人類の幸せのために天から下さった神の導きの一番正確な分かり安い説明
日本の歴史で初めて
聖クルアーンの一番正しい分かりやすい邦訳
PART II(第二部)
Translation Combined with Explanations of Last 20
Surahs
邦訳と同時に詳しい解説も
(From Surah 95-At-Teen
to Surah 114-An-Nas)
第二部(章95-アッチンーから章114アン・ナスまで)
Translation &
Explanations By
Hussain Khan, M. A. Tokyo
翻訳者と解説者: フセイーン ハーン(東大修士)
聖クルアーンが30部に分かれています。それの1/30はパーラと言われています。イスラームの断食の月ラマデャンで30日間毎晩一つのパーラをタラヴィーと言うラマデャンの特殊な夜の長い礼拝の中で読誦されています。これがその最後のパーラ30部の全ての35章の邦訳です。これの最後のいくつかの章がイスラーム教等の皆さんが暗記して毎日の5回の礼拝に読誦しているのです。だからこの邦訳の第2部には、最後の20章(第95から第114まで)を邦訳と同時にそれの説明も解説の形で出しているのです。それで毎日礼拝の時そういう章がよく理解した上に読誦することができるのです。
PART II (From Surah 95-At-Teen to Surah
114-An-Nas)
第二部(章95-アッチンーから
章114アン・ナスまで)
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PART II(第二部)
Translation Combined with Explanations of Last 20
Surahs
邦訳と同時に詳しい解説も
(From Surah 95-At-Teen
to Surah 114-An-Nas)
第二部(章95-アッチンーから章114アン・ナスまで)
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95. イチジク (アッテイン) 章
メッカで啓示された章
“慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)”。
邦訳:“「イチジク(無花果)とオリーブにかけて(解説1)、ツール・シナイ山にかけて(解説2)、また平安なこの町(メッカー市)において(誓う)。確かにわれは、人間を最優秀な姿に創った(解説3)。それから、われらは、かれを低い者のうちでも最も低い者に投げ落とした。ただし、信仰して善行をなした者は別である。かれらに対しては果てしない報奨があろう。それなのに、何がおまえにその後に(最後の審判の日の)裁きのことを嘘として、否定させるのか? アッラーは、あらゆる支配者のうちに(すべてのものの)至上の支配者ではないか?“(解説4)
(解説1):イチジクとオリーブが一番多く栽培されている地域パレスチナとシリアのこと。その地域の歴史のことを証拠として出して何か一つの真実が次の節で語られているのです。
(解説2):シナイ山の地域内でツールと言う小さい山があって、その場所で全能、唯一の御方アッラーはムーゼ預言者と直接話をした、と言う伝統が聖クラアーンの別の所で書かれているのです。(解説3):前の三つの節でいろいろな地域において誓って、この節ではそれの結論を出しているのです。それは、この地域の歴史を証拠として出してここで述べられている結論が、人間がもともと悪者ではなく、非常に上等な道徳の持ち主として創造されたということです。アブラハームからイエス・キリストまでや預言者モハッマドまで二千から三千年のあいだにその地域に実現したあらゆる預言者たちが殆どこの地域の中からだったのです。人類の中に悪者もいっぱいあるのですが、このパレスチナとシリヤとシナイ山とメッカなどの地域で過去二,三千年のあいだに生まれたあらゆる預言者の生き方を見ると立派な道徳の持ち主の存在が否定出来ないのです。と言うのは、このことは人間の性質が立派な人格をもてるように創られているということの証拠になるのです。
(解説4):この章の最後の2,3節で教えているのは、人間として、自分の元々の生まれつきの良い性質と立派な人格を維持して育っていくべきです、と言うことす。それは信仰を持って善行をなさった場合だけ可能になるのです。そうではなかった場合は人間の人格が動物よりもずっとかなり低くなっていく、と言うことです。
96. 凝血 (アル・アラク
章の説明:
本章名は,第2節のことばにちなみ名付けられる。また第1節の冒頭の言葉により読誦〔イクラア〕章とも呼ばれる。第1-5節はヌール山頂のヒラーの洞窟で聖預言者に最初に下された啓示である。それ以下の第6-19節は,啓示の中断以後に下ったものである・・・・・・・(ウマル三田解説)。
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
[1-5]:読め、あなたの主の御名において、(その御方こそが)「創造なされた。一凝血から人間を創造した。読め、あなたの主は、最高 の尊貴であられ、筆によって知識と学問の道を開いた御方。人間に彼が知らなかったことの智識(とすべての学問)を与えた」。
[6-19]:「断じて、まことに人間は、(神に対して)凄く反逆的である。それは、(神に頼らなくても)自分自身の力でなんでも出来るだろうと思っているからです。(けれども、神に対していくら反逆していてもいずれは)きっとあなたの主の許に(すべての者は)必ず戻されるのである。
あなたは、阻止する者を見たか、一人のしもべ(ムハッマド)が、礼拝をしたい時にそれを妨げようとした。かれ(礼拝していた者) が、正しい道)に導かれていても、あるいは、かれが敬神を勧めていても、(こういうふうに防止されるべきなのか、)ということがあなたは見てないのか?また、(真理を)嘘であるとして背を向けた者のことも見てないのか?(こういう善と悪をやっている二人のような方々のことが) アッラーがきっと見ておられることを知らないのか。. 断じてそうではない。もしかれが(そいう行為から)止まらないのであれば,われは、額の前髪でかれを捕えて引っ張るであろう、嘘付き,罪深い額を。それで、かれは(自分の救助のために)己の寄り合いを呼び集めよう。われらも火獄の使いを呼び集めよう。断じて、あなたはかれに従ってはならない。一途にサジダして(主に)近付け。」〔サジダ〕
(解説1):預言者モハッマド(PBUH)が40歳ごろに人間の未来と社会の状況の改善のようないろいろな事に対して感心が深くなった。それで彼は町から離れた山の方へ行って、そちらにあったヒラーと言う洞窟に入って、そこでいろいろ考え事していた。彼が人間の未来と社会の改善に対して熱心に導きを探し求めていた。それである日急にジブリールと言うアッラーからの使徒がその洞窟に現れた。彼は一番初めにこの五つの節を預言者(PBUH)に教えた。それで聖クラアーンの啓示が始まった。その後23年にかけて預言者(PBUH)の死ぬ時まで徐々に聖クルアーンが全部啓示された。
(解説2):例えば、この節で指摘しているように、人間はどういうふうにあるいは、どのような材料によって創られたかの知識や学問が得られた場合は、人類と宇宙のすべての者の創造ぬしアッラーの偉大さを分かるのです。イスラーム教ほど知識と学問を大事にするような宗教は外にあまり目立たないのです。また坊さんに従うことじゃなくて、基本的に坊さんも先に同じ主に従って、聖クルアーンに基づいて宗教の事を教えるように制限されているのです。
(解説3):イスラーム教が始まったのはこの五つの節によって。その特徴はなんでしょうか?この五つの節のなかで四つの節の中には、知識と学問と読誦(読め)の話があるのです。また聖クルアーンでもいろいろ自然現象の素晴らしさと自然法則の事を指摘して、そういう知識と学問を得て、全能の唯一の神アッラーの存在と偉大さのことを認めて、その御方が自分と全人類の主であるのでその御方のことだけ従って、かれだけを褒め称えるべきだ、と言うことが教えているのです。
解説4:この邦訳の一番初めに書いてあるように、聖クラアーンのサイドラインではいくつかの箇所でサジダという言葉を書かられています。聖クラアーンを読誦しているときにそういう箇所まできた場合は5回の礼拝の時頭を下げて大地までもっていく動作のことをサジダといって、同じくサジダの動作をするべきことが定められています。その偉大な御方から授けられた元の言葉を理解した上にそのまま読誦しているときそういう箇所まできたときには、なんとなく人間の心や気持ちが神の前に頭を下げて主のことを褒め称えるようになります。
サジダと言うのは、礼拝の時頭を下げて大地まで持って行くこと。これの詳しい解説が第一部の初めご覧ください。
97. アル・カドル章
章の説明
本章は,クルアーンが最初に啓示された大事な夜は,全世界を照すことになった,御光の輝きを立証するにちなみ 名付けられる。マッカ時代の啓示である。暗黒の世の中に,啓示が下されたのである。アッラーの慈悲を現わす、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。(ウマル三田解説)
97. アル・カドル章
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
「誠にわれは,カドルの(運命を定められる重要な)夜に,この(クルアーン)を下した。カダルの夜がどういうものなのか、それ(の大事さ)をあなたが何をわかっているのですか?カドルの夜は、千月よりも優る。(その夜)天使たちと聖霊は,主の許しのもとで、全ての[者の運命を定められた)神命を持って下る。その夜が、夜明けまでには、平安の夜である。]
(解説1):イスラーム教の悪口を書いている西洋の学者たちは聖クルアーンが預言者モハッマドは自分自身の考えで書いたという嘘を広げているのです。がここではそういうことを否定されているのです。これはどんな人間も出来ないような内容のものであるのです。これが出来るのはアッラーのみの力と知恵と計画のお蔭です。
そういう嘘を否定するために一番良い証拠がアッラーは字を書くことも読むことも出来ないような方、モハッマド(PBUH)、を預言者として定めたことです。字も書くこと読むことも出来ない方がどういうふうに聖クルアーンみたいな素晴らしい教えを生み出せるのですか?だからこの章の一番初めにこれがアッラーから啓示されたことを明らかにしているのです。
この事実のもう一つの証拠もあるのです。聖クルアーンの一番短いアル・カウサルという第108章がメッカのカーバー神殿の壁の所にぶら下げておいて、預言者モハッマドは無信者の皆様にこの章と同等な文学的な何か文章をだすようにと、挑戦したことがあった。がアラブのすべての文学者が自分の負けを認めて、自分たちがそれを出来ないということを告白したのです。それでイスラーム教の反対者も聖クルアーンと同等な文書一節もどんな人間も作れないということを立証したことになります。これがいつまでも偉大な御方から下さったものであるという結論になるのです。
(解説2):聖クルアーンが人類のために一番初めに啓示された夜のことはカドルの夜と言われています。それは前章(第97号アル・アラク)の一番初めの五つの節のことです。その時からずっと23年をかけて全クラアーンが啓示されたのです。
断食の月ラマデャンの最後の十か間のどちらが一つはそのカドルの大事な夜と言われているのです。その中で一番可能性の高いはラマデャンの21日目や23日目や25日目や27日目や29日目だ、といわれているのです。ラマデャンで毎晩20ラカートの団体(ジャマート)の礼拝で聖クラアーンを暗記している方がおもに1/30を読誦しているのです。それは世界中の殆どうのモスコでは27日目で終わるようにしているのです。それはどういう訳だろう?その27日目の夜はカドルの夜になるだろうという可能性がこの十か間の中で一番高いだろうと思われているからです。
その大事な夜に世界中のイスラーム教の信者たちが出来る限り朝まで起きていてなるべく礼拝したり、聖クルアーンを読誦したり、宗教の偉い先生の話を皆が団体で聞いたり、また個人的に自分の人生の過去の過ちや罪のことを反省してアッラーの許しを求めたりしているのです。その夜はアッラーが人類から一番近い天に降りて、信者たち皆さんのお祈りや願い事を聞いて、みなの罪を許すだろうと言われているのです。それはこの章で言っているように、聖クラアーンがその夜に人類に与えられたので、一番祝福の夜と思われているからです。
(解説3):アラビア語ではこういう表現が計算して、ただ1000月の数に限ってないで、ずっと長い年数のことの意味で使われているのです。
(解説4):カドルの夜のも一つの大事な点は、この聖クラアーンの下った夜には全人類とすべての生き物と宇宙の中に存在しているすべてのものの来年の同じカドルの夜までの運命を定められた神令を持って使徒ジブリルと外の天使たちが降りて来ると言うことです。
98. 明証(アル・バイイナ)
章の内容
第96のアル・アラク章と第97のアル・カドル章の後にこの章の順番のことには非常に重要な意味が含まれているのです。アル・アラク章には最初の啓示で知識と学問を大事にしてアッラーの存在と宇宙と人類の皆の主として信じるようにと言う話があった。その次にアル・カドル章には聖クルアーンの啓示の始まりによって、人類の歴史と人間と皆の運命の定めることの大事さを教えた。それから今度、誰か一人の方が預言者として現れるのが人類の幸せのために必要だった、と言うことがこの章で明らかにしているのです。
人類の導きのためにモハッマドみたいな一人の方がこの世に現れて来ないとどんな人間も迷ってしまう可能性がおおきであるのです。この世でも来世でも幸せな生き方の導きのために、その御方、人類の主、の方から定められた誰か一人預言者の方の現れることが必要です。このこと以外にもこの章の内容としてほかのいろいろな話があるのはのちほどいろいろな解説で分かることができるのです。
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لَمْ يَكُنِ الَّذِينَ كَفَرُوا مِنْ أَهْلِ
الْكِتَابِ وَالْمُشْرِكِينَ مُنْفَكِّينَ حَتَّىٰ تَأْتِيَهُمُ الْبَيِّنَةُ {1}رَسُولٌ مِنَ
اللَّهِ يَتْلُو صُحُفًا مُطَهَّرَةً {2}فِيهَا كُتُبٌ قَيِّمَةٌ {3}وَمَا تَفَرَّقَ الَّذِينَ أُوتُوا الْكِتَابَ
إِلَّا مِنْ بَعْدِ مَا جَاءَتْهُمُ الْبَيِّنَةُ {4}وَمَا أُمِرُوا إِلَّا لِيَعْبُدُوا اللَّهَ
مُخْلِصِينَ لَهُ الدِّينَ حُنَفَاءَ وَيُقِيمُوا الصَّلَاةَ وَيُؤْتُوا
الزَّكَاةَ ۚ وَذَٰلِكَ دِينُ الْقَيِّمَةِ {5}إِنَّ الَّذِينَ كَفَرُوا مِنْ أَهْلِ الْكِتَابِ
وَالْمُشْرِكِينَ فِي نَارِ جَهَنَّمَ خَالِدِينَ فِيهَا ۚ أُولَٰئِكَ هُمْ
شَرُّ الْبَرِيَّةِ {6}إِنَّ الَّذِينَ آمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ
أُولَٰئِكَ هُمْ خَيْرُ الْبَرِيَّةِ {7}جَزَاؤُهُمْ عِنْدَ رَبِّهِمْ جَنَّاتُ عَدْنٍ
تَجْرِي مِنْ تَحْتِهَا الْأَنْهَارُ خَالِدِينَ فِيهَا أَبَدًا ۖ رَضِيَ
اللَّهُ عَنْهُمْ وَرَضُوا عَنْهُ ۚ ذَٰلِكَ لِمَنْ خَشِيَ رَبَّهُ {8}
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慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
信仰を拒否しているような、啓典の民の中も、多神教徒の中も、何か明証(や証拠)が来るまでには、自分の無信仰の立場から離れようとしなかった。(その明証や証拠としては、)アッラーから定められた、だれか御使い{預言者ムハッマド(PBUH)}として、純聖な書巻を、読んで聞かせるまでは。その中には,真理を語られた正しい教えが書かれているように。(けれども、啓典で真理(や信仰)のことを分かっても)以前啓典を授かっている者たちが、分裂と分派したのは,明証や証拠がかれらに来てから後のことであった。かれらの命じられたことは,只アッラーに仕え,かれに信心の誠を尽し,純正に服従,帰依して,礼拝の務めを守り,定めの喜捨をしなさいと,言うだけのことであった。これこそ宗教の真正な教えである。啓典の民の中にも、多神教徒のなかにも,{預言者ムハッマド(PBUH)のことを}拒否した人たちは地獄の火に投げ込まれて、その中に永遠に住む。かれらは、全て生き物の中には、最悪の者である。だが信仰して善行に勤しむ者たちが、全て生き物の中には、最善の者である。かれらへの主からの報酬が,下を川が流れる常住の薗である。かれらは、永遠にその中に住むであろう。アッラーはかれらに満悦し、かれらもかれに満悦している。それは主を畏れる者(への報奨)である。
(解説1):経典の民、キリスト教とユダイヤ教等、と共に多神教等も両方が何か証明や証拠がない限り自分たちは信仰するかしないかの判断が出来ないと言っていた。モハッマド(PUBH)の預言者として現れること自体がかれらのこう言う言い訳の答えになるのです。
ここではモハッマド(PBUH)の預言者として現れる現実事態が一つの明るい証拠だと言っているのです。彼がアッラーの方から定められた預言者であるかないかの判断するために、彼の生き方と彼の生涯の間に実現した実績の中にそれの記がいっぱいあるのです。40歳で彼は預言者とし定められる前とそれの後の彼の生活の生き方を見ると非常に率直な正直な人間に見えるのです。彼は字も書くのも読むのも出来ないのに聖クルアーンみたいな立派な教えを生み出したのは彼個人の力や知恵ではなかった。彼の教育と訓練によって彼の信者と仲間が理想的な立派な道徳の持ち主に入れ替わった。彼は相手が納得出来るような信仰の話や自分自身を清めるようないろいろな礼拝とお祈りの仕方、またどんなイデオロギーも、どんな経済や政治や社会精度よりも優るようなイスラーム制度を与えた。彼の話と行動の間何の矛盾もなかった。メッカ市で彼と彼の仲間がいくら苛められても、いくら迫害されても、またメッカ市の多神教等から金や地位や女のようなどんな誘惑が提供されてもそれに負けないで、自分のダーワーを広げる活動を止めなかった。またメヂナー市でのイスラーム国家があらゆる無信者の敵から何回も軍事攻撃されていても、それをうまく防衛して、その国家をイスラーム法に基づいて成立して、そこで平等や正義や言論の自由を実現し、また貧困もなくそうような内容な理想的な国と社会を作った。こういうふうにモハッマドの63年の生涯を見ると彼の実績が誰でも一般の人間が出来るようなものがないということがはっきり分かるのです。彼の一生の生き方と実績が彼は全能の唯一のアッラーの方から定められて預言者であったということの証拠になるのです。
(解説2):経典の民が信仰の証拠がないから、真実を分からないので分裂した訳ではなかった。彼らは信仰の証拠全部見て、それの内容も良く分かってもそれをわざと拒否した。分からないで信仰しないことと何でも全部分かっていても拒否することがだいぶ違います。かれらは預言者モハッマドの生涯の生き方と実績で彼が本当に預言者であるということが良く分かっていても拒否していたのです。
99. 地震(アッ・ザルザラ)章
章の内容
イスラーム教の考え方によると第一回目の大地震でこの世の中全部滅びて、人間を含めて生き物皆死んでしまうのです。また第二回目の大地震で人間皆蘇えるのです。この章でこの二回目の大地震の時大地が自分の中のすべての重荷を投げ出してしまうのです。その時人間のすべての行いも大地が出しておいて、それの証人でもなるのです。人間はこの大地の上にやったすべての所業のことを大地がそれの証人として提供するのです。その時人間の一つの微塵ほど小さい行いに対して報いや処罰を貰うのです。
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
大地がぐるぐる激しく揺らされるとき、大地がその重荷を投げ出し、人間がこれに[大地に]何があったのか、というとき、その日(大地は)全ての消息を語ろう。それは、あなたの主が[大地に]そういう命令を下さったからであろう。その日,人びとは分別された集団となって進み出て、かれらの行いが彼らに見せつけられる。一つの微塵だけの重さの善行でもなした者はそれを見る。一つの微塵だけの重さの悪行でもなした者はそれを見る。
(解説1):審判の日には、どんなに小さな良いや悪い行いがあっても、それが全部清算されるのです。ただし善行の場合は何倍にも見られ、悪行の場合はその分だけが一つとして計算に入れらるのです。またアッラーが慈悲深くで、人間に対して凄く親切であるから悪行のいくらか、何か代わりの善行の良い成績のお蔭で或いは、人間が反省して二度と同じ悪行をしないというような決心した場合は、おもに大分が許されることもかなりあるのです。こういうふうな清算の仕方によって人間の悪行の重さが段々減っていて、善行の重さがだんだんに重くなっていくのです。が何らかの形で微塵ほど小さな行いも必ず清算の対象になるのです。
信仰の無い者が来世の考えをもってないので、そういう方が来世を目標として何もやってないから、どんなに現世で善行をなさって来ても、そういう方のためには来世で何の報いもないのです。その方自分もそういう可能性が元々信じてなかったのです。だから彼自身も来世で何か報いを貰うような何の期待ももってなかったので、彼に対してそのとうりの結果が出るのも当たり前のことになるのです。
が神は人間に対して正義を行うので、そういうふうな信仰の無い方の善行の報いが、この現世であらゆる幸せと彼の希望道理の物質的な報いがお金や財産や地位や子供や健康などの形で与えられるのです。
100. 進撃する馬 (アル・アーディヤート) 章
وَالْعَادِيَاتِ
ضَبْحًا {1} فَالْمُورِيَاتِ قَدْحًا {2} فَالْمُغِيرَاتِ صُبْحًا {3}
فَأَثَرْنَ
بِهِ نَقْعًا {4} فَوَسَطْنَ بِهِ جَمْعًا {5} إِنَّ الْإِنْسَانَ لِرَبِّهِ
لَكَنُودٌ {6}
وَإِنَّهُ
عَلَىٰ ذَٰلِكَ لَشَهِيدٌ {7} وَإِنَّهُ لِحُبِّ الْخَيْرِ لَشَدِيدٌ {8}
أَفَلَا يَعْلَمُ إِذَا بُعْثِرَ مَا فِي الْقُبُورِ {9} وَحُصِّلَ مَا فِي
الصُّدُورِ {10} إِنَّ رَبَّهُمْ بِهِمْ يَوْمَئِذٍ لَخَبِيرٌ {11}
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慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
吐く息荒く進撃する(馬)において(誓う)。蹄に火花を散らし、暁に急襲して、砂塵を巻き上げ、(敵の)軍勢の真っただ中に突入する(馬において誓う)。まことに人間は,自分の主に対し恩知らずである。そして、まことに、そのことにはかれ自身が、証言者でもあります。また、まことに、(彼は)富を愛することに熱中である。かれは墓の中のものが発き出される時のこと、また胸の中にあるものが、暴露され、それを評価されることを知らないのか? まことに彼らの主は,その日,かれらについて全てのことがご存じでおられる。
章の内容
この章で馬の話しを出して、その時のアラブで平和のない、不安な状態を表しているのです。いきなり、朝早くから馬に乗った敵の軍勢で進撃される恐れが、どこの町にもあったのです。こういう不安な状態の原因は、人間が冨を愛して、それに熱中になって、神に対して恩知らずになっている、という事を指摘されているのです。来世の処罰のことを信じてないから、こういうことが起こって、不安な状態が止められないのです。
第101章: 大打撃 (アルーカーレアー)
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
「ある大打撃!その大打撃と言うのは何か?その大打撃は何であるのか、それのことがあなたは何を分かるのですか?その日は、人間が(ろうそくの周りに散らすような)昆虫みたいに散らされるし、山々があらゆる色彩に富んだ羊毛に覆われるようになろう。また、(善行で)重りの重い者が、幸福で満ち足りて暮らすであろう。だが(善行で)重りの軽い者の場合
الْقَارِعَةُ
{1} مَا الْقَارِعَةُ {2} وَمَا
أَدْرَاكَ مَا الْقَارِعَةُ {3}يَوْمَ يَكُونُ النَّاسُ كَالْفَرَاشِ
الْمَبْثُوثِ {4} وَتَكُونُ الْجِبَالُ كَالْعِهْنِ الْمَنْفُوشِ {5} فَأَمَّا
مَنْ ثَقُلَتْ مَوَازِينُهُ {6} فَهُوَ فِي عِيشَةٍ رَاضِيَةٍ {7} وَأَمَّا
مَنْ خَفَّتْ مَوَازِينُهُ {8} فَأُمُّهُ هَاوِيَةٌ {9} وَمَا
أَدْرَاكَ مَا هِيَهْ {10} نَارٌ حَامِيَةٌ {11}
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は、地獄のどん底が彼の里になるのであろう。その地獄のどん底
がどういうものなのか、貴方はご存じですか?それは焦熱(地獄)の火(であろう))。
(解説1):前章の解説で信仰のない者の現世と来世の清算の話があった。この章ではこれに対してもう一つの場面を明らかにされているのです。それは信仰があるかないかによってその清算の重さが大分変るということです。信仰がない場合は悪の重さがあまりにも重くて、無信者がどんなにたくさんの善行が現世でなさっていても、それの報いは現世で一杯貰うのですが、来世ではその善行の重さがゼロみたいになるのです。信仰がないという悪が非常に重いと計算されるので、それを軽くするために善行がいくらあっても、そういうふうの善行が無信仰の悪を少しも軽くすることが出来ないのです。
また逆に信仰のある方の場合は、その善の重さがあまりにも重いので、いくら悪の重さがあっても善の重さに優らないのです。
来世では、現世でなさって来た人間の善や悪の行いの報いや罰も大事ですけれども、一番徹底的な善や悪が何かというと、それは信仰があるかないかの善や悪のことであるのです。
102. 蓄積 (アッ・タカースル)
章の説明
貪欲な蓄積のために,人間の真の目的から迷い去る者に対する警告である。こんな者は災難によって覚醒させ,救うほかない場合が多い。この点前章と密接な関係がある。・・・・・・・・・・本章はマッカ最初期の啓示に属する。 (ウマル三田了一解説)
森の中の動物は朝から晩まで獲物を探しているのです。彼らの毎日の生活はそれだけでずっと忙しいです。無信仰の人間の毎日の活動も動物みたいに毎日貪欲な蓄積で忙しいです。死ぬまでそういう事で忙しいのは、人間の生涯の空しさをあらわせるのです。目が覚めて自分の生涯のことを振り替えてみると自分が何のために生まれて来たのかのことを疑問として残るのです。現世でそんな悲しい人生のあとには、また来世でそういうふうな人間が地獄に行くと言うことをこの章で教えているのです。だからこの章の教訓がそういうふうな結末に当たらないように暮らすべきです。それは信仰をして善行で自分自身を忙しくしたほうがいいという教訓になるのです。
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
あなたがたは(財産や地位や息子などのようないろいろな現世の欲深いものの)貪欲な蓄積の競い合いのことに夢中になって、いずれに墓に追い立てられるまでも(その競いあいで夢中になっているのであろう)。断じて、(いや)もうすぐあなたがたは(そういう生き方の始末のことを)知るのであろう。もう一度言おうか,断じて、(いや)あまり長い時間がたたないうちに、もうすぐ、あなたがたは
أَلْهَاكُمُ التَّكَاثُرُ {1}حَتَّىٰ
زُرْتُمُ الْمَقَابِرَ {2}كَلَّا سَوْفَ تَعْلَمُونَ {3}ثُمَّ كَلَّا
سَوْفَ تَعْلَمُونَ {4}كَلَّا لَوْ تَعْلَمُونَ عِلْمَ الْيَقِينِ {5}لَتَرَوُنَّ
الْجَحِيمَ {6}ثُمَّ
لَتَرَوُنَّهَا عَيْنَ الْيَقِينِ {7}ثُمَّ لَتُسْأَلُنَّ يَوْمَئِذٍ عَنِ النَّعِيمِ {8}
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(そういう生きかたの始末を)分かるのであろう。断じて、あなたがたは確信の智識ではっきりと(そういう生き方の始末を)理解するのであれば(そういう生き方を過ごさなかったはずであろう)。あなたがたは、火獄を必ず見るのであろう。もう一度言おうか,あなたがたはそれを絶対に明確に(自分自身の)目で見るのであろう。その日にあなたがたは、 (神からこの世で与えられた)全ての恵みの扱いに対して必ず問われるのであろう。
(解説1):信者であろうが無信者であろが皆が神から与えられた恵みに対して問われるのです。人間が自分の努力や力の結果として恵まれる場合もあります。そういう場合は人間が神のお蔭でそういう恵みを受けたと思うのかあるいは、威張っていて全部自分自身の力と努力のお蔭と思って無感謝になるのか。例えば人を騙して、泥棒してお金を取ったのか。また金の使い方どうしているのか。無駄使いしているのか。人助けのために使っているのか。神から授けられたすべての恵みをどういうふうに使ってはいるのか。そういうふうに人間が受けたすべての恩恵に対してとわれるのです。
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第103章: 時代(アル・アスル)
慈悲深い、何回も何回も無限に慈悲を下さるアッラーの御名において(始めます)。
時代にかけて(誓う)。まことに、人間は,損失と喪失の中にいる。ただし、信仰して善行をなし、互いに正義の道のことを熱心に説き進め合う,また忍耐のことも熱心に説き進める者たちは別である。
章の説明
وَالْعَصْرِ {1}
إِنَّ الْإِنْسَانَ لَفِي
خُسْرٍ {2}
إِلَّا الَّذِينَ آمَنُوا
وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ
وَتَوَاصَوْا بِالْحَقِّ وَتَوَاصَوْا
بِالصَّبْرِ {3}
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このマッカ初期の啓示は,真理を受け入れた者だけが成功するという,時間にかけた証言である。前章では人生の真の目的から迷い去って,財の蓄積に終始する者に対する警告であったが、ここでは時間を通じ歴史が証明するように、信仰して純潔な生活を営み,努力し忍耐することを知る者には、時間はつねに恵みをもたらすとの教えである。 (ウマル三田了一解説)
内容とテーマ
この短い章の中で大きな本でも詳しく説明できないほど大事な内容が含まれているのです。ここで人間の幸福と不幸の道をはっきりとして伝わられているのです。この章の内容を深く理解した場合は、人間の導きと幸せのためにこれだけで充分です、とイマム・シャファイが皆の納得が得られるように表現をしているのです。預言者モハッマド(彼にアッラーの慈悲と平安があれ)の仲間たちがお互いに会った時には、この章をお互いに読んで聞いて貰わないまで別れなかったのです。(チブラニ)。
解説1:この章では、時代にかけて誓っているのは何かと言うと、それは人間が喪失していることを歴史の流れであらゆる全ての時代で証明されているということです。
この章の内容を理解するために、イスラームの有名な学者イマム・ラージがある先輩の先生の話しを参考にだしているのです。その先輩の先生がある氷の販売をしている商人からある珍しい販売の進め方を聞いてこの章の大事さを |