終わるまでにヨーロッパ全体がイスラームの国々になる予測しています。この予測に対して英語でかかれた私の詳しい記事を私のホームページでご覧ください: 

http://www.dawahislamia.com/europe-to-become-islamic-continent-in-50-years.php 

 このことに対しては、出版社幻冬舎新書が出した世界はこのままイスラーム化するのか」という中田考 ()島田裕巳 ()先生たちの本で詳しく分析されています。 

 この邦訳は、サウヂアラビアから世界一のイスラーム学者としてファエサル賞を受け取ったパキスタンの権威のある有名な故サイッヤド・アブルアーラ・マウドヂ先生の6冊の解説に基づいて行っています。と言うのは、私が3、40年前にパキスタンのラーホル市にその先生に挨拶に行った時、既に彼の言葉は世界のいろいろな言葉で翻訳されていたのですが、トルコでもパキスタンよりよく売られている6冊のタフヒームル・クルアーンの邦訳をその先生から任命されたのです。その邦訳を、死に近い年になってからやり始めているのです。

この邦訳について 

 ()マウヅヂ先生は、その有名な権威のある6冊以外に、解説なしで一冊だけにまとめたパキスタンのウルドウー語に翻訳しているものがあります。第一部、パーラ1から第29部、パーラ29まで、私もなるべく解説なしで、まず邦訳だけしようと思っています。解説の代わりにブラケットの中に短く説明のつもりでいろいろな言葉を入れて各節が良く分かるようにしています。ブラケットにある言葉は聖クルアーンの本文のことばではありません。  

  けれども、第30部、パーラ30の扱いはちがいます。これから提供するのは、その30部の邦訳と内容の詳しい解説です。聖クルアーンに基づいてイスラーム教の基本的な教え、概念、信条とすべての考え方の詳しい説明をしているのです。                                

 故マウヅヂ先生は、聖クラアーンのあらゆる言語にあるような各節の別々の翻訳をしていないのです。一つの章のすべての節をいくつかのパラグラフに分けて、かくパラグラフに一つの考えやアイデアとして翻訳しているのです。この邦訳もそのパターンで行い、聖クルアーンの内容をもっとわかりやすくしているのです。 

頭を下げてサジュダをすべき箇所のことについて 

 “聖クラアーンのサイドラインには、いくつかの箇所でサジダという言葉が書かれています。聖クラアーンを読誦しているときにそういう箇所まできた場合は、サジダの動作をするべきと定められています。サジダとは、5回の礼拝の時に頭を下げてひたいを大地までもっていく動作のことを言います。その偉大な御方から授けられた元の言葉を理解した上でそのまま読誦しそういう箇所まできたときには、なんとなく人間の心や気持ちが神の前に頭を下げて主のことを褒め称えるような気持ちになります。 

聖クルアーンの影響力に関して 

 信者ではないメッカの方々が信者を強力に迫害していた時期のこと、聖クルアーンをたまたま聞いているときに無意識にサジダをしてしまいました。その時預言者モハッマド(pbuh)は、彼に初めて啓示されていた第53章「星(アン.ナジャム)」を読誦していたのです。無信者の行ったサジダの噂を聞いて迫害されて遠いアフリカの国へ逃げていた信者の一つの団体が「無信者が改宗してイスラーム教に入ったかな」と思ってメッカへ戻ってきました。無信者は、自分たちのいきなりやったサジダの行為に気がついて、自分自身もびっくりして、そのサジダのことを「無信者として信者と同じ行為するのは自分たちの間違いだった」といって自分たちの改宗のことを否定しました。このことからも、無信者であっても聖クルアーンの偉大な御方の元の言葉を理解したときは、どれほど彼らの心も動いてしまうのか、ということがこの出来事で良く分かります。

 だから信者たちも聖クルアーンの読誦をしながらそういう箇所まできたら自然と、神の前に頭を下げてサジダをする気持ちになりますし、またそうするように定められているのです。ですから、そういう出来事で聖クルアーンの言葉を理解した上に読誦した方がどれほど人間の心を動かすのか、それでどれほど人間の心が安らぎを感じるのか図りきれないのです。 

 東京でサウジアラビアの無料でアラビア語を教えている六本木方面にある学院で、一人の女の学生さんがお医者さんから「一か月以内に癌で死ぬだろう」と告げられました。お医者さんたちにもどうにも出来ないと言われて、彼女は仕方なく、信者でもないのに、アラビア語も分からないのに、その学院から聖クラアーンの録音されたCDを借りて朝から晩まで毎日その聖クルアーンを聞いていた。彼女が一か月たってからまた同じお医者さんたちに見て貰ったら、癌が全部消えているという結論だった。この出来事で分かるとおり、理解できなくても、人類の主アッラーの聖クルアーンの形である元の言葉の強力な影響力があらわれるのです。

 内容を理解した上で聖クラアーンを読誦した場合は、そういう人類の主から授けられた元の言葉の影響力が何倍にもなって、現世でも来世でも、人間の幸せに繋がると思いませんか? 

 そういう聖クルアーンの理解を進めたいという気持ちで、この邦訳と説明を提供しているのです。(フセイーン。ハーン、東大修士) 

http://www.dawahislamia.com/published-and-revised-versions-of-all-translations.php 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

93. Sura Ad Dhuha (The Morning Light) 

93. (あさ) (アッドハー)

 

Sura: Ad-Dhuhaa

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ  

وَالضُّحٰى۝۱ۙ [٩٣:١]  

وَالَّيْلِ اِذَا سَـجٰى۝۲ۙ [٩٣:٢]  

مَا وَدَّعَكَ رَبُّكَ وَمَا قَلٰى۝۳ۭ [٩٣:٣]  

وَلَلْاٰخِرَۃُ خَيْرٌ لَّكَ مِنَ الْاُوْلٰى۝۴ۭ [٩٣:٤]  

وَلَسَوْفَ يُعْطِيْكَ رَبُّكَ فَتَرْضٰى۝۵ۭ [٩٣:٥]  

اَلَمْ يَجِدْكَ يَتِيْمًـا فَاٰوٰى۝۶۠ [٩٣:٦]  

وَوَجَدَكَ ضَاۗلًّا فَہَدٰى۝۷۠ [٩٣:٧]  

وَوَجَدَكَ عَاۗىِٕلًا فَاَغْنٰى۝۸ۭ [٩٣:٨]  

فَاَمَّا الْيَتِيْمَ فَلَا تَقْہَرْ۝۹ۭ [٩٣:٩]  

وَاَمَّا السَّاۗىِٕلَ فَلَا تَنْہَرْ۝۱۰ۭ [٩٣:١٠]  

وَاَمَّا بِنِعْمَۃِ رَبِّكَ فَحَدِّثْ۝۱۱ۧ [٩٣:١١]  

 

 邦訳: 

慈悲深い,何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)”。

「(1~3): ”朝(の輝き)において,夜は静寂(せいじゃく)になった時において(誓う)。主は,あなたを見捨てもしてないし、あなたに対して気を悪くしていることもない。 

45): “きっと後の状態が、あなたのためには前より良いのです。やがて主は、あなたに充分満足して喜ぶほどのものを御授けになるでしょう。” 

611): 主は)あなたは、孤児(こじ)として見つけられて、庇護(ひご)されたではないか。あなたの迷っていた状況を発見して導きを与えたではないか。また貧しいあなたを裕福(ゆうふく)にされたではないか。だから孤児を虐げて(しいたげて)はならない。物乞いしているものをはねつけてはならない。断じて、あなたの主の恩恵を必ず述べ伝えなさい。」 

啓示された時期    

この章はメッカの一番初めの時期に啓示されたものです。宇宙全体を支配している唯一の神、アッラーから啓示を受け、預言者は疲れはてていたのです。啓示の光は強く、それに耐えられる事はそんなに簡単なことではありませんでした。この為、最初の啓示の後からしばらくは、神の言葉が啓示されませんでした。長い間、神と何の繋がりもないことを預言者(PBUH)は心配していたのです。そういう時期にこの章が啓示されました。

内容とテーマ 

 この章のテーマは、預言者モハッマドを慰めることです。長い間、神と何の繋がりもないことを預言者(PBUH)は心配していましたが、この章によってその心配はなくなりました。

初めに、昼の明るさと、夜の静けさの事を譬として誓って、預言者(PBUH)を安心させました。貴方の主は貴方を放っているわけではありません。昼の明るさと夜の静けさと同じく、人間の悲しみも喜びの時期も交互に訪れると言うことです。ですからあなたの主は、あなたに怒り、あなたに新しい啓示を出すのを辞めたわけではありません。

 この慰めの後、彼に吉報として知らされているのは、イスラームへダアーワや呼びかけの初めの時期に直面した、困難の苦しみの時期が長く続くことが無く一時的なことだったということです。いつでも、後から来る時期が前の時期より良い方向へ進むのです。後の時期では、神は自分の恵みがあなたに雨が降るように一杯与えます。それで貴方は凄く喜べるでしょう。これは、彼に対するアッラーの約束でした。 

 これは、聖クルアーンの、実際に現実的に証明されたいろいろな預言の中の一つです。 

93. (あさ) (アッドハー) の 解説

解説1:アッラーからこの吉報が知らされた時はほんの少ない人たちが預言者の仲間だった。そこの国全体の人が彼の敵になっていた。イスラ-ム教が普及される見込みまったくなかった。預言者のミッションが成功する可能性は全然見えなかった。イスラームの小さなろうそくの光がメッカ市だけで少し光っていた。それも吹き消すために周りからたくさん大きなタイフーンが襲っていた。こういう大変な時に、アッラーは預言者(PBUHに慰めているのが、この初めの時期のいろいろ苦労で心配しないで、後で来る全ての時期が前のどんな時期よりももっともっと楽の時期になる、と言うことです。彼の権力と名誉と影響力など全部が次から次の時期でだんだん良くなる方向に進んでいきます、というふうにアッラーに慰められた。

 一応この章の言葉は預言者(PBUH)に向かった形になっているが、聖クルアーンは審判の日まで人類の導きの為にあるから、この中に言っていることが信者さん皆の慰めにもなります。個人的に、どんな人もいろいろな面で困る時期がある。その皆が神ですから、自分が何も悪いことしてないのに困ったようなことがあった場合がある。そういう皆にも神、アッラー、は慰めている。この困る時期が一時的なもので、神があなたを放っておいた訳でもないし、またあなたに起こっている訳でもない。これが一時的な試みの時期です。それから神が自分のすべての者たちに、彼らが望んでいるものも与えるし、また彼らがこの世でもあの世でも幸せに喜ぶような状態にしてくれる。こういう臨んだものを与えられる喜びが予言者(PBUH)だけに限っているのではない。信者の皆さんに神のこの慰めと約束があてはまる。

 またこの約束がこの現世だけに限らないで、来世にも当てはまるのです。そこで与えられる恵みが現世より多いのです。 

解説2:少し遅くなることがあっても、貴方に貴方の主の恵みが雨のように多く降ります。こういう時期が来るのはそれほど遅くはない。この約束が預言者(PBUH)の生きている間でもかなり果たされました。アラビア全体に彼の権力が広がった。南の海岸から北のローマ帝国のシリヤ国境とペルシア帝国のイラーク国境まで、東にペルシヤ湾から西に赤湾まですべての地域がかれの権力の下に入っていた。アラビアのその時期までの歴史の中で、初めてアラビヤ全体が一つの法律のもとで支配されるようになりました。どんな勢力もこれにぶつかったら、それ自身が滅びてしまった。

 イスラームの第一信条「神はアッラーしかいない、モハッマドがアッラーの預言者である。」の反響でアラビヤの地域全体が沸上がっ(わきあがっ)た。多神教等と啓典の民の宗教を維持する努力が失敗しました。彼らは、無理やり軍事の力に負けて、頭を下げたではなくて、説得力によってイスラームの教えのことが良く分かった上で、心からイスラ-ムの真実性とそれで自分たちが現世でも、来世でも幸せになることを分かって入信した。 

 イスラーム教の教えに心から納得して入信した結果として、かれらの考え方、日常生活の仕方、行いと道徳にはラジカル的な変化が起こった。

 人間の全歴史の中で、ほんの23年ほどの短い期間で無知の野蛮みたいな民族が立派な人柄を持つようになった。信仰に基づいて、人の道徳の向上によって促進した預言者モハッマド(PBUH:彼に平安あれ)の運動は、凄い力で盛り上がった。その結果としてイスラームの生き方がアジア、アフリカとヨーロッパの大部分に普及したし、またこれらの大きな地域がイスラームの権力の下に入った。それ以外の世界のどんな地域でも、イスラームの教えの影響が広まった。それでイスラームが世界のスパーパワルとして十三世紀ほども長い期間続いた。十九世紀からイギリスの産業革命でヨーロッパの帝国主義が始まるまで世界を支配していたのはイスラームの権力だった。

 こういう歴史の流れで分かるのは、イスラームがただ精神を清める目的のためにある他の宗教と同じものではなくて、人間の政治、経済、社会のようなすべての場面の道徳の向上に基づいて改革していくイデオロギーでもある、ということです。 

 この章でアッラーは預言者モハッマド(PBUH)にあげる恵みの約束は、どういうふうに果たされたかが先に述べられた歴史の流れで明らかになります。これは彼が現世に受けた豊富な恵みのことですが、来世に与えられる恵みははかりしれないことになる、ということです。

解説3:この章の3節でアッラーが言っているのが、「主は,あなたを見捨てもしないし、あなたに対して気を悪くしていることでもない」。その証拠としてアッラーは、預言者(PBUH)が自分のお父さんがなくなって、彼が孤児になった時から彼の面倒を見ていたことを指摘している。彼はまだ生まれる前に、お母さんの体内に6か月の赤ちゃんだった時に彼のお父さんが亡くなった。彼はこの世にでてきた時から孤児として生まれていたが、アッラーは彼を一日もどうしようもない状態にしなかった。彼が6歳になるまで、彼のお母さんは彼を育っていた。その後彼が8歳になるまで、彼のおじいさんが彼を凄く可愛がっていた。それだけではなくて、かれのことが自慢話として周りの皆さんに、「自分のこの子が世界で何か大きな、素晴らしいことを成し遂げて、非常に世の中高い名誉の持ち主になるだろう、」と言っていた。そのおじいさんが死んでから、彼の本当の叔父は亡くなっていた親よりももっともっと可愛がっていた。彼が預言者(PBUH)になってからメッカの市民が彼の敵になった時の10年間の間にも、そのおじさんは自分が死ぬまで、彼の為に一生懸命に彼の敵から彼を保護していた。だから、そういうふうにアッラーは、彼が孤児になっていた時からずっと彼の面倒を見ていたことの慈悲と恵みのことを、ここで指摘している。 

94. 胸を広げる(アラム・ナシュラフ) 

章の説明:

本章名は,第1節に「あなたの胸を広げなかったか」とあることにちなみ名付けられる。前章の直後の啓示で,その論議の補足である。(ウマル・三田)

94. 胸を広げる(アラム・ナシュラフ)章の邦訳 

“慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)”。 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

  ۞ اَلَمْ نَشْرَحْ لَكَ صَدْرَكَ۝۱ۙ [٩٤:١] 

وَوَضَعْنَا عَنْكَ وِزْرَكَ۝۲ۙ [٩٤:٢]

الَّذِيْٓ اَنْقَضَ ظَہْرَكَ۝۳ۙ [٩٤:٣]

وَرَفَعْنَا لَكَ ذِكْرَكَ۝۴ۭ [٩٤:٤]

فَاِنَّ مَعَ الْعُسْرِ يُسْرًا۝۵ۙ [٩٤:٥]

اِنَّ مَعَ الْعُسْرِ يُسْرًا۝۶ۭ [٩٤:٦]

فَاِذَا فَرَغْتَ فَانْصَبْ۝۷ۙ [٩٤:٧]

وَاِلٰى رَبِّكَ فَارْغَبْ۝۸ۧ [٩٤:٨]

われは、あなたの胸(理解力と忍耐力)を広げたではないか?そして、おまえの(こし)壊れる(こわれる)ほど重荷を降したではないか。またわれは、あなたのにあなたの名誉高めたではないか。それゆえ、まことに困難に、必ず安楽もついていて、断じて間違いなく困難に、絶対安楽もついている。それで(当面日常務めから)になって、余裕があったときに、更に(お祈りと崇拝労苦努めて、只一筋に)あなたのに一心に傾倒(けいとう)しなさい。 

啓示された時期 

この章はメッカの一番初めの時期で啓示されたものです。宇宙全体を支配している唯一の神、アッラー、から啓示を受けると預言者の神経が大分疲れていたのです。啓示の光が強くて、それに耐えるのがそんな簡単なことではなかったのです、だから一番初めの啓示の後からしばらく何も神の言葉が啓示されなかったのです。長い間に神と何の繋がりもないことで預言者が心配していたのです。そういう時期にこの章が啓示されたのです。 

内容とテーマ 

 この章のテーマは、預言者モハッマドを慰めることです。長い間には啓示がなかったことで彼は心配していた。この章によってその心配をなくされた。 

一番初めに明るい日にちと夜の静かさの事を譬として誓って、預言者を安心させている。貴方の主は貴方をほっておいている訳ではない。昼の明るさと夜の静かさの現象と同じく、人間の悲しみと喜びの時期もかわりがわりに訪れる、と言うことです。だからあなたの主もあなたのことを怒って、あなたに新しい啓示を出すのを止めた訳ではない。 

 この慰めの後、彼に吉報として知らされているのは、イスラームへダアーワや呼びかけの初めの時期で直面している困難の苦しみの時期が長く続くことが無く、一時的なことだ、ということです。いつでも後から来る時期が前の時期より良い方向へ進むのです。後の時期では神は自分の恵みがあなたに雨が降るように一杯与えます。それで貴方は凄く喜べるでしょう。これは、彼に対するアッラーの約束だった。 

 これは、聖クルアーンの実際に現実的に証明されたいろいろな預言の中の一つです。 

テーマと内容の紹介: 

 この章が啓示された目的は預言者モハッマド(PBUH)を慰めようとするものである。この前の章ドハー(93)の啓示目的も同じであったのです。預言者(PBUH)になる前の時期では、かれがそういう状勢に直面したことがなかったのです。彼はイスラームの呼びかけが始まった途端に、思っても見ない情勢にぶつかったのです。この状態が彼の今までの暮らしの中で一番大変な苦しい時期だった。その時までの毎日の暮らしのなかでかれはそういう変化のことを想像も出来なかった。彼がイスラームのダアーワを始めた途端に、彼が凄い尊敬の目で見られていたのに、かれの周りの社会全体が、かれの敵になってしまった。彼を大事にしていた親戚や友達や同族の方々や隣近所の皆さんが変わって、彼のことを意地悪するようになりました。メッカ市では、誰もかれの話しを聞いてくれる人もいなかった。町のどこに行っても嘲笑いされていた。一歩一歩どこへ進んでもあらゆる難関や障害物とぶつかっていた。 

 徐々に彼はこれよりもっと厳しい困難に耐えるようになりましたが、一番初めに予測も出来なかったような、いきなり直面した、皆に尊敬の代わりに嫌われ、意地悪されるようになったことで彼はかなり悲しい思いをしていた。だから、先のドハー章(93)で、またそれの続きでこの章の啓示で彼が慰められた。 

 ここでアッラーは彼に三つの凄く偉大な恩恵を与えているのです。だから、それで彼が悲しむようなことがなくなるのです。その第一は胸を広げて理解力と忍耐力を増やしたと言うことです。第二は、預言者になるまえに彼の腰を壊していた,その精神的な重荷を彼からとった、と言うことです。第三は彼の名誉を高めたと言うことです。この第三の恩恵は、彼よりもっと多く与えられている他の人もいないし、また、彼と同じぐらいでも与えられている人もいないのです。この章のいろいろな節の解説の段階でこの三つの恩恵の事とその大事さのことも、もっと詳しく述べます。 

 その次にこの万有の主は、自分と預言者であるモハッマド(PBUH)に慰める言葉を伝えている。彼は安心させる為に、アッラーは、一つの大事な原則を彼におしえた。それは、彼が困難に直面しているこの時期があまり長く続くことが無く、苦しい時期と共に楽をする時期もそれと一緒に必ずついてくる、と言う事実が、神からかれに安心するように伝えられた。

 人間に対してこれは神の一つの大事な法則である。この法則は預言者(PBUH)のためにだけ特別にあるわけではない。無信者の方も含めて、どんな人間でも何か良い素晴らし目的のために一生懸命に努力しているならば、神が必ずある程度の試みの後で、その努力を実るようにする、と言うことはここで一つの原則のように、この章で皆に安心させている。 

 同じようなことが、預言者を安心させるために、神が別の表現でこの前のドハー章93でものべている。そちらの表現では、次の状況は前の状況より必ずよくなる、ということが神から定められた一つの原則だ、というふうに啓示されている。 

 それが預言者(PBUH)とすべての信者に困難の時がっかりしないで、安心するためにもう一つ別の原則も次の表現の形で述べているのです。それは、貴方の主はあなたに凄く喜ぶような恩恵を与える、という神から人間に対して一つの固い約束のことです。アッラーからそういう約束のことを信じている方が、現状ではどんなに大変な酷い目にあってもがっかりして病気もしないし、自殺の行為も考えないで、将来に対して不満の気持ちも持たないのです 

  この章の最後に彼はこの初期の大変な時期を乗り越えるために自分の中に精神的な力を育てるのに一つしか外の方法がない、ということを指図(さしず)されたのです。それは、日常(にちじょう)の仕事から楽になって余裕があった時に一所懸命にアッラーにお祈りと崇拝の一心に務めることです。 

94. 胸を広げる(アラム・ナシュラフ)章の解説 

 

解説1:胸を広げるという表現は二つの意味でとられるのです。その第一はあることに対してどうすれば分からなくて、迷って、決断出来ない状態から出てはっきりと物事が分かって、その道に自信を持って進む覚悟までいった精神状態の事です 

その第二は、自分が正しいと思った道に進むとあらゆる困難や障害物を見てそれ全部を乗り越えていくまでの自信と勇気が無くて、その大変さを畏れて、その道に進みたくてもなかなか進めない状態から出られて、どんなに大変でもそういう状態から抜け出せる気持ちになって、その為には、どんな犠牲でも払って、だんだん先へ先へ進んでいく自信と勇気を湧き上がった精神状態になることです。 

ここであなたの胸を広げたではないか?という質問の形でアッラーが預言者モハッマドにそういう両方の意味で精神力を与えた恩恵を完成していることを指摘しているのです。 

 彼の周りの皆が多神教だったので、彼は預言者(PBUH)になる40歳までは神に対して正しい道を自分の心で求めていた。その時でも彼は一神教の考え方をもっていた。特に40歳ごろになってから、彼一人でメッカ近辺のある山のあったヒラと言う洞窟の中に入って、いろいろな考えごとをしていた。その洞窟で初めてジブライルという天使により、彼が啓示をいただいて、預言者(PBUH)になった。その啓示で徐々にアッラーからいろいろ教えて貰った。そういう神からの啓示によって彼が自分の周りの社会の改善が一神教によって出来ると確信を持つようになった。それで彼の心にあった精神的な苦しみや悩みがなくなった。それは第一の意味で彼の胸が広がったことになります。 

 また彼は自分一人ぼっちで周りの悪い社会と世の中がどういうふうに一神教に基づいて改善出来るのかのことで悩んでいた。彼がそういう呼びかけを始めた途端に周りに皆が敵になって、彼が意地悪されたりいじめられたり、あらよる障害物と困難にぶつかるようにされたりしていた。それで彼は悲しんでいた。第二の意味では、彼の胸を広げたと言うことが、この恩恵がかれの苦しみと悲しみを無くして、彼を慰めて、彼が自分自身のミッションを完成する為にアッラーの応援がついてくるということでずいぶん勇気づけられた。 

解説2:世界中にかれの名誉を高められるということが言われたが、そのことがあの時期で誰にも想像もつかないようなことだった。砂漠のなかにある山々のメッカ市にほんのわずかな信者と一緒にいる方がこの世が終わるまでに名誉が高められていく、という予言が簡単に信じられないような話だった。けれども、この話がこの世の唯一の主アッラーから言われた一つの約束のことでもあった。その話が1500年前に言われたことだった。が、今だにそれの真実性を証明されているのです。 

 日本では町中の人に呼びかけるときは、特に小さな村の場合は、鐘を鳴らす習慣がある。また正月が始まった時でも各お寺で12月31日の夜の12時過ぎた途端に鐘を鳴らす伝統がある。しかし、イスラーム教では鐘を鳴らすことが無く、毎日5回のサラートや礼拝に呼びかける時に大きな声でアザーンをやることになっている。それを聞いて信者の皆さんが自分の家から出てマスジドやモスクと言われているイスラーム教の特殊な礼拝堂の方へ団体礼拝やサラートを皆と一緒にやる為に行く。信者の皆さんが毎日この呼びかけの声を聞いたら5回も自分の家から出て皆と一緒に団体サラートをやる為にマスジドへ行かなければいけない義務があるのです。 

 このアザーンではアラビア語でいろいろな呼びかけの良い言葉が使われている。そのなかの一つ呼びかけの時定められた言葉の中には、「私はモハッマドがアッラーの預言者である、ということを証言します」、と言うのもあるのです。今1500年経っても世界のどんな地域でもイスラーム教徒が住んでいるのです。彼らがいる所に必ず一つマスジドが自分の住んでいる場所の近くに建てられているのです。皆さんは毎日5回やるべき団体サラートの義務を果たすためにその定められた呼びかけ「アザーン」の声を聞いてから自分の家から出てそのマスジドの方へ行くのです。 

そういう形やきっかけで毎日世界のどんな地域でも彼の名前モハッマドと一緒に必ず(PBUH)や「彼にアッラーの平安があれ」、という言葉が尊敬の気持ちで皆さんが唱えているのです。それでアッラーから1500年前に預言されたことや約束が今でも果たされているし、またこの世が終わるまで彼の名誉がそういうふうに高めることがずっと永久に続くのです。 

        またこのアザーン以外にも毎日の5回のサラートの中にもモハッマド(PBUH)に対して彼「にアッラーの平安があれ」、と言うお祈りも含まれているのです。また、毎週金曜日の大きな集まりの時の「クトバー」や団体礼拝の指導者「イマーム」の話の時も「かれに平安があれ」のお祈りも必ずされているのです。

        また、一年の12か月の間には、24時間世界のどこかにサラートの5回の礼拝が行われているのです。そういうふうに彼の名誉がずっと24時間世界のどこかに高められているのです。

        また、これが1500年前に啓示された聖クルア-ンに書かれている言葉の真実性の証拠にもなるのです。このことが啓示された時には今に見えるかれの名誉の高まる方法と可能性のこともだれも想像も出来なかったのです。あの小さな砂漠の山々の町メッカに苛められた人物がそんなに名誉が高められたのが不思議な出来事ではないでしょうか?

        あるハヂス(預言者の言葉)によるとアッラーは言っているのが「自分の名前と一緒にあなた(モハッマド)の名前も唱えられる」と言うこともあるのです。それで、各信者の方がアッラーのこと唱える時になるべく彼の名前も口から出す耽美(たんび)に、必ず「彼に平安があれ」と言うお祈りする伝統を守っている。たとえ、わたしもクルアーンのこういうふうないろいろな解説を書いているときでもなるべく「彼に平安があれ」と言うお祈りや英語でPeace Be Upon Him の代わりに(PBUH)をかっこうで書いているのです。

        今20世紀と21世紀で見るともう一つの現象も見られているのです。それは正しいか、間違いか、の議論をべつにして客観的に見れば、一つの現象として存在していることが認識できるのです。それはモハッマド(PBUH)の名誉を汚そうとした人たちは殺されているし神に罰せられているのです。インドでも一人、フランスでも12人、デンマークでも何人が預言者モハッマド(PBUH)の諷刺画を出版して、彼の名誉をけなしたからイスラーム教の方々が自分のお父さんよりも、外のだれよりも、一番尊敬していた人物を貶されるのが我慢できないので人殺しをやってしまった。

日本でも筑波(つくば)大学の五十嵐(いがらし)教授も「悪魔の歌」と言う本を日本語で翻訳したから殺された事件があったのです。「The Satanic Verses」というこの本の元の英語版の作家「サルマーン・ルシュヂ」に対して現代イラーンの創立者、イスラームのシヤ派の学者「イマム・コメニ」が、この作家がモハッマド(PBUH)の名誉を貶したから殺されるべきだと言う「ファトワ」宗教判決が出していた。またその宗教判決にイスラーム教のスンニ派の学者たちの皆も賛成して、それが正しいファトワとして認めた。歴史上にそういうふうないろいろな事件があって、一回もモハッマド(PBUH)の名誉を貶すことが成功できなかった事実を誰も否定できないのです。

また日本で、よくわからないのに東京新聞が間違って預言者(PBUH)に対して仏で出版された情報として一つ風刺画を出版したことがあった。それで在日パキスタン協会と日本にいる他のイスラーム教の信者等から2回も東京新聞の事務所の前でデモをやったことがあった。それで東京新聞がそのデモの23日後に自社の新聞に謝罪を掲出した。

 そのあと東京のある出版社が預言者モハッマド(PBUH)を侮辱するような仏で出版されたいろいろ風刺画を日本語に翻訳して一つの本の形で出版した。それに反対してまた在日パキスタン協会と日本にいる外のイスラーム教の信者等から2回も新宿にあるその出版社の事務所の前でデモをやった。出版社が謝罪しなかったことから、また在日パキスタン協会が本の卸業界のいろいろ事務所の前でもデモをやった。最後にお互いの話し合いの結果としてその本を本屋さんに配ら(くばら)ないことになった。それでその本が売れることが出来ないで、出版社が大分損害を受けた。 

 日本人がキリスト教のヨーロッパ人と違ってイスラーム教に対して偏見な気持ちを待っていないからその本が本屋さんにも配られなかったし、それでその本を売ることも出来なかった。また東京新聞も簡単に謝罪しました。それがイスラーム教に対して日本人が偏見な気持ちがなくて、第三者として理解したい気持ちを持っている証拠になります。 

 そういうふうに21世紀にも日本を含めてのいろいろな出来事から聖クラアーンのこの話が立証されています。それは、神、アッラー、は、預言者ムハッマド(PBUH)の名誉が21世紀の日本でも持続している、ということです。 

 彼の名誉を守る為に自分の命も犠牲にしても良いと思っているイスラーム教の方々が自分の信仰の一つの義務と思っているのです。またイスラーム教ではそれを教えられているのです。イスラーム教の基本はアッラーを信じるだけではない。それと一緒に預言者モハッマド(PBUH)も信じて、アッラーとモハッマド(PBUH)両方の命令に従う義務があるのです。だから、彼の名誉を守る為に信者たちはいつでも自分の命をかけても良いと思っているのです。

解説3:このことが2回も繰り返して教えているのです。その目的がここで教えていることの真実性に確信もって、現時点の苦しみが一時的なものと思いなさい、と言うメッセージによって預言者モハッマド(PBUH)が慰められた。彼は急に周りの社会から苛められていた時期のはじまりだった。それは彼がイスラームの呼びかけを始めた途端にメッカ人が彼に対して今までの尊敬するようなことを止めて、嫌がらせするようになっていた。その時期に、アッラーから彼を安信させるようなことを啓示された。苦しみの後必ず楽になる時期がくる、ということが彼に神から確信された。

        普段苦しみと一緒に安楽もあると言うことが信じられないのです。この両方がお互いの反対の状況のことです。だから苦しみのあと安楽があるというよりも苦しみと共に安楽ついているという表現の目的は苦しみの時期があまり長くないと言うことを主張しているのです。もうすぐ楽になるから、いまの苦しみで心配しないで、それを乗り越えるようにもうしばらくの間頑張りなさい、と言うメッセージです。

        これは預言者(PBUH)に対してのメッセージだったが、普段どんな人間でも何かいい目標の為に努力しているならば、その最中で直面する試みと苦しみのことが一時的と思って、頑張っていれば、それと共に必ず目標達成の道も開く自信を持つべきです、という教訓が我々はクルアーンのこの教えから学んで勇気づけられるのです。

解説4:ここで外の仕事から余裕があった場合は神の崇拝と礼拝に集中しなさい、と言っているのです。だから、まじめに仕事するのもイスラームでは礼拝や崇拝と同じく宗教のいろいろな信条の中の一つと思われているのです。山の中に入って朝から晩まで神の名前を唱えることや崇拝だけに命をかけるような考えは好ましくないのです。仕事と言うことは社会的な責任をしっかりと果たす義務があると言うことです。イスラームでは、そういう責任から逃げて山の中に籠るのはいけないと思われているのです。 

 

95. イチジク (アッテイン)  

メッカで啓示された章 

 慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)”。 

Sura: At-Tin

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

وَالتِّيْنِ وَالزَّيْتُوْنِ۝۱ۙ [٩٥:١]

وَطُوْرِ سِيْنِيْنَ۝۲ۙ [٩٥:٢]

وَہٰذَا الْبَلَدِ الْاَمِيْنِ۝۳ۙ [٩٥:٣]

لَقَدْ خَلَقْنَا الْاِنْسَانَ فِيْٓ اَحْسَنِ تَقْوِيْمٍ۝۴ۡ [٩٥:٤]

ثُمَّ رَدَدْنٰہُ اَسْفَلَ سٰفِلِيْنَ۝۵ۙ [٩٥:٥]

اِلَّا الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ فَلَہُمْ اَجْرٌ غَيْرُ مَمْنُوْنٍ۝۶ۭ [٩٥:٦]

فَمَا يُكَذِّبُكَ بَعْدُ بِالدِّيْنِ۝۷ۭ [٩٥:٧]

اَلَيْسَ اللہُ بِاَحْكَمِ الْحٰكِمِيْنَ۝۸ۧ [٩٥:٨]

邦訳:“「イチジク(無花果(いちじく))とオリーブにかけて((解説1))ツール・シナイ山にかけて((解説2))また平安なこの町(メッカ市)において(誓う)。確かにわれは、人間を最も優秀な姿に創った。((解説3))それから、われらは、かれを低い者のうちでも一番最低な者として投げ落とした((解説4))ただし、信仰して善行をなした者は別である。かれらに対しては果てしない報奨(ほうしょう)があろう。それなのに、何がおまえにその後の(最後の審判の日の)裁きのことを嘘として、否定させるのか((解説5)) アッラーは、あらゆる支配者のうちに(すべてのものの)至上の支配者ではないか? 

(解説1):イチジクとオリーブが一番多く栽培されている地域パレスチナとシリアのことである。その地域の歴史のことを証拠として出して、ある大事な真実が次の節で語られている。 

(解説2):シナイ山の地域内でツールと言う小さい山があって、その場所で全能、唯一の御方アッラーはモーゼ預言者と直接話をした、と言う伝説が聖クラアーンの別の所で書かれている。 

(解説3:前の三つの節でいろいろな地域において誓って、この節ではそれの結論を出している。それは、この地域の歴史を証拠として出して、ここでそれの結論を述べられている。それは、人間がもともと悪者ではなく、非常に上等な道徳の持ち主として創造されたということです。アブラハームからイエス・キリストまでや預言者モハッマド(PBUH)まで、二千年から三千年の間に、その地域に現れたあらゆる預言者たちが殆どこの地域から出た者であった。人類の中に悪者もいっぱいいるのですが、このパレスチナとシリアとシナイ山とメッカなどの地域で過去二,三千年のあいだに生まれたあらゆる預言者の生き方を見ると立派な道徳の持ち主の存在が否定出来ない。と言うのは、このことは人間の性質が立派な人格をもてるように創られているということの証拠になるのです。

(解説4):この章の最後の2,3節で教えているのは、人間として、自分の元々の生まれつきの良い性質と立派な人格を維持して育っていくべきことが大事だ、と言うことです。それは信仰を持って善行を行った場合だけ可能になるのです。そうではなかった場合は人間の人格が動物よりもずっと低くなっていく、と言うことです。それで良い人格を持って生まれた人間が、信仰と善行を行わない場合は、最低な者になる、と言うことです。 

(解説5):人類の中に、そういうふうな二種類の人間がいる;善行を行う人と悪行(あくぎょう)を行う人。両方に対して報酬も罰もないならば、おかしいではないですか?何をやっても、何の報いもないならば、誰も苦労して善行に向かおうとしなくなる。世の中で悪だらけの社会が出来上がる。人間に平和な幸せな暮らしが無理になってくる。そういう事実が先の2,3節で指摘されている。人間が最高の良い人格持てることもできるし、またそれの反対に、最低のものになるような性質も持っている。だからこの両方の種類の人間が裁かれることがどうしておかしいと思うのか、ということがこの節の説明になるのです。 

 

 

 

 

96. 凝血 (アル・アラク 

Sura: Al-Alaq

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ  

اِقْرَاْ بِاسْمِ رَبِّكَ الَّذِيْ خَلَقَ۝۱ۚ   خَلَقَ الْاِنْسَانَ مِنْ عَلَقٍ۝۲ۚ  اِقْرَاْ وَرَبُّكَ الْاَكْرَمُ۝۳ۙ   الَّذِيْ عَلَّمَ بِالْقَلَمِ۝۴ۙ  عَلَّمَ الْاِنْسَانَ مَا لَمْ يَعْلَمْ۝۵ۭ  

كَلَّآ اِنَّ الْاِنْسَانَ لَيَطْغٰٓى۝۶ۙ  اَنْ رَّاٰہُ اسْتَغْنٰى۝۷ۭ  اِنَّ اِلٰى رَبِّكَ الرُّجْعٰى۝۸ۭ  

اَرَءَيْتَ الَّذِيْ يَنْہٰى۝۹ۙ  عَبْدًا اِذَا صَلّٰى۝۱۰ۭ  اَرَءَيْتَ اِنْ كَانَ عَلَي الْہُدٰٓى۝۱۱ۙ  

اَوْ اَمَرَ بِالتَّقْوٰى۝۱۲ۭ  اَرَءَيْتَ اِنْ كَذَّبَ وَتَوَلّٰى۝۱۳ۭ اَلَمْ يَعْلَمْ بِاَنَّ اللہَ يَرٰى۝۱۴ۭ  كَلَّا لَىِٕنْ لَّمْ يَنْتَہِ۝۰ۥۙ لَنَسْفَعًۢا بِالنَّاصِيَۃِ۝۱۵ۙ  نَاصِيَۃٍ كَاذِبَۃٍ خَاطِئَۃٍ۝۱۶ۭ  فَلْيَدْعُ نَادِيَہٗ۝۱۷ۙ  سَـنَدْعُ الزَّبَانِيَۃَ۝۱۸ۙ  كَلَّا۝۰ۭ لَا تُطِعْہُ وَاسْجُدْ وَاقْتَرِبْ۝۱۹ۧ۞ [[۩]]

 

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

[-]読め((解説1))あなたの主の御名において、(その主こそが)「あなたを創造なさった。(いち)凝血(ぎょうけつ)から人間を創造した((解説2))読め、あなたの主は、最高の(そん)()であられ、筆によって知識と学問の道を開いた御方((解説3):)何も知らなかった、人間にすべての智識(学問)を教えた」((解説4)) 

[-19]「断じて、まことに人間は、(神に対して)凄く反逆的である。それは、(神に頼らなくても)自分自身の力でなんでも出来るだろうと思っているからです。(けれども、神に対していくら反逆していてもいずれ)きっとあなたの主の()(もと)に(すべての者は)必ず戻されるのである。 

 あなたは、阻止する者を見たか、一人の(しもべ)(ムハッマドPBUH)が、礼拝をしたい時にそれを妨げようとした。かれ(礼拝していた者)が、正しい道)に導かれていているのに、あるいは、かれが敬神(けいしん)を勧めていているのにも、(こういうふうに防止されるべきなのか、)ということがあなたは見ていないのか?また、(真理が)嘘であるとして背を向けた者のことも見ていないのか?(こういう善と悪をやっている二人のような方々のことが) アッラーがきっと見ておられることを知らないのか。 断じてそうではない。もしかれが(そういう行為から)止まらないのであれば,われは、額の前髪でかれを捕えて引っ張るであろう、嘘付き,罪深い額を。それで、かれは(自分の救助(きゅうじょ)のために)己の寄り合いを呼び集めよう。われらも火獄の使いを呼び集めよう。断じて、あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け((解説5))〔サジダ:この節を読んだ場合は、読者が必ずサジダをする義務がある。 

章の内容 

本章名は,第2節の言葉にちなみ名付けられる。また第1節の冒頭の言葉により読誦〔イクラア〕章とも呼ばれる。第15節はヌール山頂のヒラーの洞窟で聖預言者(PBUH)に最初に下された啓示である。それ以下の第619節は,啓示の中断以後に下さったものである・・・・・・・(ウマル三田解説)。 

(解説1)預言者モハッマド(PBUH)が40歳ごろに人間の未来と社会の状況の改善のようないろいろな課題に対して関心が深くなった。それで彼は町から離れた山の方へ行って、そちらにあったヒラーと言う洞窟に入って、そこでいろいろ考え事をしていた。彼は人間の未来と社会の改善に対して熱心に導きを探し求めていた。ある日、ジブリール(聖霊)と言う大切な天使がアッラーからの使徒としてその洞窟に現れた。彼は一番初めにこの五つの節を預言者(PBUH)に教えた。それで聖クラアーンの啓示が始まった。その後23年の間に、預言者(PBUH)が死ぬ時までに、徐々に聖クルアーンが全部啓示された。その啓示がそういうふうにジブリール(聖霊)と言う大切な天使を通して、また直接受けたこともあった。 

(解説2)例えば、この節で指摘しているように、人間はどういうふうに、あるいは、どのような材料によって創られたかということを考えると、神の偉大さがある程度理解できる。全能の神の力と知恵で、ただ一凝血で創られた人間が、そんなに威張って、神に背くべきか? 

(解説3また知識や学問が得られた場合は、人類と宇宙のすべての者の創造主アッラーの偉大さが分かるのです。イスラーム教ほど知識と学問を大事にするような宗教は他にあまり見受けられないのです。人類の発達と導きの為に、知識と学問の大切さを、神は一番初めの啓示で指摘していて、その五つの節の中から四つの節が知識に対してであるのです。 

 イスラ-ムには坊さんたちの思いに任せることはない。また坊さんたちに従うことではなくて、基本的に坊さんたちも先に同じ主に従って、聖クルアーンを勉強して、それに基づいて宗教の知識を得てから、人に教えるように制限されているのです。だからイスラーム国家がシャリヤと言う、良く研究されたイスラーム法律に対して詳しい方々の指導に基づいて建設するべきです。キリスト教みたいに神権政体や神政国家ではない。 

(解説4イスラーム教が始まったのはこの五つの節であった。それらの特徴はなんでしょうか?先程述べられたように、この五つの節のなかで四つの節には、知識と学問と読誦(読め)の話があるのです。また聖クルアーンでもいろいろな自然現象の素晴らしさと自然法則に基づいて宇宙にある秩序の事を指摘している。そういうことと、またできるだけ山ほどのあらゆる知識と学問を得て、全能の唯一の神アッラーの存在と偉大さのことを認めるようにしているのです。それで、その御方こそが自分と全人類の主であると言うことが理解できます。だから、その御方のだけに従って、かれだけを褒め称える(ほめたたえる)べきだ、と言うことを教えているのです。 

(解説5)この邦訳の一番初めに書いているように、聖クラアーンのいくつかの節の後で、サイドラインではサジダという言葉が書かれています。聖クラアーンを読誦しているときにその箇所まできた場合は、5回の礼拝の時に頭を下げて大地までもっていく動作と同じくサジダをするべきです。この詳しい解説は、この本の一番初めの部分をご覧ください。 

 その偉大な御方から授けられた元の言葉と内容を理解した上でそのまま読誦し続けている時には、その内容の素晴らしさの影響を受けて、なんとなく人間の心や気持ちが神の前に頭を下げて主のことを褒め称えるようになります。 

97. アル・カドル章

 

Sura: Al-Qadr

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اِنَّآ اَنْزَلْنٰہُ فِيْ لَيْلَۃِ الْقَدْرِ۝۱ۚۖ [٩٧:١]  وَمَآ اَدْرٰىكَ مَا لَيْلَۃُ الْقَدْرِ۝۲ۭ [٩٧:٢]  لَيْلَۃُ الْقَدْرِ۝۰ۥۙ خَيْرٌ مِّنْ اَلْفِ شَہْرٍ۝۳ۭؔ [٩٧:٣]  

تَنَزَّلُ الْمَلٰۗىِٕكَۃُ وَالرُّوْحُ فِيْہَا بِـاِذْنِ رَبِّہِمْ۝۰ۚ مِنْ كُلِّ اَمْرٍ۝۴ۙۛ [٩٧:٤]   سَلٰمٌ۝۰ۣۛ ہِيَ حَتّٰى مَطْلَــعِ الْفَجْرِ۝۵ۧ [٩٧:٥]

 

 慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「誠にわれは,カドルの(人間を含めてすべての者の運命を定められる重要な)夜に,この(クルアーン)を下さった((解説1))カダルの夜がどういうものなのか、それ(の大事さ)が、あなたが何を分かっているのですか((解説2))カドルの夜は、千月よりも優る((解説3))(その夜)天使たちと聖霊(ジブリール天使)は,主の許しのもとで、全ての[者の運命を定められた)神命を持って下る((解説4))その夜が、夜明けまでには、平安(と祝福)の夜である。]

章の説明 

本章は,クルアーンが最初に啓示された大事な夜に全世界を照すことになった,御光の輝きを立証するにちなみ名付けられたマッカ時代の啓示である。暗黒の世の中に,啓示が下されたのである。アッラーの慈悲を現わす、 ・・・・・・・・・。(ウマル三田解説) 

(解説1):イスラーム教の悪口を書いている西洋の学者たちは聖クルアーンが預言者モハッマド(PBUH)は自分自身の考えで書いたという嘘を広げているのです。がここではそういうことを否定されているのです。これはどんな人間も出来ないような内容のものであるのです。これが出来るのはアッラーのみの力と知恵と計画のお蔭です。 

 そういう嘘を否定するために一番良い証拠がアッラーは字を書くことも読むことも出来ないような方、モハッマド(PBUH)、を預言者として定めたことです。字も書くこと読むことも出来ない方がどういうふうに聖クルアーンみたいな素晴らしい教えを生み出せるのですか?だからこの章の一番初めにこれが, モハッマド(PBUH)の書いたものではなく、アッラーから啓示されたことを明らかにしているのです。

 この事実のもう一つの証拠もあるのです。聖クルアーンの一番短いアル・カウサルという第108章をメッカのカーバー神殿の壁の所にぶら下げておいて、預言者モハッマド(PBUH)は無信者の皆様にこの章と同等な文学的な何か文章をだすようにと、挑戦したことがあった。がアラブのすべての文学者が自分の負けを認めて、自分たちがそれを出来ないということを告白したのです。それでイスラーム教の反対者も聖クルアーンと同等な文書の一節もどんな人間も作れないということを立証したことになります。これがいつまでも偉大な御方から下さったものであるという結論になるのです。 

(解説2):聖クルアーンが人類のために一番初めに啓示された夜のことはカドルの夜と言われています。それは前章(第97号アル・アラク)の一番初めの五つの節のことです。その時からずっと23年をかけて全クラアーンが啓示されたのです。 

 断食の月ラマダンの最後の十日間のどちらか一つはそのカドルの大事な夜だ、と言われているのです。その中で一番可能性の高いのは、ラマダンの21日目や23日目や25日目や27日目や29日目だ、といわれているのです。ラマダンの月には、毎晩20ラカート(回)の団体(ジャマート)の礼拝で、[ハフィズ]といわれている、聖クラアーンを全部を暗記している方々が、各モスクや教会でおもに1/30を読誦しているのです。それは世界中の殆どのモスクでは27日目で終わるようにしているのです。それはどういう訳だろう?その27日目の夜はカドルの夜になるだろうという可能性が、この十日間の中で、一番高いだろうと思われているからです。

 その大事な夜に世界中のイスラーム教の信者たちは、出来る限り朝まで起きていて なるべく礼拝したり、聖クルアーンを読誦したり、宗教の偉い先生の話を皆が団体で聞いたり、また個人的に自分の人生の過去の過ちや罪のことを反省して、アッラーの許しを求めたりしているのです。その夜はアッラーが人類から一番近い天に降りて、信者たち皆さんのお祈りや願い事を聞いてくれることになっている。またみなの罪を許すだろうと言われているのです。それはこの章で言っているように、聖クラアーンがその夜に人類に与えられたので、一番祝福の夜と思われているからです。 

(解説3):アラビア語では、こういう表現を計算して、ただ1000月の数に限られないで、ずっと長い年数のことの意味で使われているのです。 

(解説4):カドルの夜のもう一つの大事な点は、この聖クラアーンが一番初めに啓示された夜に全人類とすべての生き物と宇宙の中に存在しているすべてのものの来年の同じカドルの夜までの運命を定められた神令を持って使徒ジブリルと外の天使たちが降りて来ると言うことです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

98. 明証(アル・バイイナ 

Sura: Al-Bayyina

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

لَمْ يَكُنِ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا مِنْ اَہْلِ الْكِتٰبِ وَالْمُشْرِكِيْنَ مُنْفَكِّيْنَ حَتّٰى تَاْتِيَہُمُ الْبَيِّنَۃُ۝۱ۙ [٩٨:١]

رَسُوْلٌ مِّنَ اللہِ يَتْلُوْا صُحُفًا مُّطَہَّرَۃً۝۲ۙ [٩٨:٢]   ِيْہَا كُتُبٌ قَيِّمَۃٌ۝۳ۭ [٩٨:٣]

وَمَا تَفَرَّقَ الَّذِيْنَ اُوْتُوا الْكِتٰبَ اِلَّا مِنْۢ بَعْدِ مَا جَاۗءَتْہُمُ الْبَيِّنَۃُ۝۴ۭ [٩٨:٤]

وَمَآ اُمِرُوْٓا اِلَّا لِــيَعْبُدُوا اللہَ مُخْلِصِيْنَ لَہُ الدِّيْنَ۝۰ۥۙ حُنَفَاۗءَ وَيُقِيْمُوا الصَّلٰوۃَ وَيُؤْتُوا الزَّكٰوۃَ وَذٰلِكَ دِيْنُ الْقَيِّمَۃِ۝۵ۭ [٩٨:٥]

اِنَّ الَّذِيْنَ كَفَرُوْا مِنْ اَہْلِ الْكِتٰبِ وَالْمُشْرِكِيْنَ فِيْ نَارِ جَہَنَّمَ خٰلِدِيْنَ فِيْہَا۝۰ۭ اُولٰۗىِٕكَ ہُمْ شَرُّ الْبَرِيَّۃِ۝۶ۭ [٩٨:٦]

اِنَّ الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ۝۰ۙ اُولٰۗىِٕكَ ہُمْ خَيْرُ الْبَرِيَّۃِ۝۷ۭ [٩٨:٧]

جَزَاۗؤُہُمْ عِنْدَ رَبِّہِمْ جَنّٰتُ عَدْنٍ تَجْرِيْ مِنْ تَحْتِہَا الْاَنْہٰرُ خٰلِدِيْنَ فِيْہَآ اَبَدًا۝۰ۭ رَضِيَ اللہُ عَنْہُمْ وَرَضُوْا عَنْہُ۝۰ۭ ذٰلِكَ لِمَنْ خَشِيَ رَبَّہٗ۝۸ۧ [٩٨:٨]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

[信仰を拒否しているような、啓典の民の中も、多神教徒の中にも、何か明証(や証拠)が来るまで、自分の無信仰の立場から離れようとしなかった。(その明証や証拠としては、)アッラーから定められた、御使い{預言者ムハッマド(PBUH)}である。彼は、純聖な書巻(しょかん)を、読んで聞かせている。その中には,真理を語られた正しい教えが書かれている。けれども、啓典で真理(や信仰)のことがいくらあったにもかかわらず、以前啓典を授かっている者たちが、分裂と分派した。それは,明証や証拠が、かれらに届いた後からのことであった。かれらに命じられたことは,只アッラーに仕え,かれに信心の(まこと)を尽し,純正に服従,帰依(きえ)して,礼拝の務めを守り,定めの喜捨をしなさいと,言うだけのことであった。これこそ宗教の真正な教えである。啓典の民の中にも、多神教徒のなかにも,{預言者ムハッマド(PBUH)のことを}拒否した人たちは地獄の火に投げ込まれて、その中に永遠に住む。かれらは、全ての生き物の中で、最悪の者である。だが信仰して善行に勤しむ(いそしむ)者たちは、全ての生き物の中で、最善の者である。かれらへの主からの報酬は、その下を川が流れる常住(じょうじゅう)の園である。かれらは、永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらに満悦(まんえつ)し、かれらもかれに満悦している。それは主を畏れる者(への報奨)である。]

章の内容 

 第96章アル・アラクと第97章のアル・カドルの後にこの章の順番のことには非常に重要な意味が含まれているのです。アル・アラク章には、最初の啓示で知識と学問を大事にして、アッラーの存在と宇宙と人類の皆の主として信じるように、と言う話があった。その次にアル・カドル章には聖クルアーンの啓示の始まりによって、人類の歴史に大きな変化があった。また人間と宇宙にあるすべての皆の運命の定められることの大事さを教えた。それから今度、誰か一人の方が預言者として現れるのが人類の幸せのために必要だった、と言うことがこの章で明らかにしているのです。 

 人類の導きのためにモハッマド(PBUH)みたいな一人の方が預言者として、この世に現れることがなかった場合は、どんな人間も迷ってしまう可能性が非常に大きかった筈です。この世でも来世でも幸せな生き方の導きのために、その御方、人類の主から定められた誰か一人のお方が、預言者として現れることが必要です。 

 このこと以外にもこの章の内容としてほかのいろいろな話があるのはのちほどいろいろな解説で分かることができるのです。 

(解説1):経典の民、キリスト教とユダイヤ教等と共に多神教等も両方が何か証明や証拠がない限り自分たちは信仰するかしないかの判断が出来ないと言っていた。モハッマド(PBUH)の預言者として現れること自体がかれらのこう言う言い訳の答えになるのです。 

 ここではモハッマド(PBUH)の預言者として現れる現実事態が一つの明るい証拠だと言っているのです。彼がアッラーの方から定められた預言者であるかないかの判断をするために、彼の生き方と彼の生涯の間に実現した実績の中にそれの記述がいっぱいあるのです。彼は40歳で預言者として定められる以前の、それの後の彼の日常生活の生き方を見ると、非常に率直な正直な人間に見えるのです。彼は字も書くことも読むことも出来ないのに聖クルアーンみたいな立派な教えを生み出したのは彼個人の力や知恵ではなかった。彼の教えとかれの教育と訓練の仕方によって、彼の信者と仲間たちが理想的な、立派な道徳の持ち主に入れ替わった。彼は相手が納得出来るような信仰の話、まただれでも自分自身を清めるようないろいろな礼拝とお祈りの仕方を教えた。またどんな法律やイデオロギーも、どんな経済や政治や社会精度よりも優るようなイスラーム法律と社会制度を与えた。彼の話と行動の間には、何の矛盾もなかった。メッカ市で彼と彼の仲間がいくら苛められても、いくら迫害されても、またメッカ市の多神教等から金や地位や女のようなどんなに欲深い話や誘惑が提供されてもそれに負けないで、自分のダアーワーを広げることと、イスラームへの呼びかけの活動を止めなかった。またメヂナー市でのイスラーム国家があらゆる無信者の敵から何回も軍事攻撃されていても、それをうまく防衛して、その国家をイスラーム法に基づいて成立して、そこで平等と正義と言論の自由を実現し、また貧困(ひんこん)もなくすような内容で、理想的な国と社会を創った。こういうふうにモハッマド(PBUH)の63年の生涯を見ると彼の実績が、誰でも一般の人が出来るようなものではない、ということがはっきりと分かるのです。彼の生涯と一生の生き方と実績が、彼は全能の唯一の神アッラーの方から定められた預言者であったということの証拠になるのです。 

(解説2):経典の民が信仰する為に何の印や証拠がないから、真実が分からないので、分裂した訳ではなかった。この理由づけは、ただ一つの言い訳に過ぎない。彼らは信仰の証拠を全部見て、それの内容を良く分かっても、それをわざと拒否した。分からないで信仰しないことと、何でも全部分かっていても拒否することはだいぶ違います。かれらは預言者モハッマド(PBUH)の生涯と、彼の生き方と、実績を見て、彼が本当に神から定められた預言者である、ということが良く分かっていても拒否していたのです。 

 

 

99. 地震(アッ・ザルザラ)

邦訳 

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。  

Sura: Az-Zalzala

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اِذَا زُلْزِلَتِ الْاَرْضُ زِلْزَالَہَا۝۱ۙ [٩٩:١]    وَاَخْرَجَتِ الْاَرْضُ اَثْقَالَہَا۝۲ۙ [٩٩:٢]    وَقَالَ الْاِنْسَانُ مَا لَہَا۝۳ۚ [٩٩:٣]

يَوْمَىِٕذٍ تُحَدِّثُ اَخْبَارَہَا۝۴ۙ [٩٩:٤]    بِاَنَّ رَبَّكَ اَوْحٰى لَہَا۝۵ۭ [٩٩:٥ [  يَوْمَىِٕذٍ يَّصْدُرُ النَّاسُ اَشْتَاتًا۝۰ۥۙ لِّيُرَوْا اَعْمَالَہُمْ۝۶ۭ [٩٩:٦]     فَمَنْ يَّعْمَلْ مِثْقَالَ ذَرَّۃٍ خَيْرًا يَّرَہٗ۝۷ۭ [٩٩:٧]

 
وَمَنْ يَّعْمَلْ مِثْقَالَ ذَرَّۃٍ شَرًّا يَّرَہٗ۝۸ۧ [٩٩:٨]  

 

[大地がぐるぐる激しく揺らされるとき、大地がその重荷を投げ出し、人間はこれに[大地に]何があったのか、というとき、その日(大地は)全ての消息(しょうそく)を語ろう。それは、あなたの主が[大地に]そういう命令を下さったからであろう。その日,人びとは分別された集団となって進み出て、かれらの行いが彼らに見せつけられる。一つの微塵(みじん)だけの重さの善行でもなした者はそれを見る。一つの微塵だけの重さの悪行でもなした者はそれを見る]

 

章の内容 

 イスラーム教の考え方によると第一回目の大地震でこの世の中全部が滅びて、人間を含めて生き物が皆死んでしまうのです。また第二回目の大地震で人間は皆蘇えるのです。この章でこの二回目の大地震の時に、大地が自分の中のすべての「重荷(おもに)」を投げ出してしまうのです。ここで「重荷」と言う言葉が「人間のすべての所業」の意味で使われています。この時に、大地は人間のすべての行いも出しておいて、それの証人にもなるのです。人間はこの大地の上にやったすべての所業のことを大地がそれの証人として提供するのです。その時人間の一つの微塵ほど小さい行いに対しても報いや処罰を受けることになっています。 

 

(解説1):審判の日には、どんなに小さな良い行いや悪い行いがあっても、それが全部清算されるのです。ただし善行の場合は何倍にも見られ、悪行の場合はその分だけが一つとして計算に入れられるのです。またアッラーが慈悲深いので、人間に対して凄く親切であるから、悪行のいくらか、何か代わりの善行の良い成績のお蔭で許してくれるのです。また、人間が反省して二度と同じ悪行(あくぎょう)をしないというような決心をした場合は、悪い行いの大部分が許されることもかなりあるのです。ただし、悪い行いの結果として、だれか被害者が出た場合は、その被害者から許して貰わない限り、神アッラー、は許さないことになっている。 

 こういうふうに許して貰うことがたくさんあってからの清算の仕方によって、人間の悪行の重さが段々減っていて、善行の重さがだんだんに重くなっていくのです。何らかの形で微塵ほど小さな行いでもあれば、それも必ず清算の対象になるのです。 

 信仰の無い者は来世の考えをもたないので、そういう方が来世を目標として何もやってないから、どんなに現世で善行をして来ても、そういう方のためには来世で何の報いもないのです。その方自身もそういう可能性を元々信じてなかったのです。だから彼自身も来世で何か報いを貰うような何の期待ももってなかったので、彼に対してそのとおりの結果が出るのも当たり前のことになるのです。 

 神は人間に対して正義を行うので、そういうふうな信仰の無い方の善行の報いが、この現世であらゆる幸せと彼の希望どおりの物質的な報いがお金や財産や地位や子供や健康などの形で与えられるのです。 

 

 

 

 

 

100. 進撃する馬 (アル・アーディヤート)

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

Sura: Al-Aadiyaat

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

وَالْعٰدِيٰتِ ضَبْحًا۝۱ۙ [١٠٠:١]

فَالْمُوْرِيٰتِ قَدْحًا۝۲ۙ [١٠٠:٢]

فَالْمُغِيْرٰتِ صُبْحًا۝۳ۙ [١٠٠:٣]

فَاَثَرْنَ بِہٖ نَقْعًا۝۴ۙ [١٠٠:٤]

فَوَسَطْنَ بِہٖ جَمْعًا۝۵ۙ [١٠٠:٥]

اِنَّ الْاِنْسَانَ لِرَبِّہٖ لَكَنُوْدٌ۝۶ۚ [١٠٠:٦]

وَاِنَّہٗ عَلٰي ذٰلِكَ لَشَہِيْدٌ۝۷ۚ [١٠٠:٧]

وَاِنَّہٗ لِحُبِّ الْخَيْرِ لَشَدِيْدٌ۝۸ۭ [١٠٠:٨]

  ۞ اَفَلَا يَعْلَمُ اِذَا بُعْثِرَ مَا فِي الْقُبُوْرِ۝۹ۙ [١٠٠:٩] 

وَحُصِّلَ مَا فِي الصُّدُوْرِ۝۱۰ۙ [١٠٠:١٠]

اِنَّ رَبَّہُمْ بِہِمْ يَوْمَىِٕذٍ لَّخَبِيْرٌ۝۱۱ۧ [١٠٠:١١]

吐く息荒く進撃する(馬)において(誓う)。(ひづめ)に火花を散らし、夜明けに略奪(りゃくだつ)して、砂塵(さじん)を巻き上げ、あらゆる町の真っただ中に(強奪の為に)突入する(馬において誓う)。まことに人間は,自分の主に対し恩知らずである。そして、まことに、そのことに関しては、かれ自身が証言者でもあります。また、まことに、(彼は欲深く)富を愛することに熱中している。かれは墓の中のものが暴き出される時のこと(解説1)、また胸の中にあるものが、暴露(ばくろ)され、それを評価されること(解説2)を知らないのか? まことに彼らの主は,その日,彼らについて全てのことをご存じでおられる。 

 

章の内容 

この章で馬の話しを出して、その時のアラブで平和のない、不安な状態を表しているのです。いきなり、夜明けから馬に乗って強盗(ごうとう)等に、強奪される恐れが、どこの町にもあったのです。こういう不安な状態の原因は、人間が欲深くて、冨を愛して、それに熱中になって、神に対して恩知らずになっている、という事が指摘されているのです。来世の処罰のことを信じないから、こういうことが起こって、不安な状態が終わらないのです。 

解説1:これの意味は、亡くなっているすべての人間が蘇られて、生きた人間になって自分の墓から出てくる、ということです。 

解説2:これの意味は、人間が自分の良い所や悪い行いの裏に、自分の心の中に隠しているすべての考えや目的や動機のこと全部を表に出させられる、ということです。 

 心の中に隠れた目的や動機に基づいて判決を出すことは、現世のどこの裁判所も出来ない。審判の日には、神アッラーがそれを表に出して、その証拠を基にして、一番適切な正義を行って、報酬や処罰を決定する。 

101章: 大打撃 (アルーカーレアー)

 

Sura: Al-Qaari'a

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اَلْقَارِعَۃُ۝۱ۙ  مَا الْقَارِعَۃُ۝۲ۚ  وَمَآ اَدْرٰىكَ مَا الْقَارِعَۃُ۝۳ۭ   يَوْمَ يَكُوْنُ النَّاسُ كَالْفَرَاشِ الْمَبْثُوْثِ۝۴ۙ  وَتَكُوْنُ الْجِبَالُ كَالْعِہْنِ الْمَنْفُوْشِ۝۵ۭ  

فَاَمَّا مَنْ ثَــقُلَتْ مَوَازِيْنُہٗ     

 ۝۶    فَہُوَفِيْ عِيْشَۃٍ رَّاضِيَۃٍ۝۷ۭ  وَاَمَّا مَنْ خَفَّتْ مَوَازِيْنُہٗ۝۸ۙ   فَاُمُّہٗ ہَاوِيَۃٌ۝۹ۭ  وَمَآ اَدْرٰىكَ مَاہِيَہْ۝۱۰ۭ  نَارٌ حَامِيَۃٌ۝۱۱ۧ  
 

 

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「ある大打撃!その大打撃と言うのは何か?その大打撃は何であるのか、それのことをあなたは何が分かるのですか?その日は、人間が(ろうそくの周りに散らすような)昆虫(こんちゅう)みたいに散らされるし、山々があらゆる色彩に富んだ羊毛(ようもう)に覆われるようになる。また、(善行で)重り(おもり)の重い者が、幸福で満ち足りて暮らすであろう。だが(善行で)重りの軽い者の場合は、地獄のどん底が彼の(さと)になるのであろう(解説1)その地獄のどん底がどういうものなのか、貴方はご存じですか?それは焦熱(しょうねつ)(地獄)の火(であろう))

(解説1):前章の解説で信仰のない者の現世と来世の清算の話があった。この章ではこれに関してもう一つの場面を明らかにされているのです。それは信仰があるかないかによってその清算の重さが大分変るということです。 

 信仰のないものは、来世で何か良い行いの報酬を貰う、ということを信じても考えてもないのです。だから、そういう人が現世でいくら善行を行っても、彼の考えどおりに、来世で何の報酬も貰えないのです。現世で彼の善行の報酬として、神様アッラーは、彼の期待通りに、彼の現世が幸せにして暮れることがあります、が彼の悪い行いが清算されて、来世で彼が処罰の対象になるのです。 

信仰がない場合は悪の重さがあまりにも重くて、無信者がどんなに沢山の善行を現世でしていても、それの報いは現世で幸せな暮らしの形で、やまほど貰えるのですが、来世ではその善行の重さがゼロみたいになるのです。信仰がないという悪が非常に重いと計算されるので、それを軽くするために善行がいくらあっても、そういうふうな善行が無信仰の悪を少しも軽くすることが出来ないのです。  

また逆に信仰のある方の場合は、その善の重さがあまりにも重いので、いくら悪の重さがあっても善の重さに優らないようになるのです。  

来世では、現世で行って来た人間の善や悪の行いの報いや罰も大事ですけれども、一番決定的な善や悪が何かというと、それは信仰があるかないかの善や悪のことであるのです。 またちりほど小さな善行や悪行があれば、それも必ず報いや処罰の為に清算されるのです。 

Sura: At-Takaathur

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اَلْہٰىكُمُ التَّكَاثُرُ۝۱ۙ [١٠٢:١]

حَتّٰى زُرْتُمُ الْمَقَابِرَ۝۲ۭ [١٠٢:٢]

كَلَّا سَوْفَ تَعْلَمُوْنَ۝۳ۙ [١٠٢:٣]

ثُمَّ كَلَّا سَوْفَ تَعْلَمُوْنَ۝۴ۭ [١٠٢:٤]

كَلَّا لَوْ تَعْلَمُوْنَ عِلْمَ الْيَقِيْنِ۝۵ۭ [١٠٢:٥]

لَتَرَوُنَّ الْجَــحِيْمَ۝۶ۙ [١٠٢:٦]

ثُمَّ لَتَرَوُنَّہَا عَيْنَ الْيَقِيْنِ۝۷ۙ [١٠٢:٧]

ثُمَّ لَتُسْـَٔــلُنَّ يَوْمَىِٕذٍ عَنِ النَّعِيْمِ۝۸ۧ [١٠٢:٨]

102.蓄積(アッ・タカースル)

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

邦訳 

「あなたがたは(財産や地位や息子などのようないろいろな現世の欲深いものの)貪欲(どんよく)な蓄積の為に、気が狂うほど夢中になって(それの始末のことに関して無頓着(むとんちゃく)になって)いるだろう((解説1))いずれ墓に追い立てられるまでも(その競いあいで夢中になっているのであろう)((解説2))断じて、(いや)もうすぐあなたがたは(そういう生き方の始末のことを)知るであろう。また言おうか,断じて、(いや)あまり長い時間がたたないうちに、もうすぐ、あなたがたは(そういう生きかたの始末が)分かるのであろう。断じて、あなたがたは確信の智識ではっきりと(そういう生き方の始末のことを)身に着けたならば(そういう生き方の結果として、)火獄を必ず見るのであろう。また言おうか,あなたがたはそれを明確に(自分自身の)目で(自信をもって)絶対に見るであろう。その日あなたがたは、 (神からこの世で与えられた)全ての恵みの扱いに関して必ず問われるのであろう」((解説)) 

章の説明         

貪欲(どんよく)な蓄積のために,人間の真の目的から迷い去る者に対する警告である。こんな者は災難によって覚醒(かくせい)させ,救うほかない場合が多い。この点前章と密接な関係がある。・・・・・・・・・・本章はマッカ最初期の啓示に属する。 (ウマル三田了一解説) 

森の中の動物は朝から晩まで獲物を探しているのです。彼らの毎日の生活はそれだけでずっと忙しいです。無信仰の人間の毎日の活動も動物みたいに毎日貪欲な蓄積で忙しいです。死ぬまでそういう事で忙しいのは、人間の生涯の虚しさ(むなしさ)に現れているのです。目が覚めて自分の生涯のことを振り替えてみると自分が何のために生まれて来たのかが疑問として残るのです。現世でそんな悲しい人生のあとには、また来世でそういうふうな人間が地獄に行くと言うことをこの章で教えているのです。だからこの章の教訓がそういうふうな結末に当たらないように暮らすべきです。それは信仰をして善行で自分自身を忙しくしたほうがいいという教訓になるのです。 

(解説1):現世の幸せのため神から授けられたいろいろな恵みは、人間の試みのためにある。これらが授けられた後に、どういうふうに使い果たしたのか、それを来世で問われることとなる。が、人間は、そういうことを全然気にしないで、それの貪欲な蓄積のために、気が狂うほど走っている。 

 ここで「ラフー」という言葉が使われている。それは、何かの事に夢中になって、ほかの最も大事なことに関して無頓着になったときに使われている。 

 また「タカスル」という言葉の意味は、”沢山“です。ここでこれは三つの意味で使われています。一つは人間が何でも沢山取りたいということです。それの二つ目の意味は、ほかのどんな人よりも自分自身が一番多く取りたいということです。それの三つ目の意味は、自分が誰よりも多く持っているということで、お互いに威張りあいする、ということです。 

 この両方の言葉の合わせた意味は、あなた方は、現世の恵みを沢山取りたいということで狂うほど夢中になっていて、人生でほかの本当にやるべきことに関しては無頓着になっているのです。あなた方は神に関しても、道徳の責任に関しても、人の権利を奪わないでそれをちゃんと果たすべき義務に関しても、無頓着になっているのです。あなた方は、自分の生活水準を上げるために夢中になっているが、それで自分の人間性がどれ程落ちているのか、それの心配が何もないのです。あなた方は、いくらでも多くの富を取ろうとしている。そのために、どんな悪い方法を使っても構わない、と思っているのです。あなた方は。官能的、性的欲望を満たすため、色っぽい快楽を求める事に夢中になって、これの始末がどうなるのか、そのことを考えたくもないのです。またあなた方は、お互いに、ほかの誰よりも勝るような権力と、軍事力と、近代武器などに関して、一所懸命争っているのです。それで、この争いの結果として、人類が住んでいる、神のこの大地が、暴力と邪悪でいっぱいになって、人類が滅ぼされても、あなた方はそれが気にもならないでしょう。 

(解説2):現世でこういう貪欲の蓄積に夢中になって、いずれかそのまま死んでしまうのです。自分の墓に入るのです。人間に自分の死のことを思い出させておいて、こういう人生の送りかたの(むな)しさを指摘しているのです。 

(解説3):信者であっても、無信者であっても、皆が神から与えられた恵みに関して、問われるのです。人間が自分の努力や力の結果として恵まれていると思っていることがあります。そういう場合は人間が、神のお蔭でそういう恵みを授けられたと思う人もいれば、逆にそうではなくて、恵まれているすべてのことに関して、全部が自分自身の力と努力の結果であったと思って、威張っていて、無感謝になる方々もいるのです。人を騙して、泥棒してお金を取ったのか。または金の使い方はどういうふうにしているのか。無駄使いしているのかどうか。人助けのために使っているのか。神から授けられたすべての恵みをどういうふうに使っているのか。そういうふうに人間が受けたすべての恩恵に関して問われるのです。 

http://wahabs.com/Quran/Japanese/kuruan/index.html 

 

 

 

 

103章: 時代(アル・アスル)

邦訳 

(1-3):時代にかけて(誓う)。人間はきっと,喪失(そうしつ)の中にいる(解説1) 

Sura: Al-Asr

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

وَالْعَصْرِ۝۱ۙ [١٠٣:١]

اِنَّ الْاِنْسَانَ لَفِيْ خُسْرٍ۝۲ۙ [١٠٣:٢]

اِلَّا الَّذِيْنَ اٰمَنُوْا وَعَمِلُوا الصّٰلِحٰتِ وَتَوَاصَوْا بِالْحَقِّ۝

 
۰ۥۙ وَتَوَاصَوْا بِالصَّبْرِ۝۳ۧ [١٠٣:٣]

 

(その喪失の中に入らない)例外の者たちは、信仰(解説2)して善行(解説3)勤しみ(いそしみ),互いに正義(解説4)のことを勧めあい,また忍耐(解説5)のことも勧めあうであろう。 

章の説明 

 このマッカ初期の啓示は,真理を受け入れた者だけが成功するという,時代にかけた証言である。前章では人生の真の目的から迷い去って,財の蓄積に終始する者に対する警告であったが、ここでは時間を通じ歴史が証明するように、信仰して純潔な生活を営み,努力し忍耐することを知る者には、時代はつねに恵みをもたらすとの教えである。 (ウマル三田了一解説) 

内容とテーマ 

 この短い章の中で大きな本でも詳しく説明できないほど大事な内容が含まれているのです。ここで人間の幸福と不幸の道をはっきりと伝えているのです。この章の内容を深く理解した場合は、人間の導きと幸せのためにこれだけでも充分ですと、イマム・シャファイが皆の納得が得られるような表現をしているのです。預言者モハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の仲間たちがお互いに会った時には、この章をお互いに読んで聞いて貰わないまで別れなかったのです。(チブラニ)。 

解説1:この章では、時代にかけて誓っているのは何かと言うと、それはどういう人間が喪失しているのか、それのことが歴史の流れで、あらゆる全ての時代で証明されているということです。

この章で語っていることの真実性が歴史のどんな時代でも証明されているのです。 

  この章の内容を理解するために、イスラームの有名な学者イマム・ラージがある先輩の先生の話しを参考に出しているのです。その先輩の先生がある氷の販売をしている商人からある珍しい販売の進め方を聞いて、この章の大事さを理解した、と言っているのです。その氷の販売員が自分の氷を売るために声をかけていたのは:「人々よ、元金が溶けてしまっているようなこの氷の商人にあわれみをかけてください」こういう珍しい販売の進め方を見て、その先生はこれで自分がこの章の第一節と第二節の意味が分かった、と言ったのです、その第一と第2節はこれです:「時代にかけて(誓う)。まことに、人間は,喪失の中にいる」(103-1、2)。これの意味は人間のこの世の中に生きる期間があらかじめ決まっていて、それは年を取るごとに氷のように速やかに溶けているのです。その生きる期間を無駄に使ったり、誰にも何の役にも立たないように過ごしたり、あるいは、いけないような悪いことをやって月日を過ごしたりすると、それはその人間が自分の人生を一番損失していることになるのです。だから、そういうふうに過ごしている人間の人生のことに関して、速やかに過ごしている時代や時間のことを証明としてだすためには、それのことを誓うような形になっているのです。 

四つの性質 

  こういうふうに速やかに過ごしている人生が証明しているのは、この章で言っている四つの性質を持っていない人間が物凄く損失している人間である、ということです。得しているのは、この四つの性質を持って人生を過ごしている人達だけです。これの例として学生たちの試験の経験で良く分かります。試験の部屋に入って、試験にでている問題の答えを書かないで、よけいなことでその試験の時間を過ごしてしまえば、それほど損失している学生はこの世の中にないだろう。 

 聖クルアーンの中には、人間の不幸や幸福、或は、損失や得するような言葉が使われている場合は、それは全部がこの世と来世、両方の世界にあてはまる言葉であるのです。この節で損失や喪失の言葉を使われているのも、現世と来世、両方にあてはまるのです。商売で一つの取引で損することもあれば、全体で倒産することもあるのです。おなじく、この章で指摘されている四つの性質を持っていない人間は現世でも、来世でも、損失することになるのです。 

人間のいろいろな時代の流れに損失をしないで、得をしているのが、四つの性質を持っている人々だけなのです。その第一は信仰、第二は善行、第三と第四は、お互いに正義の道と忍耐のことを語り合う性質のことです。これらの性質のことを一つ一つ詳しく理解しなければこの聖クルアーンで言われている言葉の真実性を把握できないのです。 

解説1:第一の性質は信仰 

 その四つの性質の中の第一は信仰です。それは、唯一の全能の神アッラーだけだ、ということを認めるべきです。この文書でこれから「神」と言う言葉に出会った場合は、それが唯一の、全能の、神アッラーのことだと思って下さい。その神の存在を認めるだけではなくて、この世のことも、あの世のことも、この宇宙全体も、生き物すべても、生まれた時から死ぬまで面倒を見られているのも、また人間を含めてすべての生き物の運命も、偶然ではなく、その御方、アッラー以外には誰もいないのです。宇宙と大地の創造者とその中にあるすべての者の創造者と支配者は、アッラーのみである、ということを信じるのです。 

 だから、人間としてはその「神」だけを崇拝して、その御方の教えのみを第一の義務として従うべきであるのです。その「神」だけが人間の運を良くしたり、悪くしたりしているのです。願いごと全ては、その御方に頼むべきです。どんな大変な時でも頼むのはその御方にだけです。彼だけが命令を下さる、物事を禁じる権利を持っていらっしゃるのです。だから、私たちはその「神」の下僕として、その御方から出たすべての命令に従うべきで、禁じられたこと全てをやめていくべきです。 

 その御方が何でも見たり、聞いたりする能力も持っているのです。人間の全ての行為だけじゃなくて、その行為の裏にある、人間の心の中に隠れている目的と動機までも、その「神」は全部を見ているのです。 

 信仰ということの第二の柱は、預言者のことを信じる事です。預言者は「神」から定められた聖者と、人類に対しての指導者であるのです。彼が何を教えても、その教えのすべてが「神」からであって、合法的なもので、人類がそれに従うべきことであるのです。預言者を信じるということは、天使たちと、昔から現れたすべての預言者たちと、聖クルアーンと、またそれと同じく「神」から啓示されたすべての聖典を信じるべきなのです。そういうことを全部信じるのが義務になるのは、預言者(PBUH)自体がそういうもの全部を信じるべきだ、と教えているからです。

 信仰ということの第三の柱は、来世のことを信じるべき事です。人間の現世の人生だけが全てではないのです。これだけが最初と最後の人生ではないのです。死んでから人間は、もう一回今と同じ体で復活されるのです。この現世でやった全ての行いに対して「神」の前に責任を負わなければいけないのです。それで善行を行った方々が良い報いを貰って、悪者たちが罰せられるのです。 

 この信仰は、良い道徳と立派な人格と素晴らし人柄を育てるために強い基盤になるのです。それに基づいた暮らしならば、上品な社会を出来上がることが可能になるのです。こういう信仰に基づいた基盤がなかったら人間社会が安定した、道徳に基づいた立派な発展は出来ないし、また現代のような犯罪の多い社会の方向へ段々進んでいきます。また各個人がストレスと毎日の不安に負けて自殺の方向へ迎えるようになるのです。日本で過去十年間あまりのあいだ毎年三万人以上の方が自殺しているのもこういう信仰がないからです。来世に永久の人生があって、そこで永久に罰せられるという恐れがない限り犯罪と自殺は止められないのです。 

 それで、この章で人間の損失の理由として、第一番目には信仰です。それでの性質の大事さが分かるのです。 

解説2:第二の性質は善行 

 人間は人生で失敗しないで、損失のないような人生を送りたい場合は、この章で言われている必要な四つの性質の中で信仰の後には、第二の性質は善行であるのです。聖クルアーンで言っている善行のなかではあらゆるすべての美徳が入っているのです。どんなに小さな徳行(とっこう)でもその中に入っているのです。けれども、聖クルアーンで善行を言っている行いに二つの条件があるのです。その第一は、その徳行が信仰に基づいた行為じゃなければいけないのです。その第二は、「神」と預言者の教えに従うような行為ではなければいけないのです。この二つの条件を満たせない徳行の場合は、「神」はこの現世で必ず報いをくれるのですが、来世の永久の人生では、こういう方に何の報酬も与えられないのです。 

 そういう方自身が信仰はなかったので、来世で何か報いを貰うという期待も持っていなかった。彼の狙いは現生の幸せのみだった。それで神は、彼の善行の報いが現世にのみ、彼の希望通りに与えてくれることになっている。 

 聖クルアーンでは善行の教えと共に必ず信仰のことがそのすぐ直前に書いてあるのです。この章の場合でも善行の直前に信仰のことが強調されているのです。 

 また口だけで自分が信仰している、ということがいくら繰り返して強調しても信頼を受けられないのです。その口先の話しは、信仰に基づいた徳行で証明しなければいけないのです。自分の良い行いで証拠をだせるような信仰だけが有益であるのです。そうではない場合は、信仰のことは自分自身で否定しているのと等しいことになるのです。というのは、口先で自分が信仰しているようなことを公に言いながら、「神」と預言者の教えに違反の行いがあった場合は、自分自身がその信仰を否定しているようなことになるのです。 

 信仰と善行の間柄は種と樹木と同じようなことであるのです。種がないと樹木がでてこない。信仰がないと善行は無理になるのです。信仰があって善行がない場合は死んだ種が土の中に埋められていると同じことになるのです。だから、聖クルアーンであらゆるすべての吉報(きっぽう)が与えられていることが、信仰を持って、またそれに基づいて善行も必ずやる人達の為にあるのです。おなじことがこの章でも言われているのです。人間が損失から助けられるために信仰の次に善行もやるような性質も持っていなければならないのです。と言うのは、善行がなくて、信仰だけでは人間が損失から助からないのです。 

解説4:第三性質は正義のことを説き進めること 

 ここまで述べてきた二つの性質は各個人が持たなければならないのです。そのあと損失から助けられるためにまた二つの別の性質を持たなければならないのです。それは、信仰をして善行もやっている人達は、またお互いに正しい道を辿るように、それと我慢強く忍耐のことも頑張るように熱心に説き進めなければいけないのです。というのは、信仰と善行を行う人達は自分自身が個人中心で、勝手な生活を営むことではなく、そういう個人個人の皆さんが力を合わせて、道義的に正しい、有徳な、廉直(れんちょく)な社会を生み出すべきであるのです。また、社会が悪い方向へ行かないようにお互いに正義と忍耐のことを熱心に説き進めるべきであるのです。だから最初の二つの性質、信仰と善行と一緒に最後の二つの性質、正義と忍耐のことをお互いに説き進めあうことも持たないと人間が個人的にも、社会的にも、損失から助からないのです。 

 ここで正義は二つの意味で使われているのです。その一つは、正当な、公平な、真実に基づいたこと。それは信仰や教義(きょうぎ)に関してあろうか、或いは現世の日常生活に対してであろうか、両方の場合は正しい道を辿るべきであるのです。 

 その二つ目の意味は、他人や、「神」や、自分自身に対して発生するすべての義務をちゃんと果たすべきであるということです。 

 お互いに正義のことを説き進む場合は、お互いに対して発生する全ての義務を果たすことになるのです。そういう社会が出来上がった場合は皆が平和と平等と公平に暮らすようになるのです。現代社会でお互いに対して存在している不満とか文句や自分の権利が奪われるような恐れが発生しないのです。 

 これのもう一つの場面は、社会で嘘と偽りのことが盛んになっていて、不正義の行為が平気で発生しているのに、皆さんが黙ってそれを見ているだけのようなことがいけないのです。この状態の反対に、嘘偽りのことが社会でちょっとでもどこかで現れたら、互いに正義の説き勧めでそれをすぐ止めるようにするべきであるのです。だから、この章で教えている第三と第四の性質で互いに説き勧めることによって社会で不正義と嘘偽りのことが起こらなくなって、平和な、公平な社会が構成されるのです。各個人が信仰をもって、良い行いをやって、周りの人人に対して発生する道義的なすべての義務のこともちゃんと果たすだけじゃなくて、理想的な良い社会も構成するように努力することも各個人がやらなければいけないのです。このことによって、社会が道徳的な退化と道義的な退廃(たいはい)とモラルの腐食(ふしょく)から守られるのです。 

 また、この第三と第四の性質で教えられているように、互いに正義とそのために忍耐のことが説き進めない場合は、生まれてくる損失は社会のモラル腐食以外に、もう一つ別の損失も出てくる。互いに説き進めることによって、社会であらゆる邪悪が進まないようにしない場合は、そういう人々が「神」から罰せられるのです。 こういうふうな罰当たりの損失を避けるためには、この第三と第四の性質を育てる必要があるのです。 

 この正義のことと忍耐のことを説き進めることが、イスラーム教の特集の言葉ではダアワー」の一部でも言えるのです。この言葉が普段はもっと広い意味で使われているのです。信者ではない方々に、信仰のことを説明したり、信者の人たちがお互いに自分自身の信仰をもっと強めたり、或いは一般社会でどんな正義と良い道徳のことでも説き進めたり、そういう全ての活動が「ダアワー」の定義に入るのです。だから、この章で教えられている第三と第四の説き進める活動も、「ダアワー」として皆でやらなければならない義務のことがはっきり分かるようにしているのです。また、そういう「ダアワー」の義務を皆がちゃんと果たさなければ、「神」に罰せられるのです。 

 こういう場合の罰当たりのことが聖クラアーンでは、ほかのところでももっと詳しく書いてあるのです。自分だけが信仰を持って、個人的にどんなに良い行為や善行をやっても、人に説き進めるような「ダアワー」のことをしない場合は、「神」に罰せられるという損失が避けられないのです。ということは、何回も何回も聖クラアーンでいろいろな形で教えられているのです。 

 こういうことの例が聖クルアーンで、第五章のアルーマエダの第77と78節にも書いてあるのです。ここで「神」の怒りが、デヴィド預言者とマリヤの子、イエス・キリスト、預言者たちによってバニ・イスライルという民族、現在それはユダヤ教といわれている民族が、「災い・不幸がふりかかるように」、と呪われたのです。その呪われた理由としては、社会で邪悪のことが流行って、どんどん増えていても、バニ・イスライル民族が、互いに正義のこと説き進めることによって、それを止めようとしなかったからなのです。 

その呪われた結果がどういうふうにあらわれたのでしょうか?答えは、この民族の歴史をみると、彼らはあらゆる形で「神」に罰せられているのです。このユダヤ教民族が自分自身のことが世界の今までの歴史の中で、一番迫害された、虐められた民族だ、と言っているのです。世界のどこの国でも、迫害されたや虐められたということは、「神」からの罰当たりの対象になっていた、ということになるのです。 

 また同じようなことが第七章のアル・アアラフの第(163~166)節にも書いてあるのです。聖書で定められた安息日(サバト)で、仕事を辞めてその日「神」に祈りなどするように命じられたのに、バニ・イスライルが「神」の命令に従うようなことをしないで、それを違反しながら、魚を取る仕事を平気でやっていたのです。「神」の命令を平気で無視するという罪のことで「神」に罰せられて、みなが死んでしまったのです。その罰から守られたのは、そういうふうな罪を行わないように説き進めていた僅かな人たちだけですた。 

 また同じようなことが第八章のアル・アンファアルの第25節にも書いてあるのです。ここで言い方はちょっと違っているのです。悪いことを行っている人々だけに限らないで、「神」の怒りと罰が善行をやっている人たちにもあたることがある、という意味のことを書いてあるのです。自分自身をそういう神の怒りと罰から守りなさい、と。自分自身が悪い行いやらないだけで{神」の罰当たりから助けられないのです。その理由は、そういう方々が人に正義と忍耐のことを説き進めないで、周りに邪悪がだんだん流行っていたのに、それに対して黙っていて、自分中心の生活だけに夢中になっていたからです。 

 だから、聖クルアーンの第三章の第104節で、「アマル・ビルマルフ」と「ネヒ・アニル・ムンカル」のことがムスリム・ウッマー(世界中のすべてのイスラームの信者たち)の大事な義務として定められているのです。また、同じ章の第110節では、こういう義務をちゃんと果たすウッマーのことが世界で一番良いウッマーといわれているのです。イスラーム法を大事にしているムスリム国家で、今でも、こういうことが国の義務として、責任をもって実行するために、政府からこの仕事のために専門(せんもん)大臣(だいじん)任務(にんむ)されているところもあるのです。この意味は、イスラームの国としてただ説き進めるだけではなくて、国の法律と権力でも、イスラーム社会で善行と良い道徳のことが実行させておいて、邪悪と全ての犯罪と悪いことが国の警察と裁判の力でも止める義務があるのです。 

解説5第四の性質は忍耐のこと 

善行と道徳に基づいた良い行いのことだけではなくて、この章の第四性質でいわれているように、互いに忍耐と艱難(かんなん)辛苦(しんく)堪える(たえる)ことも説き進めなければいけないのです。それは、人間社会では、正義に基づいた行いをやり続けようとしている人々が大変な苦労して、苦難に耐えるようなこともしなればいけないようなことになっているからです。 

 このことの大事さが聖クラアーンの第90のアル・バラド章の第17節の第14解説でマウドヂー先生がもっと理解するように詳しく書いてあるのです。この先生の説明では、人間が正しい道を辿ろうとしたら、あらゆることで一生に忍耐と艱難辛苦に堪えるようなことになるのです。例えば、自分が信仰の道へ入ったとか、自分がイスラーム教に入信したとか言った途端に、その日から毎日5回の礼拝の義務が発生します。それが時間どおりにちゃんと果たすためにだいぶ忍耐と覚悟が必要であるのです。そのために、朝早く起きたり、仕事の忙しいときにそれを一時的に休んだり、いくら疲れていて凄く眠くても寝ないで夜の礼拝と、また毎日5回の礼拝の義務を果たすのにだいぶ忍耐がいるのです。 

 同じく、「神」のすべての命令にちゃんと従うためとそれを気持ちよく服従する為には、忍耐を込めて、辛抱強く行動にうつらなければいけないのです。悪の行為をすべて辞めて、よい道徳の道に走るのに、まただいぶ忍耐の性質を育つ必要があるのです。どんな人間社会でも、罪の誘惑が多いのです。だから、それを乗り越えるほどの忍耐がいつでも必要になるのです。日常生活の中で「神」の正しい道に走った人が、あらゆる困難と艱難と耐えがたい苦労に直面することがあるのです。またそれと逆に、それを拒んで、「神」の命令と教えの反対のことがやれば、かなり利益と楽しむ可能性がでてくることがあるのです。忍耐のない信者の場合は、こういうことに負けないで進むのが非常に難しいのです。 

  マウドヂー先生が忍耐のもう一つの場面も指摘しているのです。誰か個人のかたは、信仰の道へ走ろうということが決定した途端に、彼が自分自身の内面からの誘惑と私利私欲利己心と自分の家族や部族や民族や周りの人々や社会や自分の村人や国民や国家みたいなあらゆる卑劣(ひれつ)な人間や悪魔(ジン)からもいろいろな訳の分からない妨害と敵対心に直面するようなことになることもかなりあります。また場合によって、自分の常時住んでいる国から移住するようなことも起こる可能性もあって、またそういう悪質な性格や卑劣心を持っている方々と戦うこともたまにありうるのです。だから、そういう事情で、忍耐の性質をもっている信者だけが自分の信念が固く守ることができるのです。 

 それで、そういう信者が個人個人で、そういう大変な妨害と敵対心と戦うとしたら負けてしまう可能性がたかいのです。信者が個人一人一人の場合は、こういう試みの時が負けてしまうことがあり得るのです。だから、負けないで皆がお互いに力になって、助けあうために、この章で互いに忍耐のことが説き進めるように教えられているのです。ある社会ですべての個人個人が忍耐強くで、またみんなが互いに忍耐強くなれるように説き進めあうことをしている場合は、その社会があらゆる幸運に恵まれるようになるでしょうし、またそれで、社会から悪を追いはらうために全体的に無限の力が発生されていくでしょう。それで、人間社会をよい道徳の道の方へ連れて行くのに物凄い準備が整えるでしょう。 

 だから、上記で述べられているように、一つ一つ性質のことが詳しく理解できれば、この章で教えられている四つの性質が持ってない人間とそういう社会が、どんな時代でも、大変大きいな損失をしていることになるのです。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

104章:アル・フマザ章 

慈悲深い、何回も何回も慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

Sura: Al-Humaza

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

وَيْلٌ لِّكُلِّ ہُمَزَۃٍ لُّمَزَۃِۨ۝۱ۙ [١٠٤:١]

الَّذِيْ جَمَعَ مَالًا وَّعَدَّدَہٗ۝۲ۙ [١٠٤:٢]

يَحْسَبُ اَنَّ مَالَہٗٓ اَخْلَدَہٗ۝۳ۚ [١٠٤:٣]

كَلَّا لَيُنْۢبَذَنَّ فِي الْحُطَمَۃِ۝۴ۡۖ [١٠٤:٤]

وَمَآ اَدْرٰىكَ مَا الْحُطَمَۃُ۝۵ۭ [١٠٤:٥]

نَارُ اللہِ الْمُوْقَدَۃُ۝۶ۙ [١٠٤:٦]

الَّتِيْ تَطَّلِعُ عَلَي الْاَفْــِٕدَۃِ۝۷ۭ [١٠٤:٧]

اِنَّہَا عَلَيْہِمْ مُّؤْصَدَۃٌ۝۸ۙ [١٠٤:٨]

فِيْ عَمَدٍ مُّمَدَّدَۃٍ۝۹ۧ [١٠٤:٩]

 災い(わざわい)あれ、当人の前で彼に間して中傷(ちゅうしょう)をする者と、当人がいない時にかれに間して陰口をいう者すべてに。(また災いあれ)財を集め、それをずっと増やすために専念し、また何回も何回もそれを数え、その勘定に夢中になる者に。彼は、己の財が己の為に永久に残るだろう、と勝手に思い込んでいるのであろう。決してそうではない。かれは必ず粉砕する火の中に,投げ込まれるのであろう。あなたは粉砕する火が何であるか分かっているのか。(それは)ぼうぼうと燃えているアッラーの火、心臓まで焼き尽し、かれらの頭上は完全に覆い被されるであろう。(彼らは)かなり長い火の列柱の中に(囲まれているのであろう。) 

 

章の内容と説明 

 本章は前章の場合とは正反対に,永遠の善事のために努力するよりも蓄財に専念し,また真理を命じる代りに,他人を中傷(ちゅうしょう)して不当に損傷(そんしょう)する者に対する警告でマッカ最初期の啓示である。 (ウマル三田了一解説) 

  西洋文化の影響のもとで出来上がった現代物質主義の考え方と同じく、蓄財に専念するのが昔のアラブ社会でも流行っていたのです。 

 信仰のないアラブの悪い社会では、金持ちのがめつい方々のいろいろな特徴であった悪い性格のことがこの章で非難されているのです。こういうふうな悪い性格になったことの原因は、やはり現代物質社会と同じく、蓄財に専念する生き方であったのです。 

 見難い悪いキャラクタのがめつい金持ちの方々のことは、その社会で誰も尊敬の目で見ていなかったのです。アラブ人の中では誰ひとりとして、それは道徳的に良いことだと思っていなかったのです。こういうふうな悪い方々の嫌な性格を指摘して、彼らの最終的な結末が来世でどうなるのかをこの章で教えているのです。 

 この悪い性格のことと、またそれの持ち主の方々の最終的な結末のこと、この両方の組み合わせが、かなり巧みに書かれているのです。読者がそれを読んで、その悪い性格の金持ちの方々の結末として地獄で焼かれることが当然であろう、と思うようになるのです。 

 この章で第一は、金儲けに夢中になった、がめつい、欲深い方々の三つの特徴が指摘されているのです。 

 そういうふうな方々の特徴の第一は、第一節で指摘されているように、自分自身が金持ちだから威張っていて、自分が世の中で一番偉く、他人の全ての皆さんが自分より下の人間で、下の地位の方々だ、と思っているのです。それで人の悪口や中傷だけが、いつでも、どこにでも、だれにでも、あちこちに話すような癖になっているのです。それで、当人の前でも裏でも、人の欠点のことだけを喋っているのです。他人のことを低い目で見る原因は自分が金持ちだから、自分だけが偉い人間だと思い込んでいるからであるのです。 

 それの第二は、第二節で言っているとおりに、自分の生きている目的が金儲けだけだと思っていることであるのです。だから、そういうふうな人は、毎日朝から晩まで一生懸命に働いた結果として、財が毎日どの位増えたか、何回も何回も数えて、その増えた分の計算を毎日の楽しみにしているのです。 

 それの第三の特徴は、そういうふうな人間の考え方のことです。それの発想の元は、この章の第三節で教えているのです。金は永久に残るだろう、と思うのが間違った考え方であるのです。そういうふうな考え方があるからこそ、財を集めるのを自分の生きる目的にしているのです。いずれ自分が亡くなって、この集めた財が永久に役に立たないことに気がつかないのです。 

 どんな時代でも金に欲深い方々が、先に述べたような特徴を持っているのです。またそういうふうな方々が、そのまま豊かな暮らしをずっとしながら、静かに死んでいくように見える。が、この章の第二の特徴としては、その考え方を否定しているのです。第四節から終わりまでに、そういう金持ちの欲深い、がめつい方々の最終的な結末がそう簡単に終わらないだろう、ということをここで強調しているのです。 

 この世ではそういう人が金持ちで、成功者に見えるのですが、この章の最後には、あの世では凄い火に焼かれて、どれほど酷い罰を受けるかと言うことを詳しく述べているのです。 

105章:(アル・フィール)

Sura: Al-Fil

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اَلَمْ تَرَ كَيْفَ فَعَلَ رَبُّكَ بِاَصْحٰبِ الْفِيْلِ۝۱ۭ [١٠٥:١]

اَلَمْ يَجْعَلْ كَيْدَہُمْ فِيْ تَضْلِيْلٍ۝۲ۙ [١٠٥:٢]

وَّاَرْسَلَ عَلَيْہِمْ طَيْرًا اَبَابِيْلَ۝۳ۙ [١٠٥:٣]

تَرْمِيْہِمْ بِحِـجَارَۃٍ مِّنْ سِجِّيْلٍ۝۴۠ۙ [١٠٥:٤]

فَجَــعَلَہُمْ كَعَصْفٍ مَّاْكُوْلٍ۝۵ۧ [١٠٥:٥]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

[あなたの主は、象を(兵隊とし、侵略に来襲した)人たちのことをどういうふうに処分したのか、それを観察したのか?かれは(主は)、かれらの巧みな秘密の策略を壊滅したではないか((解説1))かれら(敵側)の上に群れなす数多のアバビルという鳥を(つか)わされ, それらは、彼らに焼き土の(つぶて)を投げた。そうして彼は(主は)、彼らを食い荒らされた(わら)(くず)のようにしてしまったのである。] 

解説1:カアバ神殿を壊す目的の中には一つ「秘密の戦略」もあった。それは、マッカ経由で南アラビアへ隊商が行ける旅の道をアラブ人から奪い取ってしまうという目的でした。けれども、その「秘密の戦略」もアッラーは失敗させた、ということです。 

章の説明 

 本章は,西暦570年頃の出来事にちなんだ啓示である。当時アラビア半島南部のイエメンはキリスト教を(ほう)ずるアビシニアの治下にあり,その総督アブラハがカアバの神殿を破壊するために,巨象を含む軍勢で来襲した。これに対しマッカ側は,施す策もなかったが、鳥の大群の投ずる焼き土からできた礫が,大雨のように降り,侵略軍は壊滅したと伝えられた。 (ウマル三田了一訳) 

本章で学ぶ教訓は二つであるのです。その第一は、何か良い目的を達成するために人間は、先に一所懸命に努力するべきです。けれども、いくら努力してもそれには限界があるのです。そういう時には、全能の神アッラーを頼って、心の底から熱心にその唯一の神に祈るべきなのです。その時点でその御方から人間に対して、目に見えない不思議な方法でお助けが表れて来て、人間が希望していた自分の努力の足りない所がアッラーの助けによってその目的が達成するようになるのです。 

 西暦570頃に、この章が啓示された時より約40年前頃に、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が生まれる約50日前に、アラビアで起こった一つの不思議な歴史的な出来事があったのです。カアバ神殿を壊すつもりで6万人の兵隊と13頭の巨象を連れて来た敵イエメンのキリスト教の総督(そうとく)アブラハはマッカ市の近辺に来襲したが、逆に自分自身と自分の全ての兵隊と巨像全部が破滅してしまったのです。マッカ人は、そういう強い敵と戦う力を何も持っていなかったのです。彼らは、自分の努力や力で何も出来ないということを良く分かっていたのです。だから、皆さんが集まってカアバ神殿の主、唯一の神アッラーだけに祈って、その御方の助けを求めたのです。それで、アッラーの助けが、誰も想像も出来ない方法で現れたのです。人間が考えられない方法で、現実に不思議なアバビルと言う鳥が急に大勢で現れたのです。各鳥が自分の口で一つ一つ不思議な礫を持って来て、それを大雨が降ったようにアブラハの兵隊に投げたのです。その礫には、全てのものを破滅するような不思議なエネルギーがあったのです。総督アブラハと、彼の6万人の兵隊と巨象皆の体がその礫で目茶目茶に壊れてばらばらになって、みんなが亡くなってしまったのです。 

 歴史上でそういう不思議な出来事が起こったことを聖クルアーンに述べられているのは、この章の説明の初めに書いてあるように、私たちに一つ大事な教訓が教えられているのです。先程書いているようにそれは、自分の努力に限界があった時に、アッラーに熱心に祈れば、その唯一の全能の神の不思議な助けが表れる、と言うことです。 

 アブラハに侵略された時にマッカ人は、カアバ神殿には三百六十個の仏像があって、それらは神々であろうと思って、毎日あらゆる目的を達成されるだろう、という思いでその神々に祈っていたのです。けれども、この事件の時は、彼らがその全ての神々の中のどんな神にも祈らなかったのです。彼らはその時に、敵の6万人の兵隊と戦う力もなかったのです。彼らは困って、自分たちがカアバ神殿を守る為に何の力も手段もないと思った時に、本当の唯一の全能の神と思っていたアッラーにだけに向い、その御方だけに一生懸命に助けを求めたのです。それで、アッラーから考えられない不思議な方法で助けて貰うことが起こったのです。これは子供の本に出るような不思議な物語じゃなく、本当の歴史の事実として起こった出来事です。この歴史の本当に起こった出来事から私たちが学べる教訓は、アッラーを信じ、困った時にその御方だけに頼めば、何らかの形で、自分が想像もつかない方法で、アッラーは必ず助けてくれる、ということです。

 だから、預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)は、この章を通して、マッカ人が不思議な方法でアブラハの侵略から助けて貰ったように、唯一の全能の神、アッラーの信仰に入信しなさい、というメッセージを彼らに伝えていたのです。そうじゃなければ、逆に彼らも無信者のアブラハと同じ運命に遭わないことの何の保障もない、ということです。この章で指摘されている歴史の出来事から学ぶべき教訓の事を預言者は皆に教えていたのです。それは、その唯一の神アッラーを信じるべきだ、と言うことであったのです。

 昔からカアバ神殿の管理役を果たしていたクレイシュ族の族長、またメッカ人の第一主任と指導者でもあった、預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のお祖父さん、アブヅル・ムタッリブ、がマッカ近辺まで来襲していたアブラハの所まで、彼の兵隊によって連れて行かれたことがあったのです。アブヅル・ムタッリブの印象、深い魅力的な凄い個性を見てアブラハは、彼の所まで行って彼の隣に座ったのです。敵からそれほど尊敬されたのです。けれどもアブヅル・ムタッリブは、マッカを侵略しようと来ていたアブラハにカアバ神殿を壊さないようにとのお願いは何もしなかったのです。それは、その神殿の主、アッラーに必ず守られるだろう、という自信を持っていたからです。彼は、自分の200頭のラクダを返して下さい、というお願いだけをしたのです。アブラハの兵隊が彼のラクダを掴んで持って帰っていたからです。こういうお願いを聞いて、アブラハは彼のラクダを返したが、彼は、アブヅル・ムタッリブは、自分が尊敬をしていたほどの人間ではなかった、と思ったのです。彼の人柄にがっかりしたのです。それに、アブヅル・ムタッリブが答えた言葉は歴史で金の文字で書くようなものだったのです。彼が答えたのは、ラクダは自分個人の持ち物だから返して欲しいが、カアバ神殿の主が違うので、その主(アッラー)が自分自身の持ち物(カアバ神殿)を自分自身が守るだろう、と。結局その主、アッラーは、鳥を使って礫を大雨のように降らしておいて、敵の体を目茶目茶にしてしまって、自分の持ち物カアバ神殿を奇跡的な方法で守って、歴史の教訓として残したのです。アッラーは、こういう出来事を起して、預言者モハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)がまだ生まれない内に、彼(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のお祖父さんアブヅル・ムタッリブの答えの真実性を立証してくれたのです。(フセイーン・ハーン 解説)


106章:クライシュ族 

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「クライシュ族が慣れた、慣れたのは、冬と夏の旅行のことで(解説(1))(だから、そういう恵みに対しての感謝として、) 

Sura: Quraish

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

لِاِيْلٰفِ قُرَيْـــشٍ۝۱ۙ [١٠٦:١]

اٖلٰفِہِمْ رِحْلَۃَ الشِّـتَاۗءِ وَالصَّيْفِ۝۲ۚ [١٠٦:٢]

فَلْيَعْبُدُوْا رَبَّ ہٰذَا الْبَيْتِ۝۳ۙ [١٠٦:٣]

الَّذِيْٓ اَطْعَمَہُمْ مِّنْ جُوْعٍ۝

 
۰ۥۙ وَّاٰمَنَہُمْ مِّنْ خَوْفٍ۝۴ۧ [١٠٦:٤]

 

この聖殿の主に服従と崇拝をしなさい。お腹がすいた時は,彼らに食べ物を与え,また(敵から)恐怖の時は、(クライシュ族)の安全を確保する御方に。

解説(1):クライシュ族の隊商が夏は、パレスチナとシリヤの寒い地域の方へ、冬は南アラビアの熱い地域の方へ行って、夏と冬の旅行に昔から()れていたのです。というのは、一年中夏と冬すべての季節で、そういう安全な旅行のお蔭で商売が盛んになっていたのです。 

ずっと昔からカアバ神殿がアラブ中の宗教の中心地域になっていたのです。それの管理役をやっていたクライシュ族は、アラブ中で尊敬されていたのです。それで、彼らの隊商は、冬でも夏でも、一年中安全に旅行出来たのです。おかげで商売が盛んになったのです。だから、彼らが豊かになったのは、カアバ神殿の管理人役を果たしていたからです。 

章の説明 

 本章は前章と同じくマッカ初期に啓示された章で、その一部ともいえる。もしクライシュ族が真にマッカを愛し,その地理的な位置や安全境のお陰で,通商上の利益を享受していることを考えるならば,唯一の真主を崇拝し,その啓示を受け入れるべきである。 (ウマル三田了一解説) 

 マッカ市ではカアバ神殿が出来たのが今から約4千年前アブラハーム予言者の時だったのです。その時から今までアラブの皆さんはこの神殿へ参拝に行っていたのです。アブラハーム預言者に子供が二人ありました。二人は、イスハークとイスマーイルという名前で預言者になったのです。イスハーク預言者の息子ヤークーブ預言者は聖書でジャコブといわれているのです。彼の別名がイスラエルでもあったのです。彼の子孫が聖クルアーンではバニーイスラエルと言われているのですが、それは現代のユダヤ教のことです。聖書と聖クルアーンで出ている全ての預言者たちがアブラハーム預言者の子であったイスハーク預言者の子孫になるのです。アブラハーム預言者の後、2千年後のイエス・キリストは、その子孫の中で最後の預言者にあたるのです。但し預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)一人だけが預言者アブラハームの別の子であったイスマーイル預言者の子孫になるのです。彼は、アブラハーム預言者の約2、600年後にメッカ市で人類の最後の預言者として生まれたのです。カアバ神殿は、その2,600年前に預言者アブラハームがアッラーの命令の基で建築したものです。

 そのイスマーイル預言者の子孫の中で預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のお祖父さんのお祖父さん位にあたるカシー・ビン・クラーブの時までは、クライシュ族がメッカ市を含めた現代アラビアのヒジャズと言う地域で、あちこち散らばって住んでいたのです。このカシーと言う方は、そのクライシュ族の皆さんをメッカ市内に一か所で住めるように集めてくれたのです。その時までクライシュ族は、貧乏な暮らしをしていたのです。しかし、皆が一緒にメッカ市で住んだお蔭で、このクライシュ族にカアバ神殿の管理役が任されたのです。またクライシュ族は、昔からアラブ中からカアバ神殿に巡礼に来た皆さんのことを良く世話してくれていたのです。

 その時から、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が属していたクレイシュ族が、カアバ神殿の管理人役をずっとやっていたから豊かな暮らしが出来るようになったのです。また、前の章にあった話のとおりで、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が生まれる約50日前に、西暦570年頃にアッラーから一つ奇跡的な出来事があって、カアバ神殿が本当にアッラーの力だけで守られていることが証明されたのです。当時アラビア半島南部のイエメンはキリスト教を信じていたアビシニアの治下にあり、その総督アブラハがカアバの神殿を破壊するために巨象を含む軍勢で来襲したのです。これに関してマッカ側は,施す策もなかったが、鳥の大群によって投げられた焼き土の礫が,大雨のように降って、侵略軍は、神アッラーの奇跡的な力によって壊滅されたのです。隣国イエメンの総督アブラハも、自分の全ての軍隊と一緒に、アッラーの奇跡によって潰れてしまったのです。

 この歴史的な事実が明らかになったお蔭で、クライシュ族の地位がアラビア中でだいぶ上がったのです。それで、クライシュ族は冬でも夏でも一年中安全に旅行出来た、このアラブ中の旅行によって、商売が盛んになったのです。それで、このクライシュ族がもっと豊かになったのです。食べ物にも困らなかったし、ライバル族や敵対族から侵略される恐れもなかったのです。そういうふうに恐怖からも守られていたのです。それはクライシュ族が皆の宗教の中心になっていたカアバ神殿の管理役をやっていたからです。 

 クライシュ族に神の色々な恩恵を思いださせておいて、同じクレイシュ族に属している予言者ムハッマド(彼にアッラーの慈悲と平安があれ)に反対をしないで、逆に彼が教えているように唯一の神アッラーだけに服従と崇拝をするように、と言うことがこの章によって皆に教えているのです。 

 これは昔の歴史話だけではなく、この章で教えているように、いつでも人間は、自分に対してこの現世でアッラーが下さった色々な恩恵を思い出して、唯一の神アッラーだけに服従と崇拝をするべきだ、と言いうことを覚えておくべきです。 

107章:アル・マーウーン) 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اَرَءَيْتَ الَّذِيْ يُكَذِّبُ بِالدِّيْنِ۝۱ۭ [١٠٧:١]

فَذٰلِكَ الَّذِيْ يَدُعُّ الْيَتِيْمَ۝۲ۙ [١٠٧:٢]

وَلَا يَحُضُّ عَلٰي طَعَامِ الْمِسْكِيْنِ۝۳ۭ [١٠٧:٣]

فَوَيْلٌ لِّلْمُصَلِّيْنَ۝۴ۙ [١٠٧:٤]

الَّذِيْنَ ہُمْ عَنْ صَلَاتِہِمْ سَاہُوْنَ۝۵ۙ [١٠٧:٥]

الَّذِيْنَ ہُمْ يُرَاۗءُوْنَ۝۶ۙ [١٠٧:٦]

وَيَمْنَعُوْنَ الْمَاعُوْنَ۝۷ۧ [١٠٧:٧]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「あなたは、審判の日の報いと処罰を否定する者を観察したのか。そういう者こそは、孤児(こじ)を追い払う方であり,また、貧困者に食べ物を与えることを促さ(うながさ)ない者である。それゆえ、残念ながら、いちおうサラートをする者でありながら、己の礼拝から気がぬけているし、また、5回のサラートをちゃんとやる義務に対して軽率である。彼らは、(アッラーのためでなく、)人に見せかけるためにサラートの行為を真似しているだけである。また、彼らは、人々に什器(じゅうき)を差しあげるほど小さな思いやりの行為もしないような者である。」 

 

章の説明 

 本章はマッカ初期の啓示で,真の信仰について記される。それには信心と,貧困者や律儀者に親切を尽し,救援する心構えの必要なことが教えられる。 (ウマル三田了一解説) 

この章では、来世、死後の永久の生命のことを信じない場合は、どういう道徳が生まれるのか、それを示しているのです。第二と第三節では、来世のことをはっきりと、どうどうと否定している無信者のことを示しているのです。彼らは、「そういう者こそは、孤児を追い払う方であり,また、貧困者に食べ物を与えることを促さない者である。」 

 現代社会では、先進国ほど犯罪がどんどん増えていっている。警察も裁判官も活発に動いているのに犯罪事件が少しも減らないで、逆に増える一方です。アメリカとあらゆる先進国で犯罪人が多くいて、また減らないで、どんどん増えている。そのおかげで刑務所が一杯になっていている傾向が進んでいる。また、日本の若者の道徳水準が前の世代よりずっと下がっている傾向が続いているのです。警察に捕まるとか、刑務所に入れられるとかのようなことで道徳水準が上がらないのです。 

イスラームの場合は、こういうことよりもいろいろな規則を心から守って貰うために、一番先にアッラーを信じて、また来世の永久的な処罰のことを心の底から信じて貰うために、この章にあるように、聖クルアーンの色々な節で、それの大事さを強調しているのです。それで、来世のことを信じる人の場合こそは、貧乏人や困った人の面倒を見るような心構えが強くなるのです。 

例えば資本主義や、共産主義や、社会主義等には、それなりに色々な考え方とそれぞれの特殊な規則があるのです。同じように、例えば、イスラーム教経済体制の中で、利息を取るのがいけないとか、毎年全ての余分の収入と財産から2.5%のお金がザカートと言って、義務として、国に納めなければいけないというように色々な規則があるのです。もしどこかのイスラームの国がそういう色々な規則をいきなり実行し始めたら、すぐ失敗に終わるのです。そういう色々な国の規則や国の法律や厳しい道徳の原則を守って貰う前に、その国のイスラームの信者達の信仰を強くしなければいけないのです。 

規則や道徳のことを皆さんに守って貰うのはかなり難しいことであるのです。そのために先に心の準備が必要であるのです。それは聖クルアーンの今のような色々な節によって、またそれを毎日五回の礼拝で繰り返し覚えていて、信者の潜在意識の中でそれの大切さと、それの来世で永久的な処罰のことを今の聖クルアーンの章と、その中の色々な節の教えによって強く入れて貰うのです。それで徐々に行動に移って貰うのです。 

 例えば、イスラームでは、酒を飲むのが厳しく禁じられているのですが、それはいきなり完全にダメだという形で実効されていなかったのです。23年をかけて、それが徐々に禁じるようにしてあるのです。この長い23年の間に先に信仰を強くして、来世のことを良い心と行動に移って貰うような順番にして、最終的に酒が完全に禁じられたのです。

 この章の第二と第三節では、来世の処罰を信じない人の心の中に、簡単な親切さもないだろう、ということが例として出してあるのです。ここで二つの簡単なことに対してそういう方の冷たい態度と行動のことを例として出しているのです。それは、「そういう者こそは、孤児(こじ)を追い払う方であり,また、貧困者に食べ物を与えることを促さ(うながさ)ない者である」ということです。 

 また、そういう来世のことを否定している方の場合は、親切さがなくなる上に、小さな思いやりもなくなります。この章の最後の節で、このことは、「また、彼らは、人々に什器を差しあげるほど小さな思いやりの行為もしないような者である」、と言う表現で指摘されているのです。 

 第四節から終わりまでは、うわべだけではムスリムでありながら、心の中には来世の報いと処罰の考えを持っていない偽信者の状況を示しているのです。偽信者の本音が彼らのサラート(5回で義務的に皆と一緒にやるべき礼拝)の時に現れるのです。彼らはサラートに対して凄く軽率である、ということです。時間通りにサラートをやらなかったり、やっても礼拝中にアッラーの認識や考えが何もなく、礼拝の動作をやりながら、自分の仕事や余計なことにだけに自分の認識を向けていたりしているのです。

両方のグループの状況を示す目的は、来世の信念が強く持てない場合は、人間の中にはしっかりした、理想的な良い道徳が絶対生まれない、ということを指摘しているのです。 

108章:アル・カウサル)

Sura: Al-Kawthar

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اِنَّآ اَعْطَيْنٰكَ الْكَوْثَرَ۝۱ۭ [١٠٨:١]

فَصَلِّ لِرَبِّكَ وَانْحَرْ۝۲ۭ [١٠٨:٢]

اِنَّ شَانِئَكَ ہُوَالْاَبْتَرُ۝۳ۧ [١٠٨:٣]

 慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「まことにわれは,あなた(ムハッマド)にカウサル((解説1))(という特集な小池と潤沢)を授けた。それゆえ、あなたの主に対して礼拝をし,犠牲((解説2))を授けなさい。まことに、あなたの敵(貴方を憎んで、貴方に皮肉を言っている人たち)こそが,根絶やし(ねだやし)にされた(子孫を断たれた)であろう。」 

(解説1):カウサル(潤沢)の意味はかなり幅広いのです。予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)があらゆる恵みを沢山、沢山与えられたということです。また、カウサルの意味の中には、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が来世にもカウサルと言う名まえの泉や小池や小川も与えられるということもあるのです。このことのもっと詳しい説明が、この章の説明の終わりにありますので見て下さい。 

(解説2):ここで犠牲の意味は、マッカ市へ行って、そこでハッジュ或はウムラーをなさる時に羊や山羊や牛等を殺して、神に捧げる宗教的な儀礼が定められている。そういう儀礼的な犠牲のことです。またイスラーム教の信者たちが世界中にイーヅル・アヅハーという毎年行っている祭りの時も、自分の家や町で、同じく羊や山羊や牛等を殺して、神に捧げる宗教的な儀礼を行っている。サウヂ・アレビアのマッカ市へ行けなかった世界中のすべてのムスリム等が自分の所で義務としてこの儀礼をやっています。 

章の説明 

 予言者ムハッマド(PBUH)が預言者になる前には、カアバ神殿の管理族クレイシュの一員として凄く尊敬されていたのです。けれども、彼はカアバ神殿の中にその時にあった三百六十個の仏像を崇めないで、唯一の神、アッラー、だけを崇めて下さい、と言うメッセ-ジを広げるような活動を始めたのです。その時から彼と彼の仲間たちがアラブ社会の中でボイコットされ一人ぼっちにされたのです。彼の仲間も僅かで、その社会の有力な方々でもなかったのです。そういう誰からの助けも、援助も、慰めもない状態で、彼の息子二人も亡くなったのです。カシムと言う名前の、彼の初めの息子の後に、彼の最後のアブデュルラーという二番目の息子も亡くなった。その時に、誰も彼を慰めることをやらないで、逆に周りの皆さんが喜んでいたり、色々な皮肉なことを言ったりしていたのです。ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)は子孫を絶たれて()絶やし(だやし)されたとか、彼の宗教が彼の一世帯で終わるだろうとか、というようふうな色々な心を痛めるようなことを言われていたのです。 

こういう背景があった時に、この章が啓示されたのです。これで彼にカウサルという小池や小川(と潤沢)を与えられたという良い知らせが届けられたのです。これで彼が感謝の気持ちで、毎日定められていた5回の礼拝と、それ以外にもしょっちゅうサラートを行い、宗教で定められた犠牲をずっとやっていきなさい、と命令されたのです。またこの章で、彼自身ではなくて、彼の敵こそが根絶やしになるだろう、ということも知らされたのです。

 というのは、彼の宗教イスラームが世界中で広がって、この世が終わるまで何千万、何億の人々が彼の信者として、彼の名前と彼が持ってきたメッセージを残していくことになる、ということです。それで、彼が根絶やしにならないで、彼の敵と全ての反対者が実際に根絶やしになったのです。それは、この章で予言されたとおりに、歴史で今まで起こった事実であるのです。将来もそのとおりになっていくだろう、という吉報がこの章で出されているのです。 

カウサル(潤沢)の意味はかなり幅広いのです。予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)があらゆる恵みを山ほど与えられた、ということです。その潤沢の中に第一は、彼が生きている間に、彼のミッションが完成され、アラビア中でイスラーム教が広がってしまったのです。

その潤沢の中には、第二のこととして、彼の名まえと教えがこの世の中が終わるまでと、その後も永久に残るというアッラーからの恵みであるのです。彼の敵と彼に根絶やしになるだろうと皮肉を言った人たちこそが、逆に実際に根絶やしになってしまったのです。彼らのことや彼らの子孫のことはだれも知らない状態になっているのです。例えば、彼らの子孫があった場合でも、誰も自分たちが歴史上で悪者として扱わられている方々の子孫だ、という恥ずかしいことが言えない筈です。そう言う意味で、聖クルアーンの予言どおりに彼らこそが根絶やしになってしまったのです。 

カウサルの意味の中には、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が来世にもカウサルと言う名まえの小池や小川も与えられるということもあるのです。予言者からその小川あるいは池の水を貰って飲んだ人達は来世には二度と喉が乾かなくなりますし、また信仰をちゃんと守る信者達が、その小池の所に予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)と会えることも出来る、と言うことです。

だから、この章から学ぶ教訓としては、信者がいくら大勢の人々から反対されたり、皮肉を言われたりしてもがっかりしないで、サラートと唯一の神アッラーのメッセージを広げる為にどんな犠牲を払ってでも、努力を続けていれば、アッラーから勝利とあらゆる形で潤沢を与えられる、ということです。 

109.無信者たち(アル・カーフィルーン)

Sura: Al-Kaafiroon

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

قُلْ يٰٓاَيُّہَا الْكٰفِرُوْنَ۝۱ۙ [١٠٩:١]

لَآ اَعْبُدُ مَا تَعْبُدُوْنَ۝۲ۙ [١٠٩:٢]

وَلَآ اَنْتُمْ عٰبِدُوْنَ مَآ اَعْبُدُ۝۳ۚ [١٠٩:٣]

وَلَآ اَنَا عَابِدٌ مَّا عَبَدْتُّمْ۝۴ۙ [١٠٩:٤]

وَلَآ اَنْتُمْ عٰبِدُوْنَ مَآ اَعْبُدُ۝۵ۭ [١٠٩:٥]

لَكُمْ دِيْنُكُمْ وَلِيَ دِيْنِ۝۶ۧ [١٠٩:٦]

 慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます) 

“言え、「お不信者たちよ、私は、あなた方が崇めるものを崇めないし、あなた方も、私が崇めて、服従をしている者(唯一の神アッラー)を、崇めてそれに服従をする者たちではないだろう、私は、あなた方が崇めてきたものの,崇拝者ではなく、あなたがたも、私が崇めて、服従してきたもの(唯一の神アッラー)の、崇拝者ではない。あなた方には、あなた方の信仰と生き方があり、私には、私の信仰と生き方があるのです”。 

章の説明 

 本章では,信仰を拒否する者に対する正しい態度が教えられる。真理には妥協はないのであるが、誰の信仰に対しても、それを貶したり(けなしたり)蔑視(べっし)したりしてはならない。(ウマル三田解説) 

 この章で強調しているのは、困った時に日本人だけじゃなくて、すべての人間がいろいろな神々に助けを求めるが、イスラームの場合は、そういう神が全能の唯一のアッラー以外に誰も存在していないという考え方があるのです。だから、その御方だけを崇拝して、彼の教えだけに従うべきであるのです。この基本的な原理と真実に対して、イスラ-ム教が他のどんな宗教や信仰や生き方と妥協は全然出来ない、ということをこの章で教えているのです。 

信仰に対して、この事実を人類のすべての皆さんに教えたのは預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)であるのです。だからそれを信じる人と信じない人がいて、両方の間には妥協するのがいけないのだ、ということをこの章で教えているのです。

 世の中には、あらゆる宗教が存在しているのですが、共通点は、イスラーム教の立場から見た場合に、彼らが唯一の全能の神アッラーを信じていない、と言うことであるのです。だから、我々の見方から言えば、それらの皆が無信者の定義に入るのです。こういうふうな無信者たちが一つの無信仰という宗教になるのです。また、唯一の全能の神アッラーのことを信じている信者たちはまた別の宗教者になるのです。この両方の宗教の考え方から見れば、神に対して崇める儀式だけ違うことになるように見えるのですがそれだけではなく、それぞれの宗教論に基づいて、別々の道徳の道と生き方も生まれていくのです。また毎日の生活習慣までも違っていくのです。だから、この両方の違う信仰の間には妥協が無理になるのです。こういうふうに二種類に分けて、全ての宗教の基本的な考え方が分けられるのです。 

 イスラーム教の場合は、すべての無信者の方々には、イスラーム教の治下の下で宗教の自由が与えられるのです。けれども、彼らの宗教や、考え方や、生き方に関しては、どんなことがあっても永久に妥協してはいけない、ということがこの章で教えられているのです。真理と虚偽(きょぎ)の間には妥協がないのです。だから、無信者は自分の宗教や生き方を自由にやって良いのですが、我々は、自分たちの信仰と生き方を固く守っていくべきだ、ということがこの章で述べられているのです。それは、人間を助けてくれる、養ってくれる、幸せにしてくれるのは、唯一の、全能の神がアッラー以外にだれも存在していないからです。 

 イスラームでは、サラテュル・ハージャトというと特別のサラートがあるのです。人間には何か大変な困ったことがあって、どうしても神に助けて貰いたいと思った時には、この特殊なサラートをやるようになっているのです。このサラートの第一ラカートに、この章を読むよう教えられているのです。その重要性がどこにあるのか?この章の基本的な教えは、全ての神々のことを強く否定して、誰とも何の妥協もしないで、唯一の全能の神、アッラーだけに物事を頼むべきだという教えにあるのです。だから、人間が困って、何か大事な願い事があった時の特殊なサラートーウルーハジャトの中には、この章を先に読んで、外の神々じゃなくて、アッラーだけがそういうふうな人間を実際に助ける力を持っているという教えを自分の認識においてからお祈りするべきです。それで、願い事が叶えられるだろう、という重要性があるのです。 

110. 援助(アン・ナスル) 

Sura: An-Nasr

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

اِذَا جَاۗءَ نَصْرُ اللہِ وَالْفَتْحُ۝۱ۙ [١١٠:١]

وَرَاَيْتَ النَّاسَ يَدْخُلُوْنَ فِيْ دِيْنِ اللہِ اَفْوَاجًا۝۲ۙ [١١٠:٢]

فَسَبِّحْ بِحَمْدِ رَبِّكَ وَاسْتَغْفِرْہُ

 
 ۝۰ۭؔ اِنَّہٗ كَانَ تَوَّابًا۝۳ۧ [١١٠:٣]

 

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

「アッラーからの援助と勝利が来た時に,あなたは、人びとが群れを成してアッラーの教え(イスラーム教)に入るのを見るだろう,あなたの主の栄光を誉め称(ほめたた)え,また彼に悔い改めて赦し(ゆるし)を求め。まことに彼は,悔い改める方を度々赦してくれる御方である 

章の説明 

この美しい章はヒジュラ10年、聖預言者(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の最後のマッカ巡礼の際、ミナーという場所で下ったものである。大念願が成就され,全アラビアが教化されたのを見届け、この啓示後80日にして、かれはアル・マディーナにおいて逝去(せいきょ)した。勝利は,永年にわたる努力奉仕(ほうし)の賜物として,アッラーから下ったのである。 (ウマル三田解説) 

この章がハッジャツルーウィダー、予言者(PBUHの最後の巡礼の時に啓示されたものである。その時は、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が、この章によって自分の死のことが知らされている、と言ったのです。

この時までイスラーム教を広げる活動を開始してから約23年経っていて、アラビアの地域全部がイスラーム教に入信していた。その意味で、これはアッラーの助けによってアラビア中でイスラーム教の勝利の宣伝の章でも言えるのです。 

アッラーの助けによってこの勝利に至るまでの23年の間には、イスラーム教の信者等が、マッカ市で初めて色々反対されたり、意地悪されたり、苛められたり、圧迫されたり、肉体的な苦痛を与えられたり、拷問にかけられたり、殺されるような危機も越えて、ムスリム等がメヂナ市へ移民しなくてはいけない状況になったり、それから無信者軍からメヂナ市では侵略されたり、メヂナ市での友好の契約をしながらユダイヤ教等から裏切られたり、またアラビア中からも色々な侵略軍と戦争をするようなことがあったのです。そういうふうなあらゆる大変な時期をうまく乗り超えるようになったのが全部アッラーのお助けとお蔭であったのです。だから、この勝利のことで無信者のように威張る態度をとらないで、その主の栄光を誉め称え,また自分の全ての思い違いや過失や罪に対していつでも彼に御赦を求めなさい、と言うことをこの章で教えているのです。 

また、この勝利でアッラーの御使いとして、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のアラビア中でイスラーム教を広げると言うミッションが完成になったことがアッラーによって確認された。自分に与えられたこのミッションを完成されたので、預言者(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)はこの章によって自分の死のことを知らされた、ということを述べていたのです。 

 この章で教えているのは、イスラームの信者達の生きる目的は何をすべきか、と言うことです。予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の人生と彼のミッションの最終的な勝利のことから学んでおくべきであるのです。私たちも同じく自分の生涯をかけて、イスラーム教が人類にもたらした平和と正義と平等と貧富の差をなくす等のような高遠(こうえん)な理念と理想に基づいた体制のことをダアーワーとして皆に教えるべきであるのです。また、人類の為だけじゃなくて、自分自身と自国の人々の幸せのためにもこの体制を完全に実現されるような活動をするべきであるのです。 

その体制がなにをもたらしたのか?イスラーム教は外の宗教と違って、誰を崇めるべきなのか、誰を崇拝するべきなのか、ということだけの宗教ではないのです。イスラームの制度は、歴史上で実行された国々では、皆に平和と正義と平等と貧富の差をなくす等のような理想的な社会をもたらしたのです。 

こういうイスラームの教えを全世界に広げる義務を果たすべきであるのです。各ムスリムがそう言うライフ・ミッションを持つべきであるのです。色々な障害は必ず出てくるが、そういうミッションを持っている方々には、必ずアッラーからの助けと援助もついてくるので、最終的に予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)と同じく勝利にいたるのは間違いないのです。これがこの章から私たちが学ぶべき教訓になるのです。 

111章:火炎(アル・ラハブ

Sura: Al-Masad

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

تَبَّتْ يَدَآ اَبِيْ لَہَبٍ وَّتَبَّ۝۱ۭ [١١١:١]

مَآ اَغْنٰى عَنْہُ مَالُہٗ وَمَا كَسَبَ۝۲ۭ [١١١:٢]

سَيَصْلٰى نَارًا ذَاتَ لَہَبٍ۝۳ۚۖ [١١١:٣]

وَّامْرَاَتُہٗ۝۰ۭ حَمَّالَۃَ الْحَطَبِ۝۴ۚ [١١١:٤]

فِيْ جِيْدِہَا حَبْلٌ مِّنْ مَّسَدٍ۝۵ۧ [١١١:٥]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

[滅びよ,アブ・ラハブの両手は。そして、かれも滅びてしまった。かれの財産も彼が稼いだものも、かれのためになにも役に立たなかった。やがてかれ自分自身は(と彼の妻も)、すぐに燃え盛る炎の業火の中で焼かれる。人々の悪口と中傷をして歩いていた、かれの妻も焼かれる。 彼女の首に棕櫚(しゅろ)の荒縄かけて。] 

 

章の説明 

 本章は最初期のマッカ啓示で,残酷な迫害の特別の場合である。悪は結局失敗のほかはなく、自分の手が自らを滅すもので、富も地位も用をなさないという一般的な教訓である。(ウマル三田解説) 

 アブ・ラハブという方は預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の叔父さんであったのです。彼と預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の父アブヅウッラが同じお父さんアブヅル・ムタッリブの息子として親の兄弟だったのです。また、彼と預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の家が隣どうしで、壁ひとつで分かれていたのです。アラブの伝統として同じ部族の方々がお互いに助け合う義務でもあったのですが、そういう密接な繋がりを無視して、アブ・ラハブが予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のことを徹底的に反対していたのです。予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のもう一人のお祖父さん、アブ・ラハブの親の兄弟アブ・タリブが最後まで無信者であったのですが、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)を敵から守るべき部族伝統をちゃんと果たしていたのです。けれども、アブ・ラハブと彼の奥さんは,これの正反対に回って、敵みたいに予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)を苛めたり、意地悪したりしていたのです。 

全能の神アッラーは、普段どんな個人の名まえも出さないで、一般的に無信者の悪者等を地獄で焼かれると言っているのです。けれども、アブ・ラハブの罪が誰よりも酷いので、彼個人の名前まで出して、この章で彼がこの世でも天罰に会うことと、また、あの世でも彼と彼の奥さん、二人とも、火に焼かれるということを前もって警告しているのです。また、この世で彼と、彼の奥さんも、息子も、天罰にあわせられた事実もあったのです。 

 この章で警告されたとおりに、彼がこの章が啓示されてから約7、8年後に凄い天罰を受けて亡くなったのです。人が近づいてはいけないような病気で亡くなって、彼の息子たちも、どんな親戚や友達も近づけないで、彼の遺体は三日間腐ってしまって、一般の労働者に頼まれて処分されたのです。彼の無信者の息子ウテイバも虎に捕まえられて、食われて、なくなったのです。また、彼の奥さんも酷い天罰を受けて亡くなったのです。この世では、彼が一所懸命に稼いだ富も、財産も、地位も、何も役に立たなかったのです。来世でも、彼と彼の奥さんが、二人とも永久に「すぐに燃え盛る炎の業火の中で焼かれる」、ということをこの章で教えられているのです。 

  アラビアでは、その時代の社会で流行っていた伝統のとおりで、アブ・ラハブの威張る材料として、大勢の子供と、現代の億万長じゃみたいに、豊富な富と財産の持ち主でもあったのです。彼のことを例えにして、この章で学ぶべきことは、人間には信仰と良い行い以外に、この現生の間に、一生の人生をかけて集めた富や財産や地位や稼いだすべてのものが、神の天罰にあった時や、死んでから業火に焼かれるときには何の役にもたたない、と言うことです。 


 

 

 

 

 

 

 

 

112:純正 (アル。イクラース:AL-IKHULAS)

Sura: Al-Ikhlaas 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

قُلْ ہُوَاللہُ اَحَدٌ۝۱ۚ [١١٢:١]

اَللہُ الصَّمَدُ۝۲ۚ [١١٢:٢]

لَمْ يَلِدْ۝۰ۥۙ وَلَمْ يُوْلَدْ۝۳ۙ [١١٢:٣]

وَلَمْ يَكُنْ لَّہٗ كُفُوًا اَحَدٌ۝۴ۧ [١١٢:٤]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

 {言え、「それはアッラーである、唯一なる御方。アッラーは,自存で、(だれにも頼っていないし、かれに皆が頼っています。)御産みなさらないし、御産れになられたのでもない、かれに比類する、かれに比べ得る、何ものもない。」} 

章の説明 

 本章はマッカ初期の啓示で、純正〔AL-IKHULAS〕は無用のものを排して、純正にする意である。また本章は、唯一なる御方の章あるいは信条章とも呼ばれ、アッラーの唯一性が簡明に数語のなかに要約されている。それで信仰を告白し、また迷信を蔑視して排撃する意味で、日頃よく唱えられる章である。(ウマル三田解説) 

人間は困って、自分の努力でどうにもならないと思った時には、本能的に神の助けを求めるようになっているのです。例えば、船が沈んでいてどうにもならないと思った時は、どんな人間でも、目に見えない全能の神に自然に助けを求めるのです。多神教の方々もそういうふうに本当に困って、大変や、どうにもならない時には、大勢の神々のことを忘れて、唯一の全能の神だけに助けを求めるのです。ずっと昔々から多神教のアラビアでもこういう唯一の、全能の神のことをアッラーと言っていたのです。 

カアバ神殿を壊すつもりで、キリスト教のエイメンの地域から象と6万人の大勢の兵隊を連れて来たアブラハ侵略者の時でも、マッカ市の方々がアッラーの唯一の神だけに助けを求めていたのです。また、実際に助けられたのです。その時、どういうふうに助けられたかの話が第105章であるのです。敵側が神、アッラー、の奇跡的な力で滅ぼされたのです。このことは、第105章でこういうふうに書いてあるのです:「かれら(敵側)の上に群れなす数多のアバビルという鳥を(つか)わされ, それらは、彼らに焼き土の(つぶて)を投げた。そうして彼は(主は)、彼らを食い荒らされた(わら)(くず)のようにしてしまったのである。」 

彼らに天と地は、誰が創造したかという質問した場合は、彼らはそういう神がアッラーである、ということがいつでも答えていたのです。 

 この章で預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)は、呼びかけている唯一の神、アッラー、のことも、彼らはずっと昔の時代から良くご存じであったのです.この章でも、その同じ唯一の全能の神アッラーだけに服従し、そうして、その御方のことだけを崇拝しなさい、と言っているのです。

 多神教の神々のことだけではなく、ユダヤ教の神に間して考え方も、またやキリスト教の神の子と言う考え方も、この章で否定しているのです。世の中には、誰も神の子ではない。神は人間ではないから、人間みたいに子供を産むようなことをするわけがない。また、誰も神を産んだということもありえない、ということもこの章で教えているのです。 

 この章の大事さとしては、この短い章が全聖クルアーンの三分の一と等しいと言われているのです。それはこの章でアッラーの唯一性と自存性を語られているからです。 

 イスラーム教では、根本的に三つの信条があるのです。その第一は、唯一の全能の神アッラーを信じることと、その第二は、預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のことがアッラーの最後の御使いとして信じることと、その第三は、来世があって、その時に人類の皆さんが蘇られて、そこに永久の人生があって、現世の行いに間して処罰があるということを信じることであるのです。全聖クルアーンでは、この三つの信条のことが詳しく説明されているのです。この章では、この三つの信条の中から、その第一の信条のことが明確に書かれているのです。だから、この章は聖クルアーンの三分の一と等しいといわれているのです。

 

 

 

 

 

Sura: Al-Falaq 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

قُلْ اَعُوْذُ بِرَبِّ الْفَلَقِ۝۱ۙ [١١٣:١]

مِنْ شَرِّ مَا خَلَقَ۝۲ۙ [١١٣:٢]

وَمِنْ شَرِّ غَاسِقٍ اِذَا وَقَبَ۝۳ۙ [١١٣:٣]

وَمِنْ شَرِّ النَّفّٰثٰتِ فِي الْعُقَدِ۝۴ۙ [١١٣:٤]

وَمِنْ شَرِّ حَاسِدٍ اِذَا حَسَدَ۝۵ۧ [١١٣:٥]

マウッザタエーン (MAUZZATAIN)

聖クラアーンの最後の二つの章の説明 

第113章:黎明(れいめい) (アル・ファラク)と114章人類:人々(アン・ナース)

第113章.黎明(れいめい) (アル・ファラク) 

(邦訳)

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

(1-6):{言え、「夜明けの主に守護を求める、かれが創造してくれたもの(から発生するすべて)の悪から、夜の深まる暗闇が 

Sura: An-Naas 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

قُلْ اَعُوْذُ بِرَبِّ النَّاسِ۝۱ۙ [١١٤:١]

مَلِكِ النَّاسِ۝۲ۙ [١١٤:٢]

اِلٰہِ النَّاسِ۝۳ۙ [١١٤:٣]

مِنْ شَرِّ الْوَسْوَاسِ۝۰ۥۙ الْخَنَّاسِ۝۴۠ۙ [١١٤:٤]

الَّذِيْ يُوَسْوِسُ فِيْ صُدُوْرِ النَّاسِ۝۵ۙ [١١٤:٥]

مِنَ الْجِنَّۃِ وَالنَّاسِ۝۶ۧ [١١٤:٦]

凄く覆われた時の悪(危害)から、 結び目に息を吹きかける妖術使いの人たちの悪から、また、嫉妬する者が現実に嫉妬をやった時の悪(災厄)から。」} 

 

114:章人類、 人々(アン・ナース)

(邦訳)

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

(1-6):{言え、「人類の主に守護を求める,人類の王に、人類の神に。こっそりと何回も何回も忍び込み、 (悪い考えの)囁く者の悪から、それが人間の胸に(悪い考えの)囁きかける者である。ジンであろうと、人間であろうと。」} 

聖クラアーンの最後の二つの章の説明 

名まえ: 聖クルアーンにはこの両方の章が別々の章として、別々の名まえで書かれているのですが、両方の内容と中身は密接にお互いに結ばれているのです。だから、両方を一緒にしてマウッザタエーンと言う名まえが付けられているのです。その意味は、この両方の章の中でアッラーに守護を求められている、と言うことです。そして、ここで両方に対して同じ序論を書いているのです。けれども両方の章の説明もまた別々になるのです。 

両方の章の説明: この序論はアル・ファラク(113)とアン・ナス(114)両方の章に間してあるのです。 

啓示された時期ユダヤ人等は、予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)に妖術をかけたことがあったのです。その時メヂナ市で、この両方の章が一緒に2回目に啓示されたことがあったのです。これらの章がその以前に、一回マッカ市にも啓示されたことがあったのです。場合によって、同じ章或は、聖クルアーンの同じ節がは、何回も啓示されることも時々あるのです。

内容の中心: マッカ市では、この両方の章が下った時の状況がなりたいへんだったのです。イスラームのダアワー(呼びかけ)を始めた途端に預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が蜂の巣を突いた感じのような状況に直面したのです。彼のダアワーが広がるたんびにクライシュ族の反対行動がだいぶ厳しくなっていたのです。敵側にまだ何かの取引で、預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)はダアワー活動をやめるだろう、という見込みがあった時までは、反対活動はまだそれほど厳しくならなかったのです。けれども、預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)に、お金と女と社会的な上の地位みたいないろいろな誘惑を提供してみても無駄だったのです。彼らのお互いの宗教や、お互いの神々にかわりがわりの順番に崇めるような妥協の提案も、第109章によって断られたのです。誘惑も妥協もきかないと分かった時点から、かれらの反対活動がかなり酷くなったのです。

 そういう状況の時がこの両方の章が啓示されたのです。マッカ市で予言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が強迫されたり、あらゆる方法で苛められたりしていたのです。自分自身を守るためにどんな政治的な権力や兵隊など何もなかったのです。そういう時に、アッラーだけが守ってくれる、ということが皆さんにこれらの章をとおして、知らされたです。 

 日本人の中には、車に或は首にお守りをかける方々もいるのです。そのお守りをかけた場合は誰が守ってくれるのか?その答えが良く分からないのです。イスラーム教の場合はこの両方の章でそういうお守りが全能の唯一の神アッラーによって可能である、ということが、この両方の章で明らかに述べているのです。 

 預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)にもユダヤ教の方々からかけられた妖術は、この両方の章で全能の神アッラーから啓示された元のアラビア語の言葉、そのオリジナルな、本来のアラビア語で、神から直接啓示されたそのもとの言葉の不思議な、精神的な力で、その妖術が無効になってしまったのです。だから、この両方の章を覚えていて、常に私たちもアッラーに守って貰うように願った方が良いのです。

 預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)は、毎晩寝る時に、この両方の章を読んでいた。またそれを読んでからの息を自分の両手に振って、その両手が自分の顔から足まで全体に撫でてから寝ることにしていたのです。

この修業の概念としては、神から直接啓示されたこの両方の章の元の言葉の不思議な力で、自分の全体が、目に見えない(悪魔やおばけみたいな)あらゆる害から守って貰えるということです。こういう神から直接啓示された元の言葉に、そういうふうな妖術が溶けるような、或は、目に見えないあらゆる害から守って貰えるような、不思議な力があるのです。それは神を信じた人に神から与えられた不思議な精神的な力と思う以外にほかに何の説明もできないのです。

 この二つの章だけで、そのぐらいの不思議な精神的な力があるということが立証されているとすれば、全聖クルアーンの元の言葉にどれ程目に見えない不思議な、精神的な力があるのだろか、想像もつかないのです。 

 この本の初めに書いてあるように、無信者の日本人のアラビヤ語の若い学生の女の子が、酷い癌の病気で、もう治るのが不可能で、一か月で死ぬだろう、とお医者さんたちにいわれていた。彼女は、ずっとか月間、聖クルアーンとそれのアラビヤ語を何も分からないのに、ただそれのテ-プを毎日一生懸命に聞いていただけで治った。分からなくても、神から直接下された元の言葉に、そういうふうな目に見えない不思議な、精神的な力があるのです。 

 この両方の章に限らず、聖クルアーン全体に、神から啓示された元の言葉に、こういうふうな目に見えない不思議な力があるのです。それは、あるハヂースでこういうふうに言われているのです:「聖クラアーンのことでしょっちゅう忙しい人には、アッラーは、自分のことをしょっちゅう念ずる人や、しょっちゅうねがい事を頼む人よりも、かなり多くのモノや慈悲を与える、と」。 

第113章.黎明 (アル・ファラク) 

Sura: Al-Falaq 

بِسْمِ اللہِ الرَّحْمٰنِ الرَّحِيْمِ 

قُلْ اَعُوْذُ بِرَبِّ الْفَلَقِ۝۱ۙ [١١٣:١]

مِنْ شَرِّ مَا خَلَقَ۝۲ۙ [١١٣:٢]

وَمِنْ شَرِّ غَاسِقٍ اِذَا وَقَبَ۝۳ۙ [١١٣:٣]

وَمِنْ شَرِّ النَّفّٰثٰتِ فِي الْعُقَدِ۝۴ۙ [١١٣:٤]

وَمِنْ شَرِّ حَاسِدٍ اِذَا حَسَدَ۝۵ۧ [١١٣:٥]

慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。 

(1-6):{言え、「夜明けの主に守護を求める、かれが創造してくれたもの(から発生するすべて)の悪から、夜の深まる暗闇(くらやみ)が凄く覆われた時の悪(危害)から、 結び目に息を吹きかける(妖術使いの人たちの)悪から、また、嫉妬(しっと)する者は現実に嫉妬をやった時の悪(災厄(さいやく))から。」} 

章の説明 

 本章はマッカ初期の啓示で外界からの災厄(さいやく),他人からの害意や策謀や嫉妬に対し,アッラーの守護を祈り,迷信や恐れの心を排除する。(ウマル三田解説) 

解説(1):「言え」と言う言葉は、人類に神の教えを伝える為に、預言者ムハッマドPBUH: (彼にアッラーの慈悲と平安があれ)に与えられたメッセージの一部であるのです。この言葉の第一受信人が預言者ムハッマド(彼にアッラーの慈悲と平安があれ)であるのですが、彼の次には各信者がこれの受信人になるのです。簡単に言うと、アッラーから受けた導きを皆に伝えなさい、という意味も含まれているのです。

解説(2):守護を求める行為の中に三つの部分があるのです。その第一は、守護を求める行為自体です。その第二は、守護をだれに求めるべ方?その第三の方は、守護をしてくれる方であるのです。守護を求めるということは、何か恐ろしいものがあって、その恐ろしさから守って貰うために、誰か第三者の保護のもとにいくか、誰かの所へ隠れるか、誰かにしがみ付くか、誰かの影のもとに行くか、と言うようなことであるのです。守護を誰に求めるか?と言うのは、自分が怖がっているものから自分自身の力で守れきれない、と言うような方のことです。だから、そう言う恐れるものは、誰か第三者の守護を求める必要性が凄く感じているのです。また、その守護を求められる第三者に対して、守護を求める方が、自分が怖がっている恐ろしいものから、自分自身のことを保護できるような凄い力の持ち主の方は、その第三者だけである、と思っているのです。 

また、守護を求める種類の中に第一は、自然法則で動いているこの物質世界のなかでは、何か物質のものや、力や、人から求められるような守護であるのです。例えば、敵の攻撃から自分を保護してもらう為には、どこかのお城に入って自分の身を守ることや、弾丸(だんがん)の雨にやられない為には、何か塹壕(ざんごう)に入るや、どこかの壁や丘の後ろに隠れることや、ある残酷な暴君に捕まらないようにする為には、誰か強い人や、国家や、政府によって保護して貰うようなことや、太陽の熱い日光から救うためには、何か木や建物の影に行くようないろいろなことがあるのです。 

上に述べたような守護を求める種類以外に、それの第二種類としては、全ての危険性のあるものと、また、全ての物質的、道徳的や精神的な害や損害の恐れのあるものや、あらゆる恐ろしいものから守ってもらう為に、超自然的な者に守護を求める、と言うことです。この種類の守護は、ある信条に基づいてやることです。その信条としては、ある御方に間して、超自然的な方法で守護を求める者の望みを叶える能力と力を必ず持っているだろう、と言うことを信じることです。このアル-ファラク章と、この次のアン・ナス章で守護を求められているのは、この第二種類の守護のことです。 

また、聖クルアーンとハヂースという預言者ムハッマド(PBUH)のすべの教えで、どこでも守護を求めるという話がでてきた場合は、それのすべてが、この第二種類の守護のことであるのです。イスラームの一神教の信条に基づいて、この種類の守護は、全能の唯一の神、アッラー、以外にどんな者にも求めるのは、固く禁じられているのです。これが、多神教と現代物質主義の方々の考えかたとイスラームの一神教の根本的な考え方の違いであるのです。昔の多神教等も、また現代の多神教等も、皆がアッラー以外にあらゆるものや神々に守護を求めているのです。それはイスラーム教ではいけないことになっているのです。

現代の物質主義者の場合は、因果論者であり、自分の努力で集められる手段だけに頼っていて、それで思いどおりの良い結果がでないで、失敗になってしまった場合は、がっかりしたり、自殺したり、しているのです。そういう方々が何か超自然的な御方の存在を認めていないからです。また、そういう方々は、だれか御方の超自然的な力と能力の支えと応援によって助けられとも思ってないし、また、困った時にやるべき手段や方法のことも導きられて、自分の望みが叶えられる可能性もあるだろう、と言う考えも認めないのです。 

イスラームの信者の場合は、何の力もない、あらゆる、神々に守護を求めないのです。また、自分の力や能力や努力で防げないあらゆる災難や、逆境や、不運から守護を求めるためには、アッラーの方へだけに、自分の願い事を向けるのです。 

解説(3)ここで{ラッビル・ファラク}と言う言葉の意味は解説者の多くの方が「夜明けの主」、と書いてあるのです。というのは、夜中の暗闇を突き破って、明るい夜明けを抜き出してくれるような力と能力を持っている御方の守護を求めるということです。ファラクと言う言葉の意味は、何か固いものを突き破って出てくるようなことです。例えば、卵の固い皮を突き破って鶏のひよこが外へ出てくるようなことのです。全ての野菜や植物が、種のかわと固い土を突き刺して、土の中から上までに出てくるのです。池の水が土を破って,表に出てくるので、池と言う形のものになるのです。全ての生き物や動物や人間自体が自分のお母さんのお腹から外へ出てくるのです。そういうふうなすべてのことが、ファラクと言う言葉の意味に入るのです。

 そういうファラクと言う機能が、すべての植物や動物や人間に対して創造してくれたのは、皆の主、全能の唯一の神、アッラー、であるということです。この幅広い意味をとった場合は、そういう形や方法で全てのものを創造してくれた、その御方に守護を求めることになるのです。 

また、もう一つ別の意味で理解するためには、次のことが分かる必要があるのです。ここで神、その御方自信の名まえ、アッラー、という言葉を使わないで、その御方の99の性質の中から、一つ特殊な性質のことの、ある特殊の役名を指摘したような表現にしているのです。この章の中心テーマは、あらゆる不運、不幸、損害、逆境、災難等から守護を求めることであるのです。だから、それが夜の暗闇と思えば、それを突き刺して夜明けを抜きだすような、能力と力を持っている御方に守護を求める、ということです。神のこの特殊な役名を指摘する為に神の名まえ、アッラー、と言わないで、その御方のそういう暗闇の中から夜明けの明るさを引っ張ってくれるような特殊な性質が、この節で指摘されているのです。そういう性質を持っている御方こそが、人間の不幸と不運の暗闇は夜明けの明るさのように幸せと幸運にしてくれるし、また全ての災難からも保護をしてくれるのです、と言う意味がこのラッビル・ファラクの言葉の表現の中に含まれているのです。 

解説(4):かれが創造してくれたもの(から発生するすべて)の悪から」という節の説明で、次のことが明らかにする必要があるのです。 

 その第一は、どんな悪でも、アッラーがわざわざ悪としてそれを創造しているわけではない、ということです。ここで言っているのは、アッラーが創造してくれた全てのものから発生されるすべての悪から守護を求める、ということです。アッラーがどんなものでも、悪のためにあるいは、悪という目的で創造したわけではないのです。その御方のやる全てのことは善であり、何か良い目的で、何か良い役名を果たすためであるのです。がその御方は創造してくれたある創造物から人間に対して、時々悪が発生される場合もあるのです。またある種の創造物から、ほとんど悪が発生することが多い場合もあるのです。だから、そういう創造物から発生する悪から、その御方に守護を求めることが人間に必ず必要であるのです。それは、どんな人間でも、自分自身の知恵と力だけで、そういうふうな多くの悪から自分自身の守護が出来ないからです。 

 その第二は、この一つの節ですべての創造物の悪から守護を求められているのです。だから、また後程いろいろな別の悪から守護を求める必要がなくなるのですが、これから次のいろいろな節と、またこの章のあとで次の章の全ての節で、またいろいろな特殊な悪からも守護を求められているのです。というのは、この章と次の章で述べられている悪から守護を求めることは、この述べられている悪が特殊ななものであり、そういうふうな悪からも守護を求めるのは、人間には、何よりも一番大事なのです。 

その第三は、全ての創造物から発生する悪から守護を求める為には、一番妥当と、効果的なやりかたは何でしょうか?それらの創造主に守護を求めることであるのです。自分の創造者と支配人と戦う力がどんな創造物も持っていないのです。 

またその御方が、我々が知っているその創造物から発生されるすべての悪と、我々が全然知らないそういうふうな悪の全ても、良くご存じであるのです。その創造主が、自分の創造物のことを完全に支配しているのです。だから、そういうふうな御方から守護を求めることによって、われわれが知っている悪であっても、あるいは我々は全然知らない悪であっても、各創造物の各悪から守られるのです。また、この現世に存在している悪だけじゃなくて、来世の全ての災難や悪からも守られるのです。 

その第四は、ここで「悪」という言葉が直ぐに直接受ける損害や、被害や、痛みや、気の毒のことや、悔しいことや残念なことのような意味で使われているのです。また、こういうふうないろいろなことを直ぐに直接受けないで、何かの原因で、そういうふうな結果がでてくる可能性がある場合でも、その原因のことも「悪」という言葉の意味に入っているのです。例えば、病気、飢餓、何かの事故や戦争でけが人になることや、火炎で焼かれることや、蛇やほかの動物に噛まれることや、子供や親しい友人の死で悲しむことのような直ぐ、直接受けられることが、ここで「悪」の一つの意味であるのです。けれども、直ぐ目に見えないような「悪」もこれの意味に入っているのです。何かの原因によって、似たような「悪」が将来の結果としてでてくる可能性があった場合でも、その原因のことも同じく「悪」の意味でとられているのです。この二番目の意味の「悪」の例としては、不信者たちや、多神教等や、罪深い方々の場合は、直ぐに何の罰も「悪」として直接受けることがないこともあるのです。また、場合によっては、ある特定な罪によって、一時的な楽しみや利益がでることもあるのです。けれども、こういうふうな人達が、最終的には、結果として、あらゆる形でこの現世でも、また来世でも、罰当たりという「悪」に直面することがあるのです。これは日本で罰当たりという概念として認められているのです。だから、そういうふうな原因のことも「悪」の意味に入るのです。そういうふうな両方の「悪」から守護を求めることを、この節で教えているのです。 

 アッラーはどんなものでも「悪」として創っていないけれども、たまにもともと「悪}ではなかったものが、罰当たるのために使われる場合があるのです。

その第五は、もう既に直面している悪からも、また、まだ直面していない悪からも、両方の悪から守護を求める意味もこの節の言葉に入っているのです。 

解説(5):全ての創造物から発生する悪の話の次に、創造物から発生される可能性がある特殊な悪からも、守護を求めるように教えられているのです。それの第一は、「 深まる夜の暗闇(くらやみ)が凄く覆われた時の悪(危害)から、」のことです。アッラーが夜の深い暗闇が「悪」として創造したわけではないのです。けれども、犯罪や、邪悪や、残酷のような行為も、殆んど夜の暗闇の中で起こっているのが多いのです。有害な動物もおもに夜の暗闇の中に外へでてくるのです。 

預言者ムハッマド(PBUH:彼にアッラーの慈悲と平安があれ)が、あるハヂースでそういうことを教えているのです:「太陽が沈んだ後には、悪魔たちがあらゆる方面に撒き散らす(まきちらす)のです。だから、夜の暗闇が始まる前に、自分の子供たちを家に戻して、また飼育(しいく)動物も結んでおくようにしなさい」、と。このハヂースからも夜の暗闇の悪のことが明らかになるのです。 

 またここで、夜の深い暗闇の悪から夜明けの主に守護を求める」と言うような、第一節の表現が心に強い、印象深い効果を与えるのです。 

解説(6)それの第二は、結び目に息を吹きかける(妖術使いの人たちの)悪から」という節では、妖術を掛ける行為自体もいろいろな特殊な悪の中には、一つ酷い「悪」である、ということが明らかに教えられているのです。また預言者ムハッマド(彼にアッラーの慈悲と平安があれ)のいろいろなハヂースに基づいて、全てのイスラームの学者が妖術のことが、ハラームだと言って、これのことがはっきりと禁じられている、という結論に皆が一致しているのです。

解説(7)それの第三は、「嫉妬する者が実際に嫉妬をした時の行動の悪(災厄(さいやく))から。」という節では、嫉妬をする方が心の中にそういう気持ちだけを抱いていて、実際になにも嫉妬するような行動に移らない場合は、そういう嫉妬感が何も気にする必要がないのです。相手が、実際に嫉妬の行動に移った時にこそ、その悪から守護を求めるように、と言われているのです。 

嫉妬の意味は、もしアッラーが誰かに何か恵みや恩恵や特典を与えてくれた場合は、それに間してほかの人が焼いて、その人からその恵みを全部盗られて、自分の方がその全部を貰うような気持ちを抱くのが嫉妬というのです。自分がそれを貰わなくても、相手からそれを全部盗られた方が良い、という気持ちも嫉妬になるのです。 

そういうふうに嫉妬をされている事態が起こった時に、どういう対策がいいのでしょうか?こういう場合は、一番先にやることは、アッラーに守護を求めることです。それと同時にマウドヂー先生が次の対策を進めているのです。 

 それの第一は、人間はアッラーを頼るべきです。アッラーの意思がない限り、どんな人もほかの人に被害を与えることが出来ない、ということを固く信じるべきです。自分に対してどんなに嫉妬をしている人がいても、アッラー以外に誰も自分に何の害も与える力がない、という信念を持つべきです。 

それの第二は、嫉妬する人が、自分に対していくらいやな、嘘の話しを言いふらしていても、それを気にしないことです。最終的に皆が真実を分かるようになるのです。人の悪口を言いふらしている方自身が、後程皆に悪いと思われるようになるのです。自分として、嫌な話を我慢して、嫉妬する人と同じレべルに落ちないようにするべきです。 

それの第三は、嫉妬する人のことを、完全に無視することです。彼のいやな話を気にするのが、嫉妬する人の目的ですので、それを完全に無視すると嫉妬する人の策略が自然と失敗になるのです。 

それの最後の第四は、嫉妬する人に対して復讐してやるという気持ちにならないで、逆にチャンスがあれば、そういう方に対して、いつも親切な扱いをしていた方が良いのです。一神教で唯一の神、アッラー、だけに頼っている信者の心の中には、アッラー以外に誰の恐れも入らないのです。そういう方が、人に嫉妬されているから何か怖いことが起こるだろう、ということが全然恐れないのです。だから敵に対しても親切な扱いの心構えを持っているのです。