日本イスラーム研究所 Japan Islamic Research Institute


DOWNLOAD BELOW COMPLETE PARA 30 JAPANESE TRANNSLATION WITH DETAILED EXPLANATIONS OF ALL SURAHS IN PDF FORMAT. EXPANATIONS OF HOLY QURAN IN JAPANESE WITH TRUSTWORTHY TRANSLATION IS FIRST TIME IN THE HISTORY OF JAPAN. NO ONE ATTEMPTED IT EARLIER. ALL EXPLANATIONS AND TRANSLATION OF HOLY QURAN IS BASED ON 6 VOUMES OF MAULANA MAUDUDI'S RENWONED TAFHEEMUL QURAN. IT CAN BE DOWLOADED BOTH IN MICROSOFT WORD FORMT AND IN PDF FROM THE LINK GIVEN BELOW. OR I CAN EMAiL IF YOU CONTACT ME ON hussaintoky5@gmail.com or hussaintokyo5@hotmail.com

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Hussain Khan, Tokyo

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人類の幸せのために天から下さった神の導きの一番正確な分かり安い

邦訳と解説

日本の歴史で初めて

聖クルアーンの分かりやすい邦訳と解説

 

翻訳者と解説者

元在日パキスタン人協会会長 フセイーン ハーン

(東大修士)

Translation with Explanations

By

HUSSAIN KHAN, M. A. (Tokyo)

 

 

聖クルアーンの最後の第30ジュズと言う部分の

邦訳と解説

 

 

はじめに

聖クルアーンが30部に分かれています。それの1/30は一つのジュズやパーラと言われています。これはその最後のパーラ第30部の全ての37章の邦訳と解説です。これの最後のいくつかの章がイスラーム教等の皆さんが暗記して毎日の5回の礼拝に読誦しているのです。だからこの邦訳と同時にそれの説明も解説の形で出しているのです。それで毎日礼拝の時そういう章がよく理解した上に読誦することが出来るのです。またこのいろいろな解説でイスラ-ム教の全ての基本的な概念が良く分かるようになっています。

 

 

 

 

邦訳の中身について

 サウヂアラビア(さうぢあらびあ)から世界一(せかいいち)のイスラ(いすら)ー(む)学者(がくしゃ)としてファエサル(ふぁえさる)(しょう)を(う)け(と)ったパキスタン(ぱきすたん)の権威のある有名(ゆうめい)な(こ)サイッヤド・アブルアーラ(あぶるあーら)・マウドヂ(まうどぢ)先生(せんせい)が6(6)(さつ)でだしている解説(かいせつ)に基づいて(もとづいて)この邦訳(ほうやく)しているのです。(やく)30や40年(40ねんまえ)に(わたし)は、パキスタン(ぱきすたん)のラーホル(らーほる)(し)で日本(にほん)からその先生(せんせい)に挨拶(あいさつ)に行った(いった)(とき)に、(かれ)の世界(せかい)のいろいろな言葉(ことば)で翻訳(ほんやく)されていて、トルコ(とるこ)でもパキスタン(ぱきすたん)よりよく売られて(うられて)いる6冊(6さつ)のタフヒームル(たふひーむる)・クルアーン(くるあーん)の邦訳(ほうやく)をその先生(せんせい)から頼まれた(たのまれた)、いや、任命(にんめい)された。その邦訳(ほうやく)は(わたし)が、(いま)も(し)に近い(ちかい)(とし)になってからやり始め(やりはじめ)ているのです。

 (こ)マウヅヂ先生が解説(かいせつ)なしで一冊(いっさつ)だけにまとめた翻訳(ほんやく)に基づいた(もとづいた)邦訳(ほうやく)がしているのです。解説(かいせつ)の代わり(かわり)にブラケット(ぶらけっと)の(ちゅう)短く(みじかく)説明(せつめい)のつもりでいろいろな言葉(ことば)入れて(いれて)各節(かくせつ)良く(よく)分かる(わかる)ようにしているのです。ブラケット(ぶらけっと)にある言葉(ことば)(せい)クルアーン(くるあーん)本文(ほんぶん)のことばではありません。

 邦訳(ほうやく)とその内容(ないよう)の詳しい(くわしい)解説(かいせつ)を(せい)クルアーン(くるあーん)に基づいて(もとづいて)イスラーム(いすらーむ)(きょう)の基本的(きほんてき)な教え(おしえ)と考え方(かんがえかた)の詳しい(くわしい)説明(せつめい)をしているのです。

故マウヅヂ(ゆえまうづぢ)先生(せんせい)は、(せい)クラアーン(くらあーん)のあらゆる言語(げんご)であるような各節(かくせつ)の別々(べつべつ)の翻訳(ほんやく)をしていないのです。一つ(ひとつ)の(しょう)のすべての(せつ)をいくつかのパラグラフ(ぱらぐらふ)に分けて(わけて)、かくパラグラフ(ぱらぐらふ)に一つ(ひとつ)の考え(かんがえ)やアイデアー(あいであー)として翻訳(ほんやく)しているのです。この邦訳(ほうやく)もそのパターン(ぱたーん)でやって、(せい)クルアーン(くるあーん)の内容(ないよう)をもっとわかりやすくしているのです。

(せい)クルアーン(くるあーん)影響力(えいきょうりょく)対して

 “(せい)クラアーン(くらあーん)サイドライン(さいどらいん)ではいくつかの箇所(かしょ)サジダ(さじだ)という(ことば)を書かれています。(せい)クラア(くらあ)(ん)読誦(どくしょう)しているときにそういう箇所(かしょ)まできた場合(ばあい)は5回の(れいはい)(とき)頭を下げて(さげて)ひたいを大地(だいち)までもっていく動作(どうさ)のことがサジダ(さじだ)といって、同じく(おなじく)サジダ(さじだ)動作(どうさ)がするべきことが定められて(さだめられて)います。その偉大(いだい)御方(おかた)から授けられた(さずけられた)(もと)言葉(ことば)理解(りかい)した(うえ)にそのまま読誦(どくしょう)しているときそういう箇所(かしょ)まできたときには、なんとなく人間(にんげん)(こころ)気持ち(きもち)(かみ)(まえ)(あたま)下げて(さげて)(しゅ)のことを褒め称える(ほめたたえる)ようになります。

 信者(しんじゃ)ではないメッカ(めっか)方々(かたがた)信者(しんじゃ)強力(きょうりょく)迫害(はくがい)していた時期(じき)に、一度(いちど)(せい)クルアーン(くるあーん)をめずらしく、たまたま、聞いて(きいて)いるときに無意識(むいしき)サジダ(さじだ)をしてしまった。その(とき)預言者(よげんしゃ)モハッマド(もはっまど)pbuh)は(かれ)初めて(はじめて)啓示(けいじ)されていた第53章(だい53しょう)(ほし)アン(あん).ナジャム(なじゃむ))を読誦(どくしょう)していたのです。無信者(むしんじゃ)サジダ(さじだ)(うわさ)聞いて(きいて)無信者(むしんじゃ)改宗(かいしゅう)してイスラーム(いすらーむ)(きょう)入った(はいった)だろうと思って(おもって)迫害(はくがい)されて遠い(とおい)アフリカ(あふりか)(くに)逃げて(にげて)いた信者(しんじゃ)一つ(ひとつ)団体(だんたい)メッカ(めっか)戻って(もどって)きました。が無信者(むしんじゃ)自分(じぶん)たちのいきなりやったサジダ(さじだ)行為(こうい)(き)がついて、自分自身(じぶんじしん)もびっくりしてそのサジダ(さじだ)のことが無信者(むしんじゃ)として信者(しんじゃ)同じ(おなじ)行為(こうい)するのは自分(じぶん)たちの間違い(まちがい)だったといって自分(じぶん)たちの改宗(かいしゅう)のことを否定(ひてい)した。けれども無信者(むしんじゃ)(せい)クルアーン(くるあーん)偉大(いだい)御方(おかた)(もと)言葉(ことば)理解(りかい)したときは、どれほど彼ら(かれら)(こころ)動いて(うごいて)しまうのか、ということは、この出来事(できごと)で良く分かります(わかります)。だから信者(しんじゃ)たちも(せい)クルアーン(くるあーん)読誦(どくしょう)をしながらそういう箇所(かしょ)まできたら自然(しぜん)と、なんとなく、(かみ)(まえ)(あたま)下げて(さげて)サジダ(さじだ)する気持ち(きもち)になりますし、またそうするように定められて(さだめられて)いることもあるのです。

 またそういう出来事(できごと)(せい)クルアーン(くるあーん)言葉(ことば)理解(りかい)した(うえ)読誦(どくしょう)した方がどれほど人間(にんげん)(こころ)を動かすか、それでどれほど人間(にんげん)(こころ)安らぎ(やすらぎ)感じる(かんじる)のかを図りきれない(はかりきれない)のです。

 東京(とうきょう)サウヂアラビア(さうぢあらびあ)の無料でアラビア語(あらびあご)教える(おしえる)六本木(ろっぽんぎ)方面(ほうめん)にある学院(がくいん)一人女(ひとりおんな)学生(がくせい)さんがお医者(おいしゃ)さんたちから一か月(いっかげつ)以内(いない)(がん)死ぬ(しぬ)だろうと判断(はんだん)された。お医者(おいしゃ)さんたちにもどうにも出来ない(できない)言われて(いわれて)彼女(かのじょ)仕方(しかた)がなく、信者(しんじゃ)でもないのに、アラビア語(あらびあご)分からない(わからない)のに、その学院(がくいん)から聖クラアーン(くらあーん)録音(ろくおん)されたCD(CD)借りて(かりて)(あさ)から(ばん)まで毎日(まいにち)その(せい)クルアーン(くるあーん)内容(ないよう)を、分からなくて(わからなくて)も、聞いて(きいて)いた。彼女(かのじょ)一か月(いっかげつ)たってからまた同じ(おなじ)お医者(おいしゃ)さんたちに見て(みて)貰ったら(もらったら)、その判断(はんだん)(がん)証拠(しょうこ)全部(ぜんぶ)消えて(きえて)いる、という結論(けつろん)だった。この出来事(できごと)理解(りかい)しなくても人類(じんるい)(しゅ)アッラー(あっらー)(せい)クルアーン(くるあーん)(かたち)である(もと)言葉(ことば)強力(きょうりょく)影響力(えいきょうりょく)があらわれているのです。

 内容が分かった上に(せい)クラアーン(くらあーん)読誦(どくしょう)した場合(ばあい)は、そういう人類(じんるい)(しゅ)から授けられた(さずけられた)(もと)言葉(ことば)影響力(えいきょうりょく)何倍(なんばい)にもなって、現世(げんせい)でも来世でも、人間(にんげん)幸せ(しあわせ)繋がる(つながる)思いません(おもいません)か?

 そういう(せい)クルアーン(くるあーん)理解(りかい)進める(すすめる)気持ち(きもち)でこの邦訳(ほうやく)とそれの説明(せつめい)提供(ていきょう)しているのです。(フセイーン(ふせいーん) ハーン(はーん)、東大修士)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Translation and detailed explanations

of para (juz) 30 of holy quran

聖クルアーンの最後の第30ジュズと言う部分の

邦訳と解説

78. Surah An Naba (The News)

78(78). 消息(しょうそく) (アン(あん)ナバア(なばあ)) 

(解説:Explanations

名前:第2節にある言葉「アン・ンバア」をこの章の名前にしている。その言葉の意味は消息や知らせである。この章の内容とテーマも審判の日と来世の知らせである。

啓示された時期:これもこの前と後の章と同じくメッカ初期で啓示されたものです。

内容とテーマ: これの内容も前の章と同じく、審判の日と来世の存在の確信と、そこで全人類の結末に対しての警告のことである。

現代の人々と同じくメッカの市民にも一番信じがたい信条は復活されて来世の永久の住まいのことだった。だからこの章みたいなメッカ初期で啓示された全ての章で何回も来世の存在に対して断言している。

 そういうことを固く信じない場合は人間が道徳の立派な水準まで登ることができない。人間社会から犯罪も減らないし、平等と平和な、正義に基づいた暮らしも出来ない。来世で罰せられて、永久に地獄で焼かれることが信じるようになれば、現世で立派な社会も、政治も、経済も可能になります。

 イスラームは自分の私生活のためだけではなくて、社会全体の向上を目指している宗教です。教会へ行って神の名を唱えたり、礼拝をしたりだけでは信者として義務を終わらない。社会、政治、経済、国家法律、人間関係、家族の面倒見のようなあらゆるすべての場面の改善によって平和な、正義に基づいた社会と国家を創るのがイスラーム教のねらいです。

 けれでも、そういう理想的な話が来世と審判の日を信じいないと先に進むようちがない。

 だからこの章でいろいろな角度から審判の日と来世を信じるようなことを立証している。メッカ市で来世のことを不可能と思って、それを信じないで、どこの町でも笑われていた。現代社会や無心者の国でも同じ来世を拒否する考えが多い。その笑い話や疑問に対して、アッラーは第1節から第16節まで、下記のとおり答えています。人々が信じても、信じなくても、真実は変わらないで、この世がいずれか滅びろして、審判の日と来世が起こるのは間違いない、ということです。

 ある学者の見方では、死んでからのことが誰もわからないからこそ、来世があるだろうの過程で動いた方が得です。万が一もし来世がなかったら何も損することがない。そういう過程で生活しない人は、もし審判の日と来世があった場合は、永久に地獄に焼かれる運命になる。そのときになってから、取り返しがつかない、ということです。

 これに対して聖クルアーンの見方が、次のとおりであす:

 「 [([)1(1)-(-)5(5)]:(]:) どういう(こと)に対して(たいして),かれらはお互い(おたがい)尋ね合って(たずねあって)いるのか。彼ら(かれら)はその重大(じゅうだい)知らせ(しらせ)審判(しんぱん)(ひ)(こと))に対して(たいして)お互い(おたがい)感想(かんそう)意見(いけん)相違(そうい)討論(とうろん)しているのか?いや,かれらはやがて知ろう(しろう).いや,いや,断じて(だんじて)かれらはやがて知る(しる)であろう。

[6(6)-(-)10(10)]:(]:)人間(にんげん)の暮らし(くらし)のために)われは大地(だいち)を,平ら(たいら)フロア(ふろあ)のようにしなかったか。また山々(やまやま)を,(その大地(だいち)に)くぎみたいに打った(うった)ではないか。われはあなたがたを両性(りょうせい)創り(つくり),また休息(きゅうそく)のため,あなたがたの睡眠(すいみん)を定め、また(よる)を(そのため)暗く(くらく)した。

[([)11(11)-(-)16(16)]:(]:)(ひる)を生計(せいけい)手段(しゅだん)として定めた(さだめた)。またわれは、あなたがたの(うえ)強健(きょうけん)な7(7)(そう)(の(てん))を打ち建て(うちたて)輝やかしい(かがやかしい)燃える(もえる)ランプ(らんぷ)のような(もの)太陽(たいよう))を創った(つくった)。われは(くも)から絶え間(たえま)なく、豊か(ゆたか)(あめ)降らせ(ふらせ),それによって,殻物(こくむつ)野菜(やさい)や,様々(さまざま)(き)茂った(しげった)園を出来るようにしたではないか?」

 人間の豊かな暮らしと幸せな生活のためにアッラーは上記のあらゆる恵みを与えておいて、その人間にこの恵みをどういうふうに使ったかの清算して貰うのがおかしなのか?来世がなかったら善い人が報いも貰えないし、悪い人たちが罰せられることもなくなる。これが神の正義に違反することではないか?

 どこの会社の社長も給料を挙げて自分の社員の生活を支えているのに、その社員が社長から与えられた仕事をどれほどこなしたかのことを聞くのが当たり前のことです。アッラーは人間に現世で幸せな生活ができるように何でも揃えた。だから来世でそれの報酬を決める為に人間の現世での所業を清算するのも当たり前のことではないですか?

 このことが第17から第20節まで聖クルアーンでこういうふうに書いてある:

 「[17-20]: (まこと)に裁き(さばき)の(ひ)定められて(さだめられて)いて,その(ひ)ラッパ(らっぱ)吹かれる(ふかれる)とあなたがたは(むれ)をなしてよみがえって 出て(でて)来る(くる)(てん)開かれて(ひらかれて)数々(かずかず)(もん)(あらゆる災難(さいなん)天から(てんから)降りて(おりて)来る(くる)(ため)にすべての(もん)空いて(あいて)いるような感じ(かんじ))となり,山々(やまやま)移されて(うつされて)錯覚(さっかく)砂漠(さばく)(すな))になる。」

 また第21から第30節まで来世で人間の所業に基づいて報いと罰のことをこういうふうに知らせている:

 「[21-30]: (まこと)に地獄(じごく)は,待ち伏せ(まちぶせ)(ば)であり,((かみ)対して(たいして)犯行てき(はんこうてき)(もの)最終(さいしゅう)住居(じゅうきょ)で,かれらは何時(いつ)までもその(なか)住む(すむ)であろう。そこで涼しさ(すずしさ)味わえず(あじわえず),(どんな)飲める(のめる)(あじ)飲物(のみもの)もない,煮えたぎる(にえたぎる)(ゆ)(うみ)(ほか)には。(これはかれらのため)ふさわしい報奨(ほうしょう)である。(まこと)にかれらは,(自分(じぶん)行い(おこない)対する(たいする)清算(せいさん)されるだろうと思って(おもって)もなかった。またかれらは、われから啓示(けいじ)されたものは(うそ)であると言った(いった)、またそれを強く(つよく)拒否(きょひ)した。われは一切(いっさい)のこと,(人間(にんげん)行い(おこない)すべて)一件(いっけん)一件(いっけん)のことが全部あわせて、またそれを数えて(かぞえて)(てん)(しょ)記録(きろく)しているのである。だからあなたがたは(自分(じぶん)行い(おこない)結果(けっか)を)味わえ(あじわえ)。われは懲罰(ちょうばつ)いがいに増加(ぞうか)するのはなんでもないのである。」

 そのあとも同じテーマの続きは第31から終わりの第40まである。

78. Surah An Naba (The News)

78(78). 消息(しょうそく) (アン(あん)ナバア(なばあ)) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。”

[([)1(1)-(-)5(5)]:(]:) どういう(こと)に対して(たいして),かれらはお互い(おたがい)尋ね合って(たずねあって)いるのか。彼ら(かれら)はその重大(じゅうだい)知らせ(しらせ)審判(しんぱん)(ひ)(こと))に対して(たいして)お互い(おたがい)感想(かんそう)意見(いけん)相違(そうい)討論(とうろん)しているのか?いや,かれらはやがて知ろう(しろう).いや,いや,断じて(だんじて)かれらはやがて知る(しる)であろう。

[6(6)-(-)10(10)]:(]:)人間(にんげん)の暮らし(くらし)のために)われは大地(だいち)を,平ら(たいら)フロア(ふろあ)のようにしなかったか。また山々(やまやま)を,(その大地(だいち)に)くぎみたいに打った(うった)ではないか。われはあなたがたを両性(りょうせい)創り(つくり),また休息(きゅうそく)のため,あなたがたの睡眠(すいみん)を定め、また(よる)を(そのため)暗く(くらく)した。

[([)11(11)-(-)16(16)]:(]:)(ひる)を生計(せいけい)手段(しゅだん)として定めた(さだめた)。またわれは、あなたがたの(うえ)強健(きょうけん)な7(7)(そう)(の(てん))を打ち建て(うちたて)輝やかしい(かがやかしい)燃える(もえる)ランプ(らんぷ)のような(もの)太陽(たいよう))を創った(つくった)。われは(くも)から絶え間(たえま)なく、豊か(ゆたか)(あめ)降らせ(ふらせ),それによって,殻物(こくむつ)野菜(やさい)や,様々(さまざま)(き)茂った(しげった)園を出来るようにしたではないか?

[17-20]: (まこと)に裁き(さばき)の(ひ)定められて(さだめられて)いて,その(ひ)ラッパ(らっぱ)吹かれる(ふかれる)とあなたがたは(むれ)をなしてよみがえって出て(でて)来る(くる)(てん)開かれて(ひらかれて)数々(かずかず)(もん)(あらゆる災難(さいなん)天から(てんから)降りて(おりて)来る(くる)(ため)にすべての(もん)空いて(あいて)いるような感じ(かんじ))となり,山々(やまやま)移されて(うつされて)錯覚(さっかく)砂漠(さばく)(すな))になる。

[21-30]: (まこと)に地獄(じごく)は,待ち伏せ(まちぶせ)(ば)であり,((かみ)対して(たいして)犯行てき(はんこうてき)(もの)最終(さいしゅう)住居(じゅうきょ)で,かれらは何時(いつ)までもその(なか)住む(すむ)であろう。そこで涼しさ(すずしさ)味わえず(あじわえず),(どんな)飲める(のめる)(あじ)飲物(のみもの)もない,煮えたぎる(にえたぎる)(ゆ)(うみ)(ほか)には。(これはかれらのため)ふさわしい報奨(ほうしょう)である。(まこと)にかれらは,(自分(じぶん)行い(おこない)対する(たいする)清算(せいさん)されるだろうと思って(おもって)もなかった。またかれらは、われから啓示(けいじ)されたものは(うそ)であると言った(いった)、またそれを強く(つよく)拒否(きょひ)した。われは一切(いっさい)のこと,(人間(にんげん)行い(おこない)すべて)一件(いっけん)一件(いっけん)のことが全部あわせて、またそれを数えて(かぞえて)(てん)(しょ)記録(きろく)しているのである。だからあなたがたは(自分(じぶん)行い(おこない)結果(けっか)を)味わえ(あじわえ)。われは懲罰(ちょうばつ)いがいに増加(ぞうか)するのはなんでもないのである。

[31-37]:(まこと)に(しゅ)畏れる(おそれる)(もの)には,成功者(せいこうしゃ)としての住居(じゅうきょ)の場所(楽園(らくえん))がある。(みどり)(えん)や,ブドウ(ぶどう)(えん)同じ(おなじ)年頃(としごろ)乙女(おとめ)たち,またなみなみと容量(ようりょう)までいっぱいに溢れて(あふれて)いる((さけ)美味(おい)飲み物(のみもの)の)コップ(こっぷ)。そこでは(いや)な話やつまらぬ(はなし)偽り(いつわり)(はなし)聞かない(きかない)。これらはあなたの(しゅ)からの報奨(ほうしょう)賜物(たまもの)決算(けっさん)である。(てん)(ち),そしてその(あいだ)凡て(すべて)のものの(しゅ)慈悲(じひ)深き(ふかき)御方(おかた)(からの賜物(たまもの)であり),(だれ)もかれに語りかける(かたりかける)ことは出来ない(できない)

[38-39]: 聖霊(せいれい)と天使(てんし)たちが,整列(せいれつ)して立つ(たつ)審判(しんぱん)の)(ひ)慈悲(じひ)深き(ふかき)御方(おかた)からの許可(きょか)がない限り(かぎり)(だれ)(なに)語る(かたる)ことが出来ない(できない)のです。(許可(きょか)出れば(でれば)正し(ただし)ことを語る(かたる)ことが可能(かのう)になるのです。こういう真実(しんじつ)(ひ)実現(じつげん)がまちがいないのです。だから(だれ)でも望む(のぞむ)(もの)は,(自分(じぶん)生命(せいめい)旅行(りょこう)目的地(もくてきち)が)(しゅ)(ほう)戻る(もどる)ことにしたほうがいいのです。

[40]:(まこと)にわれは,あなたがたにもう(すで)近く(ちかく)なってきている懲罰(ちょうばつ)対して(たいして)警告(けいこく)しているのです。その(ひ)(ひと)は,自分(じぶん)両方(りょうほう)(て)(まえ)もって送った(おくった)行い(おこない)所業(しょぎょう))のことが全部(ぜんぶ)自分(じぶん)(め)確かめる(たしかめる)のであろう。不信者(ふしんしゃ)は,「ああ,情けない(なさけない)(わたし)(ちり)であったならば(良かった(よかった)な)。」と言う(いう)であろう。

79. Surah Naziat (Those Who Tear Out)

79. 引き離す(ひきはなす)もの (アン・ナーズィアート) 

(解説)

名前:この章の一番初めの言葉がこれの名前にしている。

啓示された時期:これもこの前の章「78」と同じく、メッカ初期の時期でけいじされている。

内容とテーマ: この章のテーマには、審判の日と来世の存在のことを断言している。それと同時に神「アッラー」から定められた預言者のメッセージを拒否した場合は、どういう結末になるのか、それの警告している。

この章の第一から第五節までは、一番初めに人間の死のことを詳しく描いている。それは、神(アッラー)の命令を従って、天使たちが、人間の魂をどういうふうに体から離すのか、先に天使たちのこの役名のことを誓って、その話を描いている。「荒々しく(あらあらしく)(からだ)に)深く(ふかく)入って(はいって)強い(つよい)(ちから)引っ張って(ひっぱって)罪深い(つみぶかい)(もの)(たましい)を)引き離す(ひきはなす)(天使(てんし)たち)において(誓う(ちかう)),また優しく(やさしく)信仰(しんこう)深い(ふかい)(しゃ)(たましい)を)引き出す(ひきだす)もの(天使(てんし)たち)において、((かみ)使い(つかい)として)世の中(よのなか)に,泳でいる(天使(てんし)たち)において、(自分(じぶん)与えられた(あたえられた)義務(ぎむ)一所懸命(いっしょけんめい)果たす(はたす)(ため)に)(さき)争って(あらそって)前進(ぜんしん)するもの(天使(てんし)たち)において,また((しゅ)命令(めいれい)道理(どうり)にすべての)(こと)処理(しょり)するもの(天使(てんし)たち)において(誓う(ちかう))。」(第一から第五までの節)

 神の命令によって、体から今日無理矢理でに簡単にできる。今日神の命令を間もなく従っていると同じく、また同じ天使たちが明日も神(アッラー)の命令をすぐ実行して、死んだ人間を蘇ることも簡単にできる。

 また今日は、天使たちが神(アッラー)の命令によって、宇宙とその中の全てのことを管理しているのと同じく、明日は、その宇宙とその中の全てを壊して、新しい世界を存在させることもすぐできる。その来世で人間の所業を清算するのが、神と天使たちの動きでどうして不可能と思うのですか?

 そのあと第六から第十四節までには、来世で人間の復活のことが、あなたたちが思っているほど神にそんなに難しいことではない、ということを教えている。一つの刺激でこの世の中の全部を滅びて終わりになる。また次の刺激で来世が存在になって、人類の皆さんが復活されるのです。その日に罪深い人が怖がっていて、善行を残した人たちがすごく喜ぶのです。

(第六から第十四)「その(ひ)(第一のラッパ(らっぱ)で),震動(しんどう)猛烈(もうれつ)衝撃(しょうげき)与え(あたえ),またそれに続けて(つづけて)(つぎ)ラッパ(らっぱ)吹かれる(ふかれる)、その(ひ)には若干(じゃっかん)(こころ)大変(たいへん)怖くて(こわくて)震える(ふるえる)し、また(め)畏怖(いふ)(ねん)こす(おこす)であろう。

かれらは言う(いう)、「わたしたちは初め(はじめ)生前(せいぜん))の状態(じょうたい)に,本当(ほんとう)戻される(もどされる)のでしょうか。(なん)と,わたしたちは中身(なかみ)のない、腐った(くさった)(ほね)になっていても?」。「その場合(ばあい)復活(ふっかつ)のことが自分(じぶん)たちに対して(たいして)大変(たいへん)な),喪失感(そうしつかん)で悲嘆(ひたん)暮れる(くれる)ことになるでしょう。(またよみがえることは),只一声(ただひとこえ)叫び(さけび)である。見よ(みよ),かれらは(きゅう)目覚めて(めざめて)地上(ちじょう)に)現われる(あらわれる)でしょう。」(第六から第十四節)

それから第十五から第二十六までの節で、預言者モーゼと紀元前1358年ごろのエジプトのファラオの話がある。それで預言者のメッセージを聞かないからファラオが滅びさせた。

 歴史上でどの預言者のメッセージでも神を信じて善い人間社会を創れということです。それを聞かない国民や国家が歴史上で没落されてしまう。その例の一つはファラオの落下である。

 「ムーサー(むーさー)(預言者(よげんしゃ))の物語(ものがたり)が,あなたに届いた(とどいた)のか。(しゅ)トワー(とわー)神聖(しんせい)(たに)(かれ)大声(おおごえ)をあげた(とき)思い起せ(おもいおこせ)。あなたはフィルアウン(ふぃるあうん)(王)の(もと)行け(いけ)、きっとかれは反抗的(はんこうてき)になっている。そしてかれに言って(いって)やれ『あなたは((つみ)から)清められたい(きよめられたい)のか。わたしはあなたを,(しゅ)御許(みもと)導く(みちびく)。それであなたは((しゅ)のことを)畏れる(おそれる)ようになるだろう。』ムーサー(むーさー)偉大(いだい)(いん)をかれに示した(しめした)。だがかれ(フィルアウン(ふぃるあうん)王)はそれを拒否(きょひ)して、その(はなし)従わなかった(したがわなかった)(せ)向けて(むけて)いろいろな悪い(わるい)策略(さくりゃく)をたくらんで去った(さった)。かれ(フィルアウン(ふぃるあうん))は,(自分(じぶん)(くに)民族(みんぞく)を)集め(あつめ)宣言(せんげん)した、「わたしはあなたがたの(しゅ),(し)高者(こうしゃ)である。」それでアッラー(あっらー)(かれ)を,来世(らいせ)現世(げんせい)懲罰(ちょうばつ)加える(くわえる)ために捕まえた(つかまえた)(まこと)にこの(なか)には((しゅ)を)畏れる(おそれる)(もの)への一つ(ひとつ)教訓(きょうくん)がある。」(第十五から第二十六までの節)

 このことが起こったのはやく三千年前でした。けれども三千年たってから二十一世紀の今までのあいだでも毎年、今のイスラエル国家を含めて、昔からユダヤ教等これをEXODUSと言って、記念日として休みをとって、神に感謝の日として扱っている。それは、彼らがこの日に神のことと預言者モーゼのことを拒否していたファラオを滅ぼして、彼の支配下から脱出できたからです。

 THE CREATOR OF UNIMAGINABLY BIG UNIVERSE STRUCTURE IS ALLAH ALONE.

THIS WAS INFORMED TO HUMANITY BY THE GREAT CREATOR, ALLAH, IN THE HOLY QURAN 1500 YEARS AGO

宇宙の大規模構造の創造者はアッラーのみである

そのあと第二十七から第三十三節までには来世とそこで永久に生きるということの話を立証されている。一番初めに第二十七節にこういう質問をしている。

[27] Are13 you (O men,) harder to create, or is the heaven?(14) (79~27)

(しゅ)には、)あなたがたを創る(つくる)こと(復活(ふっかつ)させること)がうち建てられた(たてられた)(そら)宇宙(うちゅう)(の創造(そうぞう)())難しい(むずかしい)思う(おもう)のか(解説14)(マウヅヂ先生のタフヒムル・クルアーンから)

14Here, creation implies the recreation of men, and the heaven the entire firmament which contains countless stars and planets, and innumerable solar systems and galaxies. means to say: "You think that your resurrection after death is something extremely improbable and you express wonder saying: `How is it possible that when our very bones will have decayed and become rotten the scattered particles of our bodies will be reassembled and made living once again?' But have you ever also considered whether the great universe is harder to create or your own re-creation in the form in which you were created in the first instance? The God Who created you in the first instance cannot be powerless to create you once again." This same argument for life after death has been given at several places in the Qur'an. For example, in Surah Ya Sin it has been said: "Is not He Who created the heavens and the earth able to create the like of them (again)? Why not, when He is the skillful Creator." (v. 81) And in Surah Al-Mu'min it was said: "Surely the creation of the heavens and the earth is a greater task than the creation of man, but most people do not know. (v. 57)  {from Tafheemul Quran by Maulana Maududi}

解説14:人間は自分が死んでちりになってからまた同じ体で蘇るのが無理だと思っている。今の聖クルアーンの節と同じような意味の節も別のところにある。これらの節で、アッラーは無限の銀河系と太陽系と惑星を創っている。そういう力のある全能の神に人間を復活させる力もあるではないか、ということです。

(マウヅヂ先生のタフヒムル・クルアーンから)

 アッラーはどれほど大規模の宇宙を創ったのか、それが下記の百科事典ヴィキペデイアに乗せられている科学的な情報からある程度わかります。

そういう大規模の宇宙の創造を出来た全能の神(アッラー)は、人間の創造と彼の復活のことを出来ないのか?

宇宙の大規模構造

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現代宇宙論

宇宙 · ビッグバン宇宙の年齢宇宙の年表宇宙の終焉

[表示]初期の宇宙

インフレーション · 原子核合成GWB · 宇宙ニュートリノ背景宇宙マイクロ波背景放射

 

[表示]膨張する宇宙

赤方偏移 · ハッブルの法則空間の測定膨張フリードマン方程式FLRW計量

 

[表示]構造形成

宇宙の形構造形成再電離銀河の形成と進化大規模構造銀河フィラメント

 

[表示]成分

Λ-CDMモデルダークエネルギー · 暗黒物質

 

[表示]年表

宇宙論の年表膨張する宇宙の未来

 

[表示]観測

観測的宇宙論2dF · SDSSCOBE · BOOMERanG · WMAP · プランク

 

[表示]科学者

アイザック・ニュートン · アインシュタイン · ホーキング · フリードマン · ルメートル · ハッブル · ペンジアス · ウィルソン · ガモフ · ディッケ · ゼルドビッチ · マザー · ルービン · スムート · その他

宇宙の大規模構造(うちゅうのだいきぼこうぞう、large‐scale structure of the cosmos)は、宇宙の中で銀河の分布が示す巨大な泡のような構造である。宇宙の泡構造と呼ばれることもある。

 [非表示

形状

銀河は数百から数千集まって銀河群、銀河団を形成している。この銀河群や銀河団が更に集まって超銀河団を形成しているが、この超銀河団は平面状の壁のような分布を示している[1]。この巨大な壁をグレートウォールあるいは銀河フィラメントと呼ぶ。

1980年代になって、1枚の銀河フィラメントと他の銀河フィラメントとの間には光を発する天体がほとんど無い領域があることが明らかになった。これを超空洞(ボイド)と呼び、その直径は1億光年を超える。

宇宙の大規模構造は銀河フィラメントと超空洞が複雑に入り組んだ構造であるが、これはあたかも石鹸を泡立てたときにできる、幾重にも積み重なったのような構造である。つまり、泡の膜面たる銀河フィラメントには銀河が存在し、泡の中の空洞たる超空洞には銀河がほとんど存在しない。

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左から地球太陽系、太陽の隣人たち、銀河系局部銀河群おとめ座超銀河団、近隣の超銀河団、観測可能な宇宙

観測

グレートウォールの発見をもたらしたCfA赤方偏移サーベイ以降、観測技術の発展に伴ってより遠方の銀河をより大量に観測する大規模な銀河サーベイ観測が行なわれるようになっている。その代表例として、スローン・デジタル・スカイサーベイ(SDSS)や2dF銀河赤方偏移サーベイなどがある。

なお、銀河までの距離をその赤方偏移のみに基づいて測ると、大規模構造が実際とはいくらか異なって観測されることがある。

例えば、銀河団の後ろにある銀河はその銀河団に向かって引き寄せられるため、多少(その銀河団が存在しない場合に比べて)青方偏移して見える。一方、銀河団の手前にある銀河は多少赤方偏移して見える。このような効果を補正せずに赤方偏移を使うと、銀河団の周囲に存在する銀河は実際よりも押しつぶされた分布をしているように見える。また、既に銀河団内部に落ち込んだ銀河に対してはこれと逆の現象がおきる。

銀河団内の銀河は銀河団中心に対してランダムな速度分散を持つため、各銀河の赤方偏移は銀河団自身の値を中心に広がりを持った分布になる。この赤方偏移を銀河までの距離として使うと、銀河団は視線方向に長く引き伸ばされて見える。

これはまるで銀河分布が観測者(地球)の方向を指差しているようにも見えることからFinger of God効果として知られている。」

 

最近になってやっと解明された宇宙に関する10の謎

2015年0113 ι コメント(72) ι 知る ι 自然・廃墟・宇宙 ι #

 宇宙の端っこについて考えて眠れなくなったことはないだろうか?それほど宇宙は無限であり、底が見えない世界なのである。嫌なことがあっても宇宙の広さを考えれば、微粒

子レベルのささいなこととなるので、ある意味ポジティブを与えてくれる宇宙。 わからないことだらけの宇宙だが、それでも、最近になって、いくつかの謎は解明された。そんな10の宇宙の神秘を見ていくことにしよう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%A6%8F%E6%A8%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0

THE EARLY 20TH CENTURY DISCOVERY OF MODERN SCIENCE ABOUT THE BEGINNING OF UNIVERSE CREATION THROUGH A BIG BANG THAT STARTED SEPARATING EARTH AND HEAVENS FROM A SINGLE MASS PARTICLE WAS INFORMED TO HUMANITY BY THE GREAT CREATOR, ALLAH, IN THE HOLY QURAN 1500 YEARS AGO

宇宙の創造は、一つのものからビッグバンとしていきなりの爆発のかたちで始まって、大地といろいろな惑星と星がわかれるようになった、という現代科学の20世紀初めの発見が、その唯一の創造主、アッラー、は、1500年前から正クルアーンに人類に知らせている

. また聖クルアーンの第21章の第30節で、今からやく1,500年前に、宇宙の創造に対して、最近発見されいるビッグバン理論のこともそういうふうに書いてある:

Have not the people, who have disbelieved (the Message), ever considered this: the heavens and the earth were at first one mass; then We parted them,28 and created every living thing from water?(Al-Anbia 21~30)

無心者(むしんじゃ)(ら)はこの事実(じじつ)観察(かんさつ)していないのか?大地(だいち)宇宙(うちゅう)にあるすべての(ほし)全部(ぜんぶ)一緒(いっしょ)にくついていて一つ(ひとつ)かたまり(のかたま)になっていた。われがそれを割って(わって)別々(べつべつ)のものにした。それでも彼ら(かれら)信じない(しんじない)のか?」(第21章の第30節)(マウヅヂ先生のタフヒムル・クルアーンから)

 また聖クルアーンに上記の第21章の第30節で、大地と宇宙の創造にたいしてアッラーのやったことが、現代のビッグバンと同じ理論のことを述べている。

ビッグバン

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この記事には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

 

ビッグバン: Big Bang)とは、

  • ビッグバン理論(ビッグバン仮説)、つまり「この宇宙には始まりがあって、爆発のように膨張して現在のようになった」とする説
  • 同説において想定されている、宇宙の最初期の超高温度・超高密度の状態のことである。
  • この理論に「ビッグバン (Big Bang)」という名をつけることになったのは、皮肉にも、「宇宙に始まりがあった」という考えを非常に嫌悪していたフレッド・ホイルであり、あるラジオ番組において、ジョルジュ・ルメートルのモデルを「this 'big bang' idea(この大ボラ)」と愚弄するように呼んだのが始まりである[2][3]とされている。科学記者ジョン・ホーガンの取材によるとホイルは卑下する意味は微塵も無く、何か咄嗟に生き生きとした表現は無いものかと思いついたのが「ビッグ・バン」だったと気まずく述べており「命名者としてパテントを取得しておくべきだったよ」と悔やんでいる旨を明かしている。その名の通り爆発的に用語が一般認知、定着するが、それ以前の天文学者らの間ではフリードマン宇宙論として語られていた[4]

  • 20世紀前半でも、天文学者も含めて人々は宇宙は不変で定常的だと考えていた。ハッブルの観測によって得られたデータが登場しても科学者たちも真剣にそれを扱おうともせず、ごくわずかな人数のアウトサイダー的な天文学者・科学者がビッグバン仮説を発展させたものの、無視されたり軽視されたりしてなかなか受け入れられなかった。ビッグバン理論から導かれる帰結の1つとして、今日の宇宙の状態は過去あるいは未来の宇宙とは異なる、というものがある。このモデルに基づいて、1948ジョージ・ガモフ宇宙マイクロ波背景放射 (CMB) が存在することを主張、その温度を5Kと推定した。CMB は1960年代になって発見され、この事実が、当時最も重要な対立仮説(対立理論)であった定常宇宙論ではなくビッグバン理論を支持する証拠と受け止められ、支持する人が増え多数派になり、「標準理論」を構成するようになった。この説が生まれてから数十年の時を経て、ようやくそうなったのである。(→#歴史

  • JUST ONE ORDER OF GOD BROUGHT UNIVERSE FROM NOTHNG INTO EXISTENCE.

  • THIS WAS INFORMED TO HUMANITY BY THE GREAT CREATOR, ALLAH, IN THE HOLY QURAN 1500 YEARS AGO

  • MODERN SCIENCE SAYS THIS ORDER WAS GIVEN 138 BILION YEARS AGO WHICH BROUGHT UNIVERSE INTO EXISTENCE.

  •  また聖クルアーンの第41章の第11節で宇宙の創造のことが神の命令一つで無からの存在になったということが書いてある。その神のいきなり命令のことが現代科学でビッグバンと言っている。

  • 現代科学によるとその命令が神様(アッラー)は、138億年前に下さったものらしい。

  • という現代科学の20世紀初めの発見が、その唯一の創造者、アッラー、は、1500年前から正クルアーンに人類に知らせている

  •  

  • Then He turned to the heaven, which was only smoke at that time.14 He said to the heaven and the earth "Come into being, whether you like it or not." They both said, "We do come in submission.” (41-11) {from Tafheemul Quran by Maulana Maududi}

·          {それからその御方(おかた)宇宙(うちゅう)大地(だいち)(ほう)向いた(むいた)。その(とき)(そら)がただ(けむり)だった。((しゅ)が)命令(めいれい)をくださった:「両方(りょうほう)とも(いや)でも、無理矢理(むりやり)でも、(む)から存在(そんざい)になれ」。「われわれは((しゅ)の)命令(めいれい)従います(したがいます)」、両方(りょうほう)とも答えた(こたえた)。}(第41章の第11節)(マウヅヂ先生のタフヒムル・クルアーンから)

  • ビッグバン理論(ビッグバン仮説)に基づいたビッグバン・モデルでは、宇宙は時間空間の区別がつかない一種の「無」の状態から忽然と誕生し[要出典]、爆発的に膨張してきた、とされる。近年の観測値を根拠にした推定により、ビッグバンは約138億年前に起きたと推定されるようになった(ウィキペヂア から)

EXPANDING UNIVERSE CONCEPT IN HOLY QURAN

THIS 20TH CENTURY DISCOVERY WAS INFORMED TO HUMANITY BY THE GREAT CREATOR, ALLAH, IN THE HOLY QURAN 1500 YEARS AGO

宇宙はずっと膨張し続けている、

という現代科学の20世紀初めの発見が、その唯一の創造者、アッラー、は、1500年前から正クルアーンに人類に知らせている

[51~47] We43 have built the heaven with Our own might and We possess the power for it.44

“According to the second meaning, it would mean: "This huge universe that We have created, is not a finished work, but We are expanding it continuously, and new and ever new manifestations of Our creation are appearing in it every moment. “(from Tafheemul Quran by Maulana Maududi)

われは自分(じぶん)(ちから)宇宙(うちゅう)創った(つくった)、また我が(われが)そういう全能(ぜんのう)(ちから)持ち主(もちぬし)であられる。

この節の二番目の意味によるとこういうことになります:「われが創った(つくった)この大規模(だいきぼ)宇宙(うちゅう)完成(かんせい)されたわけではありません。われは、これをずっと膨張(ぼうちょう)し続けて(しつづけて)いるし、またその膨張(ぼうちょう)(の)にいつもわれの想像力(そうぞうりょく)新しい(あたらしい)初回(しょかい)兆候(ちょうこう)(つぎ)から(つぎ)各瞬間(かくしゅんかん)表れて(あらわれて)いる。」(マウヅヂ先生のタフヒムル・クルアーンから)

44The word must' (pl. musi'un) may mean the one who possesses power and means, and also the one who can extend and expand something. According to the first meaning, the verse would mean: "We have built this heaven by Our own might and not with somebody else's help, and its erection was in no way beyond Us. Then how can you ever conceive that We shall not be able to recreate it ?" According to the second meaning, it would mean: "This huge universe that We have created, is not a finished work, but We are expanding it continuously, and new and ever new manifestations of Our creation are appearing in it every moment. How do you then think that such a marvelous Creator would not be able to repeat His creation. (from Tafheemul Quran by Maulana Maududi)

概要

ビッグバン理論では、宇宙は極端な高温高密度の状態で生まれた、とし(下)、その後に空間自体が時間の経過とともに膨張し、銀河はそれに乗って互いに離れていった、としている(中、上)。

「ビッグバン」という語は、狭義では宇宙の(ハッブルの法則に従う)膨張が始まった時点を指す。その時刻は今から138億年[1]1.38 × 1010年)前と計算されている。より一般的な意味では、宇宙の起源や宇宙の膨張を説明し、またジョージ・ガモフの「α-β-γ理論」から予測される宇宙初期の元素合成によって現在の宇宙の物質組成が生まれたとする、現代的な宇宙論パラダイムも指しうる。

ビッグバン理論(ビッグバン仮説)に基づいたビッグバン・モデルでは、宇宙は時間空間の区別がつかない一種の「無」の状態から忽然と誕生し[要出典]、爆発的に膨張してきた、とされる。近年の観測値を根拠にした推定により、ビッグバンは約138億年前に起きたと推定されるようになった。

遠方の銀河ハッブルの法則に従って遠ざかっているという観測事実を、一般相対性理論を適用して解釈すれば、宇宙が膨張しているという結論が得られる。宇宙膨張を過去へと外挿すれば、宇宙の初期には全ての物質エネルギーが一カ所に集まる高温度・高密度状態にあったことになる。この初期状態、またはこの状態からの爆発的膨張をビッグバンという。

この高温・高密度の状態よりさらに以前については、一般相対性理論によれば重力的特異点になるが、物理学者たちの間でこの時点の宇宙に何が起きたかについては広く合意されているモデルはない。

 

 

 

OTHER SCIENTIFIC FACTS IN HOLY QURAN

THESE SCIENTIFIC TRUTHS WERE REVEALED TO HUMANITY BY THE GREAT CREATOR, ALLAH, IN THE HOLY QURAN 1500 YEARS AGO

現代科学で証明された正クルアーンでのべられたほかの事実もいっぱいある。ここで簡単に二つだけ指摘します。

そういう現代科学の20世紀初めの発見が、その唯一の創造者、アッラー、は、1500年前から正クルアーンに人類に知らせている

 ビッグバン以外に他のいろいろなことも聖クルアーンで1,500年まえに書いてあったことの真実性が、今の科学的な研究で証明されている。例えば、上記の聖クルアーンの節で空がけむりのようなものであると述べている。これも現代科学の研究と一致している。

 また、上記の聖クルアーンの別の節ですべての生き物を水で創ったと書いている。現代科学で宇宙の中で大地以外にどんな星にも水が存在してないから生命のある生き物も存在してないと言っている。

そういう大規模の宇宙の創造を出来た全能の神(アッラー)は、人間の創造と彼の復活のことを出来ないのか?

(しゅ)には、)あなたがたを創る(つくる)こと(と復活させること)がうち建てられた空と宇宙(の創造(そうぞう))より難しい(むずかしい)思う(おもう)のか?」(79章~27節)

 そのあと27節から33節までアッラーは、大地で人間が生きていて、毎日の生活ができる為に、必要なものすべてを揃うようにしてある、ということを指摘されている。

「かれは(そら)跳躍(ちょうやく)高さ(たかさ)上げて(あげて)、それにバランス(ばらんす)与えました(あたえました)(よる)暗く(くらく)なされ,また,光明(こうみょう)現わされる(あらわされる)その後(そのご)大地(だいち)を延べ広げられた。そこから(みず)牧場(ぼくじょう)現われさせ(あらわれさせ),また山々(やまやま)をそれにしっかりと据えられ(すえられ),(これは)あなたがたとあなたがたの家畜(かちく)暮らし(くらし)手段(しゅだん)とし用意(ようい)しているのです。」

そういうふうにアッラーは、この大地が人間のために暮らしいやすくしてある。そこで人間が神の導きを無視して、すき勝手な人に迷惑をかけるような生活をしたり、人を騙したり、殺したりような悪い生活をしたり、社会で混乱を起こしたりしていれば、神から罰せられべきです。

 こういうふうな説明しないで、次の第34から第41節でいきなり来世の罰のことを指摘している。

 「[34-41]:  それで大きい(おおきい)災厄(さいやく)来る(くる)と,その(ひ)人々(ひとびと)は(現世(げんせい)自分(じぶん)たちが)(なん)のため一生(いっしょう)頑張って(がんばって)きたのかのことを思い出(おもいだし),また(ごく)(ひ)は,(だれ)にでも見える(みえる)(ほど)近く(ちかく)なり、ありありと)現わされる(あらわされる)。その(とき),酷く反抗的(はんこうてき)であった(もの),またこの(よ)生活(せいかつ)重んじて(おもんじて)いた(もの)は, (まこと)火獄(ひごく)がその(もの)永久(えいきゅう)住まい(すまい)になるのであろう。だが(しゅ)御前(ごぜん)立つ(たつ)ことを恐れた(おそれた)(もの),また低劣(ていれつ)欲望(よくぼう)対し(たいし)自分(じぶん)自身(じしん)抑制(よくせい)した(もの)は,(まこと)楽園(らくえん)がその方の永久(えいきゅう)住まい(すまい)になるのであろう。」

 最後の第42から第46の節で、メッカ市の無信者等のある質問の答えを述べている。彼らは冗談しながら、馬鹿にするつもりで、何回も尋ねていたのがいったい何時その審判の日が本当にくるのか?その答えを聖クルアーンで最後の節で下記のとおりです。

 「42-46]: かれらはその(とき)就いて(ついて),あなたに問う(とう)。「それが到来(とうらい)するのは,何時(いつ)(の(ひ))ですか。」そういう時期(じき)のことを教える(おしえる)のがあなたの仕事(しごと)ではありません。その終末(しゅうまつ)(の知識(ちしき))は,あなたの(しゅ)にあるだけ。あなたは,それを恐れる(おそれる)(もの)への,一人(ひとり)警告者(けいこくしゃ)過ぎない(すぎない)。かれらがそれを見る(みる)(ひ),((はか)(なか)に)滞留(たいりゅう)していたのは,一夕か一朝(いっちょう)過ぎなかった(すぎなかった)ように思う(おもう)であろう。」

79. Surah Naziat (Those Who Tear Out)

79. 引き離す(ひきはなす)もの (アン・ナーズィアート) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。“

[1-5]:荒々しく(あらあらしく)((からだ)に)深く(ふかく)入って(はいって)強い(つよい)(ちから)引っ張って(ひっぱって)罪深い(つみぶかい)(もの)(たましい)を)引き離す(ひきはなす)(天使(てんし)たち)において(誓う(ちかう)),また優しく(やさしく)信仰(しんこう)深い(ふかい)(しゃ)(たましい)を)引き出す(ひきだす)もの(天使(てんし)たち)において、((かみ)使い(つかい)として)世の中(よのなか)に,泳でいる(天使(てんし)たち)において、(自分(じぶん)与えられた(あたえられた)義務(ぎむ)一所懸命(いっしょけんめい)果たす(はたす)(ため)に)(さき)争って(あらそって)前進(ぜんしん)するもの(天使(てんし)たち)において,また((しゅ)命令(めいれい)道理(どうり)にすべての)(こと)処理(しょり)するもの(天使(てんし)たち)において(誓う(ちかう))。

[6-14]:その(ひ)(第一のラッパ(らっぱ)で),震動(しんどう)猛烈(もうれつ)衝撃(しょうげき)与え(あたえ),またそれに続けて(つづけて)(つぎ)ラッパ(らっぱ)吹かれる(ふかれる)、その(ひ)には若干(じゃっかん)(こころ)大変(たいへん)怖くて(こわくて)震える(ふるえる)し、また(め)畏怖(いふ)(ねん)起こす(おこす)であろう。

かれらは言う(いう)、「わたしたちは初め(はじめ)生前(せいぜん))の状態(じょうたい)に,本当(ほんとう)戻される(もどされる)のでしょうか。(なん)と,わたしたちは中身(なかみ)のない、腐った(くさった)(ほね)になっていても?」。「その場合(ばあい)復活(ふっかつ)のことが自分(じぶん)たちに対して(たいして)大変(たいへん)な),喪失(そうしつかん)で悲嘆(ひたん)暮れる(くれる)ことになるでしょう。(またよみがえることは),只一声(ただひとこえ)叫び(さけび)である。見よ(みよ),かれらは(きゅう)目覚めて(めざめて)地上(ちじょう)に)現われる(あらわれる)でしょう。

[15-26]:  ムーサー(むーさー)預言者(よげんしゃ))の物語(ものがたり)が,あなたに届いた(とどいた)のか。(しゅ)トワー(とわー)神聖(しんせい)(たに)(かれ)大声(おおごえ)をあげた(とき)思い起せ(おもいおこせ)。あなたはフィルアウン(ふぃるあうん)(王)の(もと)行け(いけ)、きっとかれは反抗的(はんこうてき)になっている。そしてかれに言って(いって)やれ『あなたは((つみ)から)清められたい(きよめられたい)のか。わたしはあなたを,(しゅ)御許(みもと)導く(みちびく)。それであなたは((しゅ)のことを)畏れる(おそれる)ようになるだろう。』ムーサー(むーさー)偉大(いだい)(いん)をかれに示した(しめした)。だがかれ(フィルアウン(ふぃるあうん)王)はそれを拒否(きょひ)して、その(はなし)従わなかった(したがわなかった)(せ)向けて(むけて)いろいろな悪い(わるい)策略(さくりゃく)をたくらんで去った(さった)。かれ(フィルアウン(ふぃるあうん))は,(自分(じぶん)(くに)民族(みんぞく)を)集め(あつめ)宣言(せんげん)した、「わたしはあなたがたの(しゅ), (し)高者(こうしゃ)である。」それでアッラー(あっらー)(かれ)を,来世(らいせ)現世(げんせい)懲罰(ちょうばつ)加える(くわえる)ために捕まえた(つかまえた)(まこと)にこの(なか)には((しゅ)を)畏れる(おそれる)(もの)への一つ(ひとつ)教訓(きょうくん)がある。

[27-33]:(しゅ)には、)あなたがたを創る(つくる)こと(と復活させること)がうち建てられた空(の創造(そうぞう))より難しい(むずかしい)思う(おもう)のか?かれは(そら)跳躍(ちょうやく)高さ(たかさ)上げて(あげて)、それにバランス(ばらんす)与えました(あたえました)(よる)暗く(くらく)なされ,また,光明(こうみょう)現わされる(あらわされる)その後(そのご)大地(だいち)を延べ広げられた。そこから(みず)牧場(ぼくじょう)現われさせ(あらわれさせ),また山々(やまやま)をそれにしっかりと据えられ(すえられ),(これは)あなたがたとあなたがたの家畜(かちく)暮らし(くらし)手段(しゅだん)とし用意(ようい)しているのです。

[34-41]:  それで大きい(おおきい)災厄(さいやく)来る(くる)と,その(ひ)人々(ひとびと)は(現世(げんせい)自分(じぶん)たちが)(なん)のため一生(いっしょう)頑張って(がんばって)きたのかのことを思い出し(おもいだし),また(ごく)(ひ)は,(だれ)にでも見える(みえる)(ほど)近く(ちかく)なり、ありありと)現わされる(あらわされる)。その(とき),酷く反抗的(はんこうてき)であった(もの),またこの(よ)生活(せいかつ)重んじて(おもんじて)いた(もの)は, (まこと)火獄(ひごく)がその(もの)永久(えいきゅう)住まい(すまい)になるのであろう。だが(しゅ)御前(ごぜん)立つ(たつ)ことを恐れた(おそれた)(もの),また低劣(ていれつ)欲望(よくぼう)対し(たいし)自分(じぶん)自身(じしん)抑制(よくせい)した(もの)は,(まこと)楽園(らくえん)がその(ほう)永久(えいきゅう)住まい(すまい)になるのであろう。

[42-46]: かれらはその(とき)就いて(ついて),あなたに問う(とう)。「それが到来(とうらい)するのは,何時(いつ)(の(ひ))ですか。」そういう時期(じき)のことを教える(おしえる)のがあなたの仕事(しごと)ではありません。その終末(しゅうまつ)(の知識(ちしき))は,あなたの(しゅ)にあるだけ。あなたは,それを恐れる(おそれる)(もの)への,一人(ひとり)警告者(けいこくしゃ)ぎない(すぎない)。かれらがそれを見る(みる)(ひ),((はか)(なか)に)滞留(たいりゅう)していたのは,一夕か一朝(いっちょう)過ぎなかった(すぎなかった)ように思う(おもう)であろう。

 

80. Surah Abasa (He Frowned)

80. (まゆ)をひそめて (アバサ) 

(解説)

名前:この章の一番初めに言葉がこれの名前にしてある。

啓示された時期:この章がメッカに一番初めの時期で啓示された。

内容とテーマ: この章の初めの16節のテーマはイスラームのダーワーや呼びかけの時どういう相手が優先的に扱うべきかのことをおしえている。社会で優良な偉い方々を大事にするべきですが、それよりももし誰かが社会的に上位ではなく、地位の低い人でも自分で探し求めて来た方がいれば、その方の方がもっと大事に扱うべきだ、ということを教えている。

 また17節から終わりまでは、預言者モハッマド(PBUH)のダーワーを拒否していた無心者がアッラーの怒りの対象になっている。彼らは自分の創造者や主や生まれた時から死ぬまで面倒をみてくれている御方に対して彼らのいやな態度のことを非難されている。最後にこの生き方の最終結末のことを警告されている。

80. Surah Abasa (He Frowned)

80. (まゆ)をひそめて (アバサ) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。“

[1-16]: ムハッマドは)(まゆ)をひそめ,(かお)背けた(そむけた)一人(ひとり)の盲人(もうじん)がやって来て(きて)(はなし)中断(ちゅうだん)された)ためである。あなたにどうして分ろう(わかろう)か,かれは清められる(きよめられる)かも知れない(しれない)ことが、または訓戒(くんかい)受け入れて(うけいれて),その教え(おしえ)はかれに(やく)立つ(たつ)かもしれないことが。だが(信仰(しんこう)に)興味(きょうみ)をも持たない(もたない)(もの)偉い(えらい)(ひと)たち)には,(あなたが)関心(かんしん)をもって)応待(おうたい)する。しかもかれが自ら(みずから)清めなくて(きよめなくて)も,あなたに責任(せきにん)はない。だが熱心(ねっしん)に(信仰(しんこう)を)求めて(もとめて)あなたの(もと)来た(きた)(もの)、また(アッラー(あっらー)の)畏れ(おそれ)をもっている(もの)には、あなたは軽視(けいし)している。断じて(だんじて)そうであるべきではない。(まこと)にこれ(クルアーン(くるあーん))は訓戒(くんかい)である。だから(だれ)でも望む(のぞむ)(もの)がいれば、それ(訓戒(くんかい)受け入れて(うけいれて)良い(いい)。それは(アッラー(あっらー)御許(みもと)にある)帳簿(ちょうぼ)記され(しるされて)いるもの。至高(しこう)にして清純(せいじゅん)なもの。書記(しょき)たち(天使(てんし))の(て)で(記録(きろく)されたもの)。気高く(けだかく)敬虔(けいけん)な(書記(しょき)たち)。

[16-32]:人間(にんげん)、(不信心者(ふしんじんしゃ))に災い(わざわい)あれ、どんなに酷く(ひどく)真実(しんじつ)拒む(こばむ)のか。かれはどんなものから創られた(つくられた)のか、(ひと)(しずく)精液(せいえき)からである。アッラー(あっらー)が,かれを創り(つくり),またかれの運命(うんめい)定めた(さだめた)。かれの現世(げんせい)暮らし(くらし)(みち)容易(ようい)にして暮れた(くれた)。やがてかれを死なせて(しなせて)墓場(はかば)埋めた(うめた)。それから御望み(おのぞみ)(とき)に,かれを甦らせる(よみがえらせる)断じて(だんじて),かれがアッラー(あっらー)からに命令(めいれい)された(ぎ)果たさなかった(はたさなかった)

 かれに,自分(じぶん)食物(しょくもつ)就いて(ついて)考えさせて(かんがえさせて)みるがよい。(まこと)にわれは,(みず)(あめ))を豊か(ゆたか)注ぎ(そそぎ)次いで(ついで)大地(だいち)裂いて(さいて)切れ切れ(きれぎれ)にし,そこに生長(せいちょう)させるものには,穀物(こくもつ),またブドー(ぶどー)青草(あおくさ)オリーブ(おりーぶ)ナツメヤシ(なつめやし)繁茂(はんも)した庭園(ていえん)果物(くだもの)牧草(ぼくそう)(がある)。(これは)あなたがたとあなたがたの家畜(かちく)暮らし(くらし)手段(しゅだん)とし用意(ようい)しているのです。

[32-40]:やがて,(終末(しゅうまつ)に)(みみ)がずっと永久(えいきゅう)聞こえない(きこえない)ほど物凄く(ものすごく)高い(たかい)一声(ひとこえ)鳴り(なり),その(ひ)には、(ひと)自分(じぶん)(きょうだい)から,自分(じぶん)(はは)(ちち)や,また自分(じぶん)(つま)子女(しじょ)から逃る(にげる)。その(ひ)にはこの(ひと)たちの(だれ)もかれも考えられない(かんがえられない)ほど物凄い(ものすごい)酷い(ひどい)(め)にあうので、自分(じぶん)以外(いがい)(だれ)のことも(き)にする余裕(よゆう)がなくなるのです。その(ひ)或る(ある)(もの)たちの(かお)は, (かが)やって笑って(わらって),また喜んで(よろこんで)いるのです。だが(或る(ある)(もの)たちの)(かお)は,その(ひ)ちりに塗れ(まみれ)暗黒(あんこく)彼ら(かれら)(かお)覆う(おおう)のです。これらの(もの)たちこそ,不信心(ふしんじん)で,悪い(わるい)行い(おこない)をいっぱい重ねて(かさねて)いた方々(かたがた)であるのです。

81. Surah At Takwir (The Folding Up)

81. 包み隠す(つつみかくす) (アッ・タクウィール) 

(解説)

名前:この章の名前は初めの節である言葉から取られている。その言葉の意味は「畳む」である。というのはこれが「畳む」という言葉が使われている章である。

啓示された時期:これの内容とテーマから見たら、これがメッカの初期に啓示された章と思われている。

内容とテーマ:これのテーマは来世と預言者制度の話です。

 初めの六節で審判の日の第一段階のことをのべられている。そのときは、太陽(たいよう)がたたまれる。諸星(もろほし)散乱(さんらん)される。山々(やまやま)散る(ちる)孕んで(はらんで)10(10)ケ月の(めす)駱駝(らくだ)が(大事(だいじ)にされないで)ほっておかれる。様々(さまざま)野獣(やじゅう)が(恐怖(きょうふ)余り(あまり)で)(むれ)をなして集まる(あつまる)大洋(たいよう)(も)えあげられる。

 また次の七つの節で、審判の日の第二の状況のこと述べられている。その第二の段階では、それぞれの(たましい)が(肉体(にくたい)と)組み合わされる。生き埋められて(いきうめられて)いた(女児(じょじ)が)どんな(つみ)殺された(ころされた)かと問われる(とわれる)。(人々(ひとびと)行い(おこない)の)帳簿(ちょうぼ)開かれる(ひらかれる)晴天(せいてん)のベールが除却される。(ごく)(ひ)(ほのお)を上げられる。天国(てんごく)近く(ちかく)から見える(みえる)。(その(とき)各人間(かくにんげん)自分(じぶん)はなに(善悪(ぜんあく)所業(しょぎょう))を持って(もって)来た(きた)かのことが分かる(わかる)でしょう。

 そのあとに預言者のことが述べられている。「(人びと(ひとびと)よ)あなたがたの仲間(なかま)モハッマド(もはっまど))は,(き)違い(ちがい)ではない。かれは,明るい(あかるい)地平(ちへい)線上(せんじょう)にはっきりとかれ(ジブリール(じぶりーる))を見た(みた)。(モハッマド(もはっまど)は)(め)見えない(みえない)世界(せかい)に対していろいろな知識を(人類(じんるい)に)伝える(つたえる)にはケチケチしない(かた)であるのです。それ(聖クルアーン(くるあーん))は,呪われた(のろわれた)悪魔(あくま)言葉(ことば)でもない。それなのにあなたがたは(それらのことを信用(しんよう)せず)何処(どこ)行く(いく)のか。これ(聖クルアーン(くるあーん))こそは,全人類(ぜんじんるい)の万人への教訓(きょうくん)(ほか)ならない。それはあなたがたの(なか)(だれ)でも正しい(ただしい)(みち)歩みたい(あゆみたい)望む(のぞむ)(もの)のためである。だが万有(ばんゆう)(しゅ)アッラー(あっらー)御望み(みのぞみ)がない限り(かぎり),あなたがたの望み(のぞみ)だけでは(なん)出来事(できごと)可能(かのう)になる(わけ)がないのです。」

81. Surah At Takwir (The Folding Up)

81. 包み隠す(つつみかくす) (アッ・タクウィール) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

[1-14]:太陽(たいよう)がたたまれる(とき)諸星(もろほし)散乱(さんらん)される(とき)山々(やまやま)散る(ちる)(とき)孕んで(はらんで)10(10)ケ月の(めす)駱駝(らくだ)が(大事(だいじ)にされないで)ほっておかれる(とき)様々(さまざま)野獣(やじゅう)が(恐怖(きょうふ)余り(あまり)で)(むれ)をなし集まる(あつまる)(とき)大洋(たいよう)(も)えあげられる(とき),それぞれの(たましい)が(肉体(にくたい)と)組み合わされる(くみあわされる)(とき)生き埋められて(いきうめられて)いた(女児(じょじ)が)どんな(つみ)殺された(ころされた)かと問われる(とわれる)(とき),(人々(ひとびと)行い(おこない)の)帳簿(ちょうぼ)開かれる(ひらかれる)(とき)晴天(せいてん)のベールが除却(じょきゃく)される(とき)(ごく)(ひ)(ほのお)上げさせられる(あげさせられる)(とき)天国(てんごく)近く(ちかく)から見える(みえる)(とき),(その(とき)各人間(かくにんげん)自分(じぶん)はなに(善悪(ぜんあく)所業(しょぎょう))を持って(もって)来た(きた)かのことを分かる(わかる)でしょう。

[15-29]:が、そうでもない(預言者(よげんしゃ)のメッセージが嘘ではない)、わたしは沈み(しずみ)ゆく諸星(もろほし)において誓う(ちかう)。((あさ)ごろに)隠れる(かくれる)諸星(もろほし)において、暗闇(くらやみ)から離れた(はなれた)(よる)において,夜明け(よあけ)迎える(むかえる)(あさ)において(誓う(ちかう))。(まこと)にこれ(聖クルアーン)は,高貴(こうき)使徒(しと)ジブリール(じぶりーる))により(アッラー(あっらー)から伝えられた)言葉(ことば)であるのです。(ジビリールと言う(いう)使徒(しと)は)玉座(ぎょくざ)(しゅ)御前(ごぜん)で(尊厳(そんげん)される地位(ちい)の)(ざ)につく,凄い(すごい)エネルギー(えねるぎー)ワー(ぱわー)をもっている,(天使(てんし)たちに)従われ(したがわれ)て,信頼(しんらい)される(使徒(しと)である)。(人びと(ひとびと)よ)あなたかたの仲間(なかま)モハッマド(もはっまど))は,(き)違い(ちがい)ではない。かれは,明るい(あかるい)地平(ちへい)線上(せんじょう)にはっきりとかれ(ジブリール(じぶりーる))を見た(みた)。(モハッマド(もはっまど)は)(め)見えない(みえない)世界(せかい)に対していろいろな知識を(人類(じんるい)に)伝える(つたえる)にはケチケチしない(かた)であるのです。それ(聖クルアーン(くるあーん))は,呪われた(のろわれた)悪魔(あくま)言葉(ことば)でもない。それなのにあなたがたは(それらのことを信用(しんよう)せず)何処(どこ)行く(いく)のか。これ(聖クルアーン(くるあーん))こそは,全人類(ぜんじんるい)万人(ばんにん)への教訓(きょうくん)(ほか)ならない。それはあなたがたの(なか)(だれ)でも正しい(ただしい)(みち)歩みたい(あゆみたい)望む(のぞむ)(もの)のためである。だが万有(ばんゆう)(しゅ)アッラー(あっらー)御望み(みのぞみ)がない限り(かぎり),あなたがたの望み(のぞみ)だけでは(なん)出来事(できごと)可能(かのう)になる(わけ)がないのです。

82. Surah Al Infitar (The Cleaving)

82. 裂ける(さける) (アル・インフィタール) 

(解説)

名前:この章の名前は初めの節の言葉から付けられている。この章には空が裂けるという話があるということです。

啓示された時期:これとこの前の章の内容がお互いに大分似ている。だから両方とも同じ時期に啓示されていると思われている。

内容とテーマ: この章のテーマは来世です。あるハヂースによると、預言者(PBUH)はこういうことを」言ったといわれている。もし誰かが審判の日のことが自分の目で見たような感じで分かりたいのであれば、この章とこの前と後の章(第八十一番から第八十参番)を読みなさい、と。

この章で一番初めに審判の日の状況が述べられている。そのとき主に人間の全ての行いが提供されます。

 それからアッラーは、人間に無から創造して、人間という形の体を与えて、それを整えてくれた。それはどんな生き物よりも一番優れているじゃないですか?アッラーのこの慈悲深い恩恵を分かっていても、人間がどうしてアッラーは正義を行わないだろうと思うのか?神の慈悲と一緒に正義もあるということに対してどういうことがかれを騙しているのか?

 人間がそういう誤解をしないように警告されている。彼の全ての行いのことが天使たちは書いている。「(まこと)にあなたがたの(うえ)には看守(かんしゅ)天使(てんし))がいて、かれらは気高い(けだかい)記録者(きろくしゃ)で,あなたがたのすべての所業(しょぎょう)知って(しって)いる。」(本章の10~12節)

 また最後に審判の日が必ず起こるということを強調されている。その日に善い行いの人たちが天国で永久に楽な生活が出来るし、また悪い行いの記録されている者は永久に地獄で焼かれる。その時は,だれも人助け出来ないし、すべてのことの決定権がアッラーのみに属している。

82. Surah Al Infitar (The Cleaving)

82. 裂ける(さける) (アル・インフィタール) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

[1-5]:青空(あおぞら)が,ばらばらに裂ける(さける)(とき)諸星(もろほし)散らされる(ちらされる)(とき)諸大洋(しょたいよう)が引きちぎられるる(とき)墓場(はかば)があばかれ(て人間(にんげん)蘇えられる(よみがえられる))る(とき),それぞれの人間(にんげん)は,前もって(すで)にやったことと,(あと)残した(のこした)ことを知る(しる)

[6-12]:人間(にんげん)よ,(なに)があなたを恵み(めぐみ)深い(ふかい)(あるじ)から惑わせ(まどわせ)背かせ(そむかせ))たのか。かれはあなたを創造(そうぞう)し,(かたち)与え(あたえ),均整(きんせい)のとれた(からだ)に)整え(ととのえ),またその御方(おかた)が自分(じぶん)の思い(おもい)道理(どうり)にあなたの(かお)や(からだ)の(かたち)を創った(つくった)。が断じて(だんじて)、あなたがたは審判(しんぱん)(び)(を否定(ひてい)してそれ)を(うそ)であると言う(いう)(まこと)にあなたがたの(うえ)には看守(かんしゅ)天使(てんし))がいて、かれらは気高い(けだかい)記録者(きろくしゃ)で,あなたがたのすべての所業(しょぎょう)知って(しって)いる。

[12-19]: 信心(しんじん)深い(ぶかい)(もの)は,必ず(かならず)至福(しふく)の(なか)にいる。罪深い(つみぶかい)(もの)は,きっと業火(ごうか)(なか)にいるのです。審判(しんぱん)(ひ)に,かれらはその(なか)入れられ(いれられ)(からです)。そこから,(何処(どこ)かへ逃げて(にげて))消えられることがあり得ないのです。審判(しんぱん)(ひ)(なに)であるかを,あなたはそれのことが(なに)分かる(わかる)のですか。(またいうけど( )一体(いったい)審判(しんぱん)(ひ)(なに)であるのかを,あなたはそれのことが(なに)分かる(わかる)のですか。その(ひ),どんな(もの)(ほか)(もの)のために(助け合うような)(なん)(か)持たない(もたない)のです。命令(めいれい)は,(その(ひ)すべての(けん)対して(たいして)決定権(けっていけん)が)アッラー(あっらー)のみに属する(ぞくする)のです。

83. Surah Al Mutaffifin (Those Who Deal in Fraud)

83. (りょう)減らせる(へらせる)(もの) (アル。ムタッフィフィン)

(解説)

名前:この章の一番初めの節である言葉からこの名前を付けられている。

啓示された時期:この章もメッカ初めの時期で啓示されたものです。まだ暴力や虐待が始まらないで、町や集会やどこでも信者等が見えたら、皆から馬鹿にされていた時期だった。

内容とテーマ: この章のテーマは来世です。

 初めの六節で、メッカ社会であった一つの悪い慣習のことを非難されている。それは人に渡すとき少なめに、もらうときお目に計量していたことです。この悪い慣習のことが誰でも認めていた。

 これの原因は、来世を信じないからでした、ということがこの章で出張しています。この悪い習慣がその時の一つの例でした。人間社会で道徳を守って貰うには、来世を信じる以外に方法はないのです。現代社会であるあらゆる悪いことがただ警察や法律の力で減らすのが無理です。来世の信仰こそが人間に自制させることが出来る。

 次に六節から十七節までには、悪い人たちの行いが刑務所の事務所に、また良い行いの方々の記録が良いところに記録されている。それぞれが来世でそういう記録に基づいて罰や報い貰える。

83. Surah Al Mutaffifin (Those Who Deal in Fraud)

83. (りょう)減らせる(へらせる)(もの) (アル。ムタッフィフィン)

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-6]:災い(わざわい)がある,(りょう)減らす(へらす)人たちに。かれらは(ひと)から計って(はかって)受け取る(うけとる)(とき)は,十分(じゅうぶん)取り(とり),(相手(あいて)渡す(わたす)(りょう)重さ(おもさ)計る(はかる)ときは,少なく(すくなく)計量(けいりょう)する(もの)たちである。これらの(もの)は,ある日(蘇えられて(よみがえられて)連れて(つれて)行けられる(いけられる)ことを考えない(かんがえない)のか,偉大(いだい)なる(審判(しんぱん)の)(ひ)に。その(ひ),(全て(すべて)の)人間(にんげん)は,万有(ばんゆう)(しゅ)御前(ごぜん)立つ(たつ)のです。

[7-17]:断じて(だんじて)いけない。罪深い(つみぶかい)(もの)記録(きろく)は,刑務所(けいむしょ)事務所(じむしょ)(なか)に(保管(ほかん)して)ある。刑務所(けいむしょ)事務所(じむしょ)(なに)であるかのことは,あなたは(なに)分かる(わかる)のですか。(そこには完全(かんぜん)に)書かれた(かかれた)一つ(ひとつ)の((みな)行い(おこない)の)記録(きろく)(がある)。災い(わざわい)があるその(ひ)に、それを否定(ひてい)する(もの)たちに。その(ひ)のことを否定(ひてい)しているのはすべての違反者(いはんしゃ)罪人(つみびと)以外(いがい)(ほか)はないのです。われの啓示された者((せい)クルアーン(くるあーん)(せつ))が、かれに読誦(どくしょう)された(とき),かれは,「(むかし)物語(ものがたり)だ。」と言う(いう)断じて(だんじて)そうではない、かれらの行った(おこなった)(あく)(ぎょう)の)(こと)が,かれらの(こころ)染色(せんしょく)しているのである。いや,(まこと)にかれらは,その(ひ)(しゅ)(を眺め(ながめ)られる恩恵(おんけい))から締め出される(しめだされる)のです((解説1))(つぎ)にかれらは,地獄(じごく)に入れられるのです。きっと焼かれよう(やかれよう)。そこで,かれらに,「これが,あなたがたが否定(ひてい)していたことである。」と告げられる(つげられる)のです。

(解説1):審判(しんぱん)(ひ)天国(てんごく)一番(いちばん)至福(しふく)恩恵(おんけい)思われて(おもわれて)いるのは万有(ばんゆう)(しゅ)アッラー(あっらー)、を眺める(ながめる)機会(きかい)のことです。そういう機会(きかい)罪人(つみびと)たちにはないのです。

[18-28]:断じて(だんじて)(審判(しんぱん)の(ひ)を否定(ひてい)するのは)そうでもないのです。信心(しんじん)深い(ぶかい)高潔(こうけつ)な(もの)の記録(きろく)は,高位(こうい)(もの)たちの事務所(じむしょ)(なか)に(保管(ほかん)して)あるのです。高位(こうい)(もの)たちの事務所(じむしょ)がなんであるのか、あなたは何を分かるのですか。(そこには完全(かんぜん)に)書かれた(かかれた)(ぜん)行者(こうしゃ)行い(おこない)の)一つ(ひとつ)記録(きろく)が((しゅ)の)側近者(そっきんしゃ)天使(てんし))たちが、 大事(だいじ)監視(かんし)しているのです。(まこと)に信心深い(ぶかい)高潔(こうけつ)(もの)は,必ず(かならず)至福(しふく)(なか)におり,かれらは寝床(ねどこ)寄って(よって)見渡す(みわたす)であろう。あなたはかれらの(かお)至福(しふく)輝き(かがやき)感じる(かんじる)でしょう。かれらは,封印(ふういん)された純良(じゅんりょう)(さけ)注がれる(そそがれる)。その封印(ふういん)ジャコウ(じゃこう)である。これを求め(もとめ)熱望(ねつぼう)する(もの)には、(ほか)より優れたい(すぐれたい)熱望(ねつぼう)があれば、そのような(至福(しふく)目標(もくひょう)として)誰よりももっともっと努力(どりょく)をするべきです。それにはタスニーム(たすにーむ)(うえ)から(した)(ほう)流れる(ながれる)特殊(とくしゅ)良い(よい)(いずみ)(みず))が混ぜられよう(まぜられよう)。 これは(特殊(とくしゅ)な)(いずみ)である、その(いずみ)の(みず)を混ぜて(まぜて)アッラー(あっらー)に)近い(ちかい)(もの)たち((ぜん)行者(こうしゃ))が(さけ)飲む(のむ)のである。

[29-36]:(まこと)に(つみ)ある(もの)たちは,信仰(しんこう)する(もの)のことを嘲笑い(あざわらい)していた。そしてかれら(信者(しんじゃ))の(そば)過ぎる(すぎる)と,互いに(たがいに)嘲笑(ちょうしょう)して)目配せ(めくばせ)家族(かぞく)(もと)帰る(かえる)(とき)、かれら(信者(しんじゃ))のこと馬鹿(ばか)にして笑い草(わらいぐさ)にしながら帰っていたのです。かれらはかれら(信者(しんじゃ))を見かける(みかける)と,「(まこと)にこれらの(もの)誤った(あやまった)(みち)辿って(たどって)いる」と言う(いう)。だがかれらは,かれら(信者(しんじゃ))の監視者(かんししゃ)として遣わされた(つかわされた)(もの)でもないのに。だがこの(ひ)は、((ぎゃく)に)信仰(しんこう)する(もの)不信者(ふしんしゃ)たちのことを笑い(わらい),かれら寝床(ねどこ)寄って(よって)不信者(ふしんじゃ)たちの哀れ(あわれ)状態(じょうたい)を)見渡す(みわたす)であろう。不信者(ふしんしゃ)たちは,自分(じぶん)行い(おこない)順当(じゅんとう)した報い(むくい)受け(うけ)たではないか?

84. Surah Inshiqaq (The Splitting)

84. 割れる(われる) (アル・インシカーク)

(解説)

名前: 一番初めの節にある言葉がこの章の名前にしている。その言葉の意味は「割れる」である。この章では空が割れるという話がある。

啓示された時期:これもメッカ市の一番初めの時期で啓示された章である。この時までまだ暴力や虐待のような酷い待遇はじめてなかった。聖クルアーンの呼びかけ(ダーワー)のことが全部嘘だといわれていた時期だった。審判の日があって、皆裁かれる、という話がメッカの市民が拒んでいた。 

内容とテーマ: この章のテーマは審判の日と来世である。

 初めの五つの節で審判の日の状況を述べられている。またそれが正しいとも立証している。

 その日には空が割れてしまう。大地が平らになる。大地の中にある死んだ人間の体の全部分と骨が外へ出してしまう。それと同時に人間がその大地の上にやったすべての所業の証拠も全部出してしまう。その中には何も残らなくなる。

 このことを立証するのに、大地と空がその御方の創造物であることを主張されている。すべとの創造物が自分の創造主に従うのが当たり前です。だから大地も空も彼の命令どおりに動く、ということです。

 そのあと第六節から第十五節まで述べているのは、人間が自分の意志があってもなくても、毎日自分の主にあうような方向へ向かって行っている。そこで人類は二つの団体に分けられてしまう。右手で自分の行いの清算書をもらう人たちが天国へ連れて行かれます。厳しい清算なしで天国へいきます。

 二番名の団体が、背中の裏から自分の所業の清算書いただきます。彼らは死にたいと望みますが、永久に死なないで地獄で焼かれる。彼らがそういう結末になる、という可能性を信じてなかったからです・

 また人間の状態が無理矢理でも変わっていくような第五節で言ったことが、第十六から第二十節までの節で立証されている。世の中にすべてのものがいつまでも同じ状態におられることがない。すべての者の状態が必ず変わっていくというような自然法則がある。人間もいつも同じ状態にいられないで、自分の意志がなくても必ずあらかじめ決まった状態()の方へ行かれる状態になることの証拠も自然のいろいろな現象からだされている。

 自然にある規則は、太陽が沈んでから夕方の薄明が来るのは間違いない事実である、また同じく、夜になってからすべての鳥や人間や生き物が帰り集うようのことも必ず起こる、という変化も事実である。同じくお月様もあまり細い状態から満月状態になる。そういう状態の変化が必ず起こるようなアッラーからのきまりがあるので、人間もまた主の方へ行かれる決まりもある。

 最後に二十一から二十五節に聖クルアーンの呼びかけを信じない無心者にひどい罰と信者に物凄い良い報いの知らせがある

84. Surah Inshiqaq (The Splitting)

84. 割れる(われる) (アル・インシカーク)

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-15]:(しゅ)の命令(めいれい)で)(てん)が裂け割れた(さけわれた)(とき),そういうふうに(しゅ)命令(めいれい)聞き(きき)(まこと)(しゅ)命令(めいれい)従う(したがう)べきものである、また((しゅ)の命令(めいれい)で)大地(だいち)が延べ広げられた(のべひろげられた)(とき),その(なか)にあるすべてのものを吐き出して(はきだして)(から)になり,そういうふうに(しゅ)御命令(みめいれい)聞き(きき)(まこと)(しゅ)命令(めいれい)従う(したがう)べきものである。おお人間(おおにんげん)よ,(まこと)にあなたは、いくらいやでも、むりやりで(しゅ)(ほう)連れて(つれて)行かれて(いかれて)いるし、また(しゅ)会う(あう)ことになるのである。その(とき)右手(みぎて)にその(現世(げんせい)行い(おこない)の)書冊(しょさつ)渡される(わたされる)(もの)の場合は,かれの計算(けいさん)は軽く容易(ようい)精算(せいさん)され,かれらは喜んで(よろこんで)自分(じぶん)人々(ひとびと)(しん)せきや家族(かぞく)(もと)帰る(かえる)であろう。だが背後(はいご)書冊(しょさつ)渡される(わたされる)(もの)場合(ばあい)は,かれは(し)求めて(もとめて)叫ぶ(さけぶ)のだが,燃える(もえる)(ほのお)焼かれよう(やかれよう)(まこと)にかれは,(現世(げんせい)で)自分(じぶん)人々(ひとびと)(しん)せきや家族(かぞく)(なか)歓楽(かんらく)していた。かれは,絶対(ぜったい)(しゅ)(もと)に)戻る(もどる)ことなどがないだろと思って(おもって)いた。いや,(戻らない(もどらない)ことは無く(なく)(しゅ)はいつもかれの悪事(あくじ)監視(かんし)していた。

[16-25]:わたしは,夕方(ゆうがた)薄明(はくめい)によって誓う(ちかう)(よる)と,また(よる)に(全て(すべて)生き物(いきもの)を)帰り集う(かえりつどう)ものにおいて,また満ちたる(みちたる)月にかけて(誓う(ちかう))。あなたがたは(同じく(おなじく)),必ず(かならず)一つ(ひとつ)状態(じょうたい)から(べつ)変わった(かわった)状態(じょうたい)にずっと進んで(すすんで)いくようになっているのであろう((解説1))それでも,かれらが信じない(しんじない)のはどういう(わけ)ですか。クルアーン(くるあーん)が,かれらに読唱(どくとなえる)されても,かれらは(頭を下げて)サジダ(さじだ)しようとはしないのか((解説2))いや,信じない(しんじない)(もの)は,(ぎゃく)に(それを)拒否(きょひ)しているのです。だがアッラー(あっらー)は,かれらは自分(じぶん)所業(しょぎょう)集めて(あつめて)いる(すべての悪事(あくじ)の)ことを全部(ぜんぶ)良く(よく)ご存じ(ごぞんじ)であるのです。それであなたは,痛烈(つうれつ)痛み(いたみ)懲罰(ちょうばつ)吉報(きっぽう)をかれらに伝えなさい(つたえなさい)。だが信仰(しんこう)して善行(ぜんこう)をなさっている方々が(べつ)である。かれらには永久(えいきゅう)絶える(たえる)ことのない報奨(ほうしょう)があるのです。

解説(かいせつ)1):大自然(だいしぜん)世界(せかい)でいろいろ変わった(かわった)状態(じょうたい)になっていると同じく(おなじく)人間(にんげん)生命(せいめい)(つぎ)から(つぎ)状態(じょうたい)変わって(かわって)いきます。(ひる)変わって(かわって)夕方(ゆうがた)薄明(はくめい)になっていることや、それがまた変わって(かわって)(よる)になって、それで大地(だいち)であちこち広がって(ひろがって)いたすべての動物(どうぶつ)人間(にんげん)戻って(もどって)帰って(かえって)くることや、暗い(くらい)(よる)変わって(かわって)満ちた(みちた)お月(おつき)さまでるく(あかるく)なったことがあるのです。こういうふうにいつも大自然にある変化(へんか)のことを証拠(しょうこ)としてだしているのは、その変化のことが必ず起こるということに対して誓う(ちかう)言う(いう)ことです。同じく(おなじく)人間(にんげん)生命(せいめい)死んだ(しんだ)からすべてが終わった(おわった)(わけ)ではありません。子供(こども)として生まれて(うまれて)若く(わかく)なったり、また年寄り(としより)になったり、それで死んだり(しんだり)するような(つぎ)から(つぎ)人間(にんげん)状態(じょうたい)大自然(だいしぜん)にある変化(へんか)同じく(おなじく)変わって(かわって)いっているのです。そういう変化(へんか)状態(じょうたい)は人間の死ぬ(しぬ)ことによって終わらない(おわらない)のです。その状態(じょうたい)からまた墓場(はかば)入る(はいる)状態(じょうたい)とそれから蘇える(よみがえる)状態(じょうたい)とそれから天国(てんごく)地獄(じごく)入る(はいる)状態(じょうたい)にもなるような変化(へんか)もありうると言う(いう)ことです。

解説(かいせつ)2):このサジダ(さじだ)説明(せつめい)のためにこの文章の初め(はじめ)出した(だした)話がもう一回(いっかい)ここで繰り返して(くりかえして)提供(ていきょう)します。

 “(せい)クラアーン(くらあーん)サイドライン(さいどらいん)ではいくつかの箇所(かしょ)サジダ(さじだ)という言葉(ことば)書けられて(かけられて)います。(せい)クラア(くらあ)(ん)読誦(どくしょう)しているときにそういう箇所(かしょ)まできた場合(ばあい)は5回の礼拝(れいはい)(とき)頭を下げて大地までもっていく動作のことがサジダといって、同じく(おなじく)サジダ(さじだ)の動作がするべきことが定められて(さだめられて)います。その偉大(いだい)御方(おかた)から授けられた(さずけられた)(もと)言葉(ことば)理解(りかい)した(うえ)にそのまま読誦(どくしょう)しているときそういう箇所(かしょ)まできたときには、なんとなく人間(にんげん)(こころ)気持ち(きもち)(かみ)(まえ)(あたま)下げて(さげて)(しゅ)のことを褒め称える(ほめたたえる)ようになります。(フセイーン ハーン (とう)大修士(だいしゅうし))“

85. Surah Al Burooj (The Constellations)

85. 星座(せいざ) (アル・ブルージュ) 

(解説)

名前:この章の一番初めの節である言葉「アルーブルジュ」がこの章の名前にしてある。

啓示された時期:この章の内容から分かるように、これが啓示されたのは、この章がメッカ市でイスラームの信者等が物凄い圧迫されて、痛い思いされて、厳しく罰せられて、この信仰がやめるようにされて、一番大変な時期のときでした。

内容とテーマ: この章のテーマは、無心者等に彼らの圧迫行為に対して警告していることです。最終的に彼らが酷い目にあうということがしらされているのです。

また逆に信者等が慰められているのです。彼らが忍耐強くこの大変な時期を乗り越えたら、神から無限な良い報いを貰えるのです。また圧迫していた人たちがその復讐を必ずうけるのです。

そのために初めに溝を掘っていた人たちの話を聞かされているのです。彼らは溝のなかに強烈な火を燃やして信者たちをその中に入れていたのです。このことを例にして、いくつか大事な話を信者等と無心者等に教えているのです。

 第一は、溝を掘った人たちが神の怒りと罰の対象なったと同じく、メッカのリーダーたちもアッラーの怒りと罰の対象になるのです。

 第二は、信者等が火で燃えていた溝に捨てられても、自分の信仰をやめなかったと同じく、メッカ市にいる信者たちもどんなに酷い目にあっても信仰を守るべきです、ということを教えているのです。

 第三は、彼らは神を信じるのを嫌がっている。信者等同じ神、アッラー、を信じている。その御方が非常に力強く人間の全てを支配ししているのです。その全能の神に彼らが裁かれて、酷い結末の対象になるのです。また逆に信者等物が凄い良い報いを天国でうけるのです。

 もし彼らが、自分たちの軍勢の力で威張っているならば、彼らより理歴史上でもっと力強い軍勢のある民もあった。だが、ファロアーとサムードの民と同じく皆が神によって滅ぼされたのです。

85. Surah Al Burooj (The Constellations)

85. 星座(せいざ) (アル・ブルージュ) 

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

[1-9]:強い(つよい)(とりで)(諸星座(しょせいざ))のある(てん)において、約束(やくそく)された(審判(しんぱん)の)(ひ)において,眺める(ながめる)(もの)審判(しんぱん)(ひ)参列(さんれつ)する(もの))と,眺められる(ながめられる)(もの)(審判(しんぱん)(ひ)事態(じたい))において(誓う(ちかう))。破滅(はめつ)された(どぶ)掘った(ほった)(ひと)たちが、(その(どぶ)には)(ひ)を強烈(きょうれつ)燃えて(もえて)いる燃料(ねんりょう)によって燃やされて(もやされて)いた。見よ(みよ)、かれらはその(そば)座り(すわり)信者(しんじゃ)対して(たいして)かれらが行った(おこなった)こと(信者(しんじゃ)をその燃える(もえる)(ひ)入れた(いれた)こと)を目撃(もくげき)していた。かれらが信者(しんじゃ)対して(たいして)敵意(てきい)もっていたのは信者(しんじゃ)たちが、偉力(いりょく)ある御方(おかた)自己(じこ)讃美(さんび)値される(あたいされる)べき御方(おかた)アッラー(あっらー)信仰(しんこう)したために(ほか)ならない。その[御方が](てん)(ち)権力者(けんりょくしゃ)であり、アッラー(あっらー)凡て(すべて)のことの観察者(かんさつしゃ)であられる。

[10-11]:(まこと)に信仰(しんこう)する(おとこ)(おんな)迫害(はくがい)して,それから悔い改める(くいあらためる)ことをしなかった(もの)には地獄(じごく)懲罰(ちょうばつ)があり,また(その(うえ)に)かれらには(特別(とくべつ)の)(えん)(ひ)懲罰(ちょうばつ)もあろう。

断じて(だんじて)信仰(しんこう)して善行(ぜんこう)をなさっていた方々には,(かわ)がその(した)流れる(ながれる)楽園(らくえん)があろう。これは偉大(いだい)幸福(こうふく)成就(じょうじゅ)である。

[12-22]:(まこと)にあなたの(しゅ)捕え方(とらえかた)懲罰(ちょうばつ))は物凄く(ものすごく)強烈(きょうれつ)である。第一回目(だいいっかいめ)にあなたを創造(そうぞう)したのもかれ((しゅ))であり、またそれを(来世(らいせ)で)二回目(にかいめ)にもあなたがたを蘇える(よみがえる)のもその御方(おかた)である。かれは,寛容(かんよう)で(あなたがたの)(つみ)許す(ゆるす)御方(おかた)でもあれば、また(あなたがとを)凄く(すごく)愛して(あいして)いる(かた)でもある。栄光(えいこう)満ちた(みちた)至高(しこう)玉座(ぎょくざ)(しゅ)。かれは自分(じぶん)(なん)でもやりたいことが,(自分(じぶん)自身(じしん)思い(おもい)道理(どうり)に)遂行(すいこう)なされる。

 あなたには軍勢(ぐんぜい)物語(ものがたり)達した(たっした)か,フィルアウン(ふぃるあうん)サムード(さむーど)(の(たみ)の)。いや,信じない(しんじない)(もの)は((かみ)教え(おしえ)を)拒んで(こばんで)いる。だがアッラー(あっらー)は,背後(はいご)からかれらをとり囲まれて(かこまれて)いる。いやこれは,栄光(えいこう)満ちた(みちた)クルアーン(くるあーん)で,(元々(もともと)守護(しゅご)された碑板(ひいた)に(銘記(めいき)されていたのである)

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86. Surah Al Tariq (The Morning Star)

86. (よる)訪れる(おとずれる)もの (アッターリク)

(解説)

名前:第一節にある言葉「アッターリク」がこの章の名前としてつかわれている。

内容とテーマ: この章で二つのテーマがある。第一は、人間が死んでから終わりじゃなくて、もう一度現世と同じように復活されて、主の前に自分の現世のすべての行いの清算をしなければいけないことがある、ということです。その第二は、聖クルアーンで言っているすべてのことは間違えなく確実に決まりきったことである。それを無心者たちは、いくらだめにしようと思っても出来ないでしょう、ということです。

第一テーマ: 一番初めに空に星の存在を証拠として出して、だれが管理するお方がなかったら、どんな星も存在もしないし、また自分の決まった場所でいられない、ということを述べている。

 それから、人間自身の存在の方へ注目を引いている。そのお方、アッラー、は、精液のただ一滴からそんなに元気よく活発に動くような、学問を得ることもできる、知恵のある人間が創造したじゃないか?

 そういうふうに一度無から存在された人間がもう一度復活させることが、その御方はできないのか?

 そういうふうに復活させて人間に現世でやった行いの報いや罰をあげるべきではないか?

第二テーマ:空から雨を降らしておいて、土の中から植物や樹木が植え育てることがそう簡単なものではない。どんな科学者もそれが出来ない。こういう真剣なことをやっているお方、アッラー、は聖クルアーンで述べている全部が同じような真剣な、真面目な、真実に基づいた話である。

 だから、無心者が自分の策略によって聖クルアーンに述べられているいろいろな真実を曲げようと或は、否定しようと思っているが、彼らのそういう策略全部が失敗になるでしょう。アッラーも自分なりの秘密の策略でかれらの努力を全部無駄にするだろう。

 また最後に預言者(PBUH)を慰めて、無心者にやりたいことをやらしておいて、忍耐強く我慢するようにのべている。彼らの結末が酷く悪くなって、最終的に聖クルアーンで言っていることが真実になって証明されるでしょう。

66. Surah Al Tariq (The Morning Star)

86. (よる)訪れる(おとずれる)もの (アッターリク)

(翻訳: Translation

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-17]: (てん)と,(よる)現れる(あらわれる)(すべての)(ほし)によって(誓う(ちかう))。(よる)現れる(あらわれる)(すべての)(ほし)のことが(なに)であるかを,あなたが何を分かるのですか。(それは)きらめき輝く(かがやく)(すべての)(ほし)(のことです)。(すべての(ほし)存在(そんざい)動き(うごき)(だれ)支配人(しはいにん)のおかげであるとおなじく)、どんな者(人間(にんげん))自分(じぶん)に対しても(だれ)かが守護人(しゅごにん)として(存在(そんざい)して)ないと言う(いう)ことがあり得ない(ありえない)のです。人間(にんげん)は,どういう(もの)から創られた(つくられた)のかをちょっとそれを考察(こうさつ)して見なさい(みなさい)。かれは噴出(ふんしゅつ)する(みず)から創られ(つくられ),(それは)肋骨(ろっこつ)(こし)(あいだ)から出て(でて)くる。断じて(だんじて)、かれ((しゅ))には,かれ(人間(にんげん))を(初め(はじめ)一回(いっかい)創造(そうぞう)したようにまた二回(にかい)にも)蘇える(よみがえる)ことが簡単(かんたん)可能(かのう)である。(その時は)隠された(かくされた)(すべての所業(しょぎょう))ことが暴露(ばくろ)され、評価(ひょうか)される(ひ)で,(人間(にんげん)はその(ひ)には)自分(じぶん)自身(じしん)(なん)(ちから)もまったくなく,(だれ)かの助け(たすけ)得られない(えられない)のです。(回転(かいてん)して)返る(かえる)(てん)(何回(なんかい)(あめ)降る(ふる)ような機構(きこう)のこと)によって、裂け割れる(さけわれる)大地(だいち)(植物(しょくぶつ)出来る(できる)ような機構(きこう)のこと)によって(誓う(ちかう))。(植物(しょくぶつ)固い(かたい)大地(だいち)から裂け(さけ)われて出て(でて)くる(れい)同じく(おなじく))(まこと)に、これが(人類(じんるい)復活(ふっかつ)(よみが)えられのことに対して(たいして))確実(かくじつ)真実(しんじつ)御言葉(みことば)であり,それはあざ(わらい)されるような(はなし)ではない。(まこと)にかれらは((せい)クルアーン(くるあーん)教え(おしえ)(ひろ)がらないように)陰謀(いんぼう)企んで(たくらんで)いる。われも((ぎゃく)彼ら(かれら)対して(たいして))また策謀(さくぼう)をめぐらす。だから(お預言者(およげんしゃ)よ!)不信者(ふしんしゃ)たちをほっておけ,暫く(しばらく)かれらをそのままにほっておきなさい。(それで自分(じぶん)自身(じしん)最終的(さいしゅうてき)悪い(わるい)結末(けつまつ)懲罰(ちょうばつ)遭う(あう)だろう)。

 

 

87. Surah Al Ala (The Most High)

87. 至高者(しこうしゃ) (アル・アアラー)

(解説)

名前:一番初めの節にある言葉「アル・アアラー」がこの章の名前にしてある。

啓示された時期:この章もメッカ市で一番初めの時期で啓示されてます。この時預言者モハッマド(PBUH)が啓示された神の基の言葉を忘れないように心配していた。それでアッラーはこういうことが心配しないように、神がそれを覚えさせる、という安心感をこの章で与えている。

テーマと内容この短い章で三つの内容を入っている。それは、神の唯一性と預言者(pbuh)にいろいろ訓令と来世のことです。

 一番初めの節で神の唯一性の考えが一つの節でまとめている。それはアッラーの名前がいつも正しく念じる、ということです。アッラーの名前を念じるとき、どんな欠点や弱点や短所や過失や誤りや欠損やウィークポイントがないような内容のことが必ず注意するべきです。神に対していろいろな間違いの考え方によって、あらゆる悪い信仰が生まれているからです。神の存在のことが人類の大分が信じているが、その神に対していろいろな間違いな考え方が持っている。それで宗教も生活の仕方も、道徳の善悪の基準も変わってきている.

聖クランではアッラーの名前は、慈悲深いとか、全能の神とか、凄い知恵のあるお方とか、というようないろいろな全部の総数は99である。

 また次の四つの節でも、その全能の神の存在と唯一性に対してもっと論拠の例が出している。そのお方の力と知恵がなかったら誰が次の4節で述べていることができるのか?

「かれは(宇宙とそれにあるすべてのものを)創造(そうぞう)し,またそれを整え(ととのえ)調和(ちょうわ)させる御方(おかた),またかれは,(すべての創造物(そうぞうぶつ))運命(うんめい)定めて(さだめて)、それの(やるべき役目のことも)ずっと導き(みちびき)もしている。(その御方(おかた)は)植物(しょくぶつ)引き起こして(ひきおこして)それをずっと育てる(そだてる)。またそれから,浅黒く(あさぐろく)枯れた(かれた)(かり)(かぶ)にもなされる。」そのお方以外に誰も春の季節を生み出すこともできないし、また秋を止めることもできない。

初めの五つの節で神の存在と唯一性の話の後は、次の八つの節で預言者(pbuh)に訓令出している。それの中の初めの二つの節で、啓示されている聖クルアーンが全部そのままどいうふうに覚えるば良いのかのことを心配しないように、と言われている。アッラーがそれを覚えさせる。それがアッラーの慈悲のおかげでできるものであって、自分の力だけでは無理なことです。

イスラームの初めから今まで15世紀の間には、各時代でまた今までも、いつでも何千人のハフィズの方々がイスラームのすべての国々で存在していた。ハフィズというのは聖クルアーンがそのもとのままで暗記している方々のことです。またそういうハフィズの方々が毎年断食の月ラマダーンで毎晩それを団体礼拝の時に30部で分けて全部の聖クラーアンが、印刷された所を見ないで自分が暗記していた記憶力から思い出して、毎晩団体礼拝のイマームさんとして暗唱している。こういうふうにして聖クルアーンの中にアッラーは、この現世が終わるまで永久に、聖クルアーンをもとのままに残すという確約している。

 

 

 

87. Surah Al Ala (The Most High)

87. 至高者(しこうしゃ) (アル・アアラー)

(翻訳)

 

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-5]:至高(しこう)の御方(おかた),あなたの(しゅ)御名(みな)賛美(さんび)しなさい。かれは(宇宙とそれにあるすべてのものを)創造(そうぞう)し,整え(ととのえ)調和(ちょうわ)させる御方(おかた),またかれは,(すべての創造物(そうぞうぶつ))運命(うんめい)定めて(さだめて)、それの(やるべき役目のことも)ずっと導き(みちびき)もしている。(その御方(おかた)は)植物(しょくぶつ)引き起こして(ひきおこして)それをずっと育てる(そだてる)。またそれから,浅黒く(あさぐろく)枯れた(かれた)(かり)(かぶ)にもなされる。

[6-7]:われは,あなたに((せい)クルアーン(くるあーん)を)読誦(どくしょう)させるようにした。それであなたは忘れない(わすれない)であろう、アッラー(あっらー)御望み(みのぞみ)がない限り(かぎり)は。(まこと)にかれは,表われた(あらわれた)ものと)隠れた(かくれた)ものも全部知って(しって)おられる((解説1))

解説(かいせつ)1:暗記(あんき)した(せい)クルアーン(くるあーん)一部(いちぶ)忘れる(わすれる)かもしれないというあなたとの隠れた(かくれた)畏れ(おそれ)のこともかれ((しゅ))は良く(よく)知って(しって)いるので、そういう隠れた(かくれた)畏れ(おそれ)のことを心配(しんぱい)しないようにと言う(いう)意味(いみ)含まれて(ふくまれて)いるのです。)

[8-13]:われはあなたに(ダーワ(だーわ)(かみ)教え(おしえ)広げる(ひろげる)(みち)興味(きょうみ)ある(ひと)だけにダーワ(だーわ)するようにしておいて)平坦(へいたん)で,安易(あんい)にしているのであろう。だから訓戒(くんかい)しなさい。訓戒(くんかい)は(聞く(きく)(もの)に)役立つ(やくだつ)であろう。訓戒(くんかい)は,(しゅ)畏れる(おそれる)(もの)受け入れられよう(うけいれられよう)。だが,それ(訓戒(くんかい))を拒む(こばむ)のは最も(もっとも)不幸(ふこう)(もの)で、巨大(きょだい)(ほのお)焼かれよう(やかれよう)。その(なか)では,(し)もないし,生きる(いきる)こともない。

[14-19]:断じて(だんじて)、必ず(かならず)至福(しふく)になったのは自ら(みずから)清めた(きよめた)り、(しゅ)御名(みな)唱えたり(となえたり),(5回(5かい)の)礼拝(れいはい)を守ったりしていた者が。だが,あなたがたは(残念(ざんねん)ながら)むしろ現世(げんせ)生活(せいかつ)(だけ)を好んで(このんで)いる、来世(らいせ)がもっと優れ(すぐれ),またもっと永遠(えいえん)なものであるのに。このことは間違えなく(まちがえなく)きっと,(むかし)(けい)(てん)にもあれば,またイブラーヒーム(いぶらーひーむ)ムーサー(むーさー)(けい)(てん)にもある。

88. Surah Al Ghashiya (The Overwhelming Event)

88. 圧倒的(あっとうてき)事態(じたい) (アル・ガーシヤ)

(解説)

名前:一番初めの節にある言葉「アル・ガーシヤ」がこの章の名前にしてある。

啓示された時期:この章もメッカ市で一番初めの時期で啓示されてます。この時預言者モハッマド(PBUH)が堂々とイスラームの宣言を初めていたが、周りの人皆それを無視していた。

テーマと内容この章のテーマを分かるために年頭に入れておくべきことが一つある。それは預言者モハッマド(pbuh)は初めの時期で、一番強調していたのが神の唯一性と来世の信仰のことでした。けれどもメッカ市の住民はそういう話を受け入れるのが拒否していた。この背景を分かって上でこの章のテーマとそれの運び方をご覧ください。

 まず軽率で用心しないどんちゃくの人々の目を覚ませるために、いきなり世界中を含めるような大変な災難のことを知らされている。その時人類が二つの団体で分けられる。一つの団体が地獄へ連れて行かれる、もう一つの方が天国へ連れて行かれる。それから地獄の苦しみと天国の安らぎのこと教えている。

 そういう状態の場合は誰でも読者が地獄を避けて自然と天国望むようになる。その条件として神の唯一性と来世の信仰が必要になる。それに対して説得するために周りのあらゆるものから論じている。アラブの砂漠でラクダのような動物がなければ、生活出来ない。車も、自転車も、馬車も、飛行機もない砂漠で、ラクダがなかったら自分の町からほかの町や都市へ行けないし、どんなものも運べないし、貿易も日常生活も楽にできない。そういう砂漠の場所で慈悲深い神、アッラー、はラクダのような動物を創造しなかったらアラブ人の生活どんなに大変だったの想像も使いない。これが唯一の神、アッラー、の存在認めるために第一の論教です。

それから周りを見ると空と大地と山をみえます。こういうものもどこからどうして存在するようになったのでしょうか?こういう周りの者がなかったら、人間がこの現世で生きていて生活出来ていたか?こういうものの存在じ大河、唯一の神、アッラー、の存在に論拠の一つになります。

こういう諭拠で神の唯一性だけではなくて、そういう力と知恵のある神、アッラー、には、来世も創造して、人間を復活して、人間の行いに基づて裁きをして、永遠にそれの報いや罰を与えるために天国と地獄創造する力と知恵がないのか?

それからこの章で預言者モハッマド(pbuh)に向かって、アッラーは一つ訓戒している。それは、あなたの義務は人に教えるだけで終わりになる。そのあと人々はそれを聞くか、認めるかないか、それがあなたの責任でないない。最終的に人間が皆自分の方に来世で戻るから、その時アッラーが正義を行って皆のことを裁く。その時誰もこういう裁きをなるのが知らなかったの言訳できない。あなたとして彼らに知らせる義務がずいぶんはたしたのですから。

88. Surah Al Ghashiya (The Overwhelming Event)

88. 圧倒的(あっとうてき)事態(じたい) (アル・ガーシヤ)

(翻訳)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-16]: (全人類(ぜんじんるい)の復活(ふっかつ)の時) 災難(さいなん)を覆う(おおう)ことの知らせが,あなたに達した(たっした)か。(或る(ある)(もの)の)(かお)はその(ひ)恐怖(きょうふ)襲われて(おそわれて)骨折り(ほねおり)労苦(ろうく)疲れ切って(つかれきって)燃えさかる(もえさかる)(ごく)(ひ)焼かれ(やかれ)煮えたぎる(にえたぎる)泉水(せんすい)飲まされる(のまされる)。かれらにはとげの多い(おおい)、乾いた(かわいた)(くさ)(ほか)に,食物(しょくもつ)はなく,太り(ふとり)もしなく、飢え(うえ)も満たさない(みたさない)。((ほか)或る(ある)(もの)たちの)(かお)は,その(ひ)喜びで満ちて(みちて), かれらは自分(じぶん)努力(どりょく)成り行き(なりゆき)歓喜(かんき)して、非常(ひじょう)にランキングの高い(たかい)楽園(らくえん)(なか)居られ(おられ)る。そこで,(いや)な、心が痛めるような(はなし)(なに)聞かず(きかず)、そこには,流れる(ながれる)(いずみ)があり,高く(たかく)上げられた(あげられた)寝床(ねどこ)があり、(美味しい(おいしい)飲み物(のみもの)一杯(いっぱい))ゴブレットが備えられ(そなえられ)(しとね)は数列(すうれつ)並べられ(ならべられ)素晴らしい(すばらしい)敷物(しきもの)敷き(しき)つめられている。

[17-20]: (こういう来世(らいせ)の可能性(かのうせい)が認めない(みとめない)ならば)かれらは骼駝(らくだ)就いて(ついて),どういうふうに創られた(つくられた)のかを考えて(かんがえて)みないのか。また(てん)就いて(ついて),どういうふうに高く(たかく)掲げられた(かかげられた)のか,また山々(やまやま)就いて(ついて),どういうふうに据え付けられて(すえつけられて)いるのか、また大地(だいち)就いて(ついて),どういうふうに広げられて(ひろげられて)いるのかを考えて(かんがえて)みないのか。解説(かいせつ)1:現世(げんせい)でこういうふうに大自然(だいしぜん)支配(しはい)関して(かんして)いろいろなことが出来る(できる)御方(おかた)来世(らいせ)では人間(にんげん)対して(たいして)報い(むくい)懲罰(ちょうばつ)出来る(できる)(ちから)がないだろうと思って(おもって)いるのか?

[21-26]: だからあなたは訓戒(くんかい)しなさい。(まこと)にあなたは一人(ひとり)訓戒者(くんかいしゃ)だけである。あなたは無理やり(むりやり)で(かれらを)強制(きょうせい)させる(かた)ではない。だが(だれ)でも,背き去って(そむきさって)信仰(しんこう)拒否(きょひ)するならば、アッラー(あっらー)最大(さいだい)懲罰(ちょうばつ)でそういう(もの)凄く(すごく)罰せる(ばっせる)のである。断じて(だんじて)、かれらは間違いなく(まちがいなく)必ず(かならず)われの(もと)帰って(かえって)来る(くる)のである。かれらの(現世(げんせい)所業(しょぎょう)の)清算(せいさん)は,きっとわれの(にん)である。

89. Surah Al Fajr (The Dawn)

89. (あかつき) (アルファジャル)

(解説)

名前:この章の一番初めの言葉アル・ファジャルをこの章の名前にしてある。

啓示のじき:メッカ市でイスラームの信者に対して残虐が始まった時にこの章が啓示された。過去の無心者のアードとサムドとファロアと言う民族にあった罰当たりのことを教えて、メッカ市の人々に同じく罰当たりの対象にならないように戒められています。

テーマと内容:この章のテーマは、メッカ市の住民が否定していた来世のこととそこで確かに報いと罰がある、という事実のことを立証するのである。このためにどういう順序で説得されているのか、それを同じ順序でこれから述べます。

 まずこの章の初めの五つ節の意味を考えて下さい。そこで書かれていることを先に考慮してください。

[1-5](あかつき)において、十夜(じゅうや)(ごとの変化(へんか))において、偶数(ぐうすう)と奇数(きすう)(として1か月(1かげつ)のすべての日にち(ひにち))において、去り行く(さりいく)(よる)において(誓う(ちかう))。(まこと)にこのいろいろなこと(宇宙(うちゅう)に存在(そんざい)している秩序(ちつじょ)の証拠(しょうこ))以外(いがい)に、知恵のある(もの)にまた(べつ)の誓い(ちかい)が(証拠(しょうこ)として)必要(ひつよう)なのか?」。このことで宇宙にある秩序が立証される。宇宙に存在している秩序の証拠他にも沢山存在しています。その中から一部をこの五つの節で例えとして出している。

 そういう力と知恵のある唯一の神、アッラー、が来世を創造することが出来ないのか?そういう神の知恵は、人間の行いに対して永遠の報いや罰当たりするのが必要と思わないのか?

 次は、昔の歴史からアードとサムドとファロアーという民族が罰当たりされた、という事実が教訓として出せれています。ヨロッパの国々と日本も支配していた植民地が全部駄目になりました。それも帝国主義者の国々に神からの罰当たりと言えます。

 何百間の歴史でも同じ事実がいつも見えます。こういう事実からどういう教訓が勉強になりますか?それは人間の世界も滅茶苦茶に動いてないということです。力と知恵に溢れている5神、アッラー、によって管理と支配されていることを立証されます。

 またその神、アッラーは、いつまでも悪いことをやり続くのが許さないで、正義を行って、こういう国家や国民のことを現世でも来世でも罰当たりの対象にします。そういう神が存在していて、正義を行うために現世だけではなくて、来世も創造して人間に報いや罰を与える、ということが立証されます。

 この章の最後の部分に人間の物質的な考え方を批判されています。あの時のアラブ社会でもこの考え方を流行っていた。けっきょくこの考え方をもっている人たちには、来世と来世で報いや罰の考え方を認めたくないのは常識になります。イスラームでは、人間の評価が彼の道徳でされてますが、物質的な考え方持っている社会では、金持ちか貧乏化のことを基準にしてます。聖クルアーンで、まあこの章では金持ちにはアッラーの慈悲があって、貧乏の方がアッラーに罰せられている、という考えが否定されています。両方の状態で人間はアッラーに試みられている。金持ちの時も、貧乏の時も人間はどういう行いするのか?道徳の面で悪の道へ走るのか或は善の方向へいくのか?イスラームでは人間の最終的な始末は、金ではなくて、行いや道徳の水準で決まることになっている。

 その時のアラブ社会のもう一つ悪いことは、父が死んだ父親のいない子供たちの財産が無理矢理でとってしまう慣習だった。困った人を助けるよりももっと困されすることをこの章で批判されています。

それほど貪欲に金を求め人たちがそのアラブの社会で平気でいられていた。そう悪い方々がこの現世で罰せられないでいる。だから、こういう一つの例で分かるように、来世の必要性が正義の場としてあきらかになる。

こういうふうにあらゆる方法で、この章で来世とそちらの報いや罰の存在とそれの必要性のことを出張されています。

 

 

89. Surah Al Fajr (The Dawn)

89. (あかつき) (アルファジャル)

(翻訳)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))

[1-5](あかつき)において、十夜(じゅうや)(ごとの変化(へんか))において、偶数(ぐうすう)と奇数(きすう)(として1か月(1かげつ)のすべての日にち(ひにち))において、去り行く(さりいく)(よる)において(誓う(ちかう))。(まこと)にこのいろいろなこと(宇宙(うちゅう)に存在(そんざい)している秩序(ちつじょ)の証拠(しょうこ))以外(いがい)に、知恵のある(もの)にまた(べつ)の誓い(ちかい)が(証拠(しょうこ)として)必要(ひつよう)なのか?

[6-14] あなたはアッラー(あっらー)が、どういうふうに長い(ながい)円柱(えんちゅう)を並び立つ(ならびたつ)ことをやるイラム(いらむ)という(まち)にいたアード(あーど)(の(たみ))を処分(しょぶん)したのかを見て(みて)いないのか。これに類する(るいする)(みん)は世界(せかい)のどの(くに)にも創造(そうぞう)されたことがなかったではないか。また谷間(たにま)の(いわ)に彫り込んで(ほりこんで)いたサムード(さむーど)(の(たみ))や、(くい)の持ち主フィルアウン(ふぃるあうん)[([)(おう)のことを考えない(かんがえない)のか]彼ら(かれら)は世界のあらゆる国々(くにぐに)で(ほう)を超えて(こえて)過剰(かじょう)の(はん)を起こした(おこした)(もの)たちで、そのほかに邪悪(じゃあく)を増長(ぞうちょう)させた。それであなたの(しゅ)は、懲罰(ちょうばつ)の(むち)をかれらに浴びせた(あびせた)。誠にあなたの(しゅ)は(こういう(もの)たちに対して(たいして)いつも)待ち伏せて(まちぶせて)おられているのです。

[15-26]さて人間(にんげん)は(来世(らいせ)のことを無視(むし)して、現世(げんせ)だけ中心(ちゅうしん)で物質的な生き方をしているので)(しゅ)御試み(おこころみ)のため,寛大(かんだい)にされ恵み(めぐみ)授けられる(さずけられる)と,かれは,「(しゅ)は,わたしに寛大(かんだい)であられます。」と言う(いう)。だが、かれを試み(こころみ)御恵み(おめぐみ)減らされる(へらされる)(とき)は,「(しゅ)はわたしを恥辱(ちじょく)した、」と(いう無感謝のことを)言う(いう)

 断じて(だんじて)いけない。いや,あなたがたは孤児(こじ)大切(たいせつ)にしない。また貧者(ひんじゃ)養う(やしなう)ために,互いに(たがいに)励まさない(はげまさない)。しかもあなたがたは、貪欲(どんよく)にひとの全部(ぜんぶ)の遺産(いさん)をむさぼります。またあなたがたは,法外(ほうがい)蓄財(ちくざい)夢中(むちゅう)になっている。

(この生き方(いきかた)は)断じて(だんじて)いけない。大地(だいち)粉々(こなごな)砕かれる(くだかれる)(じ)(しゅ)は,(れつ)また(れつ)天使(てんし)並べて(ならべて)立って(たって)いる状態(じょうたい)で,来臨(らいりん)なされる。また地獄(じごく)は,その(ひ)目の当たり(まのあたり)に)運ばれ(はこばれ),その(ひ)人間(にんげん)反省(はんせい)するであろう。だがその(とき)反省(はんせい)(なん)(やく)立つ(たつ)でしょうか?かれは,「ああ,わたしの(来世(らいせ))の生命(せいめい)のために,(善行(ぜんこう)を)貯えて(たくわえて)いたならば。」と言う(いう)。それでその(ひ)(そういう者が),(だれ)なし得ない(なしえない)(ほど)懲罰(ちょうばつ)加えられ(くわえられ),また(だれ)拘束(こうそく)し得ない(しえない)(ほど)束縛(そくばく)なされる。

[27-30]善行(ぜんこう)積んだ(つんだ)(ほう)言われる(いわれる)であろう。)おお,安心(あんしん)大悟(だいご)している(ほう)よ,あなたの(しゅ)返れ(かえれ),(自分(じぶん)最終的(さいしゅうてき)良い(よい)結末(けつまつ)で)歓喜(かんき)し、またあなたは(おも)良い(よい)(め)見られて(みられて)いるので喜びなさい(よろこびなさい)。あなたは,わが(愛する(あいする))しもべたちの仲間として入れ(はいれ)。あなたは,わが永遠(えいえん)楽園(らくえん)入れ(はいれ)

90. Surah Al Balad (The City)

90(まち)(アル・バラド

(解説)

名前この章の一番初めの節で使われいる言葉がこれの名前にしています。

啓示されて時期:これはメッカの市一番初めの時期であらわれた章です。特に、預言者(PBUH)にたいしてどんな圧迫でも、どんな残虐な行為でも構わないと思われた時期で、この章が啓示された。

テーマと内容:これのテーマでは、現世のなかで人間の立場と人間のためにこの現世の役割を短い文章でおしえてます。また神が人間に善導と悪徳両方の道を明らかにしています。この両方のことが良く分かった上で、どちらにも走れるような手段もあたえています。それで、人間がどちらかの道を選択して、それで努力しながら走っていくのです。その選択と努力の結果も別々に出ます。それは人間の幸せや不幸の原因になります。

初めに、神から定められた預言者(PBUH)であっても、何をするにも努力して、それの苦労の道を通るべき義務から除外されてない、ということを述べています。メッカ市でかれが圧迫されたり、残虐されていたということがそれの証拠としてだしています。

それから人間の努力と苦労だけで物事決まるではなくて、神の意志が決定権持っている、ということを教えています。

それから人間の道徳面で落ちているいろいろな考えの間違いを指摘しています。例えば、金持ちの方に無駄に金を使って凄い威張る癖がある。そういうことを批判されています。威張るためにお金を使わないで、貧乏人や親のない子供たちや困っている人を助けるために使うべきだ、ということを教えています。

それと社会の道徳水準を上げるために努力するべきことを教えてます。平和な、正義に基づいた社会を創るために頑張れ場、神の慈悲によって、人間が悪の谷から上って善の方へ進んで現世でも、来世でも幸せになります。

90. Surah Al Balad (The City)

90(まち)(アル・バラド)

(翻訳)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

(1~2): いや、われはこの(まち)メッカ(めっか))において誓う(ちかう)。この((れき)史上(しじょう)平和(へいわ))(まち)では、あなたに(たいし)すべての(悪い(わるい)行為(こうい)(いじめるなどを含めて(ふくめて))は合法的(ごうほうてき)行為(こうい)となされています。

(2~10): (人類(じんるい)の)お父さん(おとうさん)アーダム(あーだむ))とかれに生まれた(うまれた)すべての子供(こども)たち(全人類)にかけて(誓う(ちかう))。まことにわれは、人間(にんげん)労苦(ろうく)するように創った(つくった)。かれ(人間(にんげん))は,(なに)ものも,自分(じぶん)捕まえる(つかまえる)ような(ちから)をもってないだろうと思って(おもって)いるのか。

 かれは(威張っていて),「わたしは大変(たいへん)財産(ざいさん)平気(へいき)で(悪事(あくじ)のために)むだづかいしてしまった。」と言う(いう)。かれは,(だれ)もかれ(の無駄使い(むだづかい))を監視(かんし)していないと思って(おもって)いるのか。われは,かれに(観察(かんさつ)できるよう)両目(りょうめ)創った(つくった)ではないか,また一つ(ひとつ)(した)二つ(ふたつ)(くちびる)を。更に(さらに)邪悪(じゃあく)善行(ぜんこう)分かる(わかる)ように)二つ(ふたつ)(みち)をかれに分かるように示した(しめした)(ではないか)。

(11~16):だがかれは,険しい(けわしい)(みち)取ろう(とろう)という覚悟(かくご)をしなかった。険しい(けわしい)(みち)(なに)であるかを,あなたはそれが分かる(わかる)のか。(それは)奴隷(どれい)解放(かいほう)し,または飢餓(きが)(ひ)食物(しょくもつ)出し(だし)近い(ちかい)縁者(えんじゃ)孤児(こじ)と,または酷く(ひどく)哀れ(あわれ)貧者(ひんじゃ)養う(やしなう)こと(がその険しい(けわしい)(みち)です)。

(17~20):それから信仰(しんこう)する(ひと)たちの仲間(なかま)になって、忍耐(にんたい)(かみ)創造物(そうぞうぶつ)情け(なさけ)をかけるために互いに(たがいに)親切(しんせつ)励ましあう(はげましあう)ことです。これらは右手(みぎて)仲間(なかま)である。だがわが啓示(けいじ)した教え(おしえ)拒否(きょひ)する(もの),かれらは左手(ひだりて)仲間(なかま)である。かれらの(うえ)には,業火(ごうか)覆い被さる(おおいかぶさる)のであろう。

91(1). Sura(Sura) As(As) Shams(Shams) (The(The) Sun(Sun))

91. 太陽(たいよう) (アッシャムス) 

なまえ:この章の一番初めに使われている言葉「アッシャムス」をこの章の名前になっている。

啓示の時期:この章の内容と表現の方法からみると、この章がメッカの初めの時期で、イスラームに対して反対と虐めが一番最高になっていた時に啓示されたように見えます。

内容とテーマ:この章のテーマは善と悪の違いを説明して、この違いを無視して悪の道へ走る人たちの悪い結末を指摘して、そういう結末の激しい結果から恐れるように、と言うことです。

 内容からみると、この章は2部に分かれています。第一部が初めの10節の中に含まれています。第二部は11節から終わりまでの部分のことです。

 第一部には、三つの事を教えているのです。そのだいいちは、太陽とお月様や、昼と夜や、天と大地があらゆる意味で徹底的にお互いの反対であることを示しているのです。同じく、善と悪もあらゆるいみでお互いのはんたいで、それらの結末もお互いの反対になるのです。

 その第二は、アッラーは人間に体と頭と認識と第六感のようないろいろな能力と自然と感じるような認識も与えています。人間に善と悪のことを自分自身である程度自然に分かるような認識も与えられています。それは良心とも言える。自分自身の良心によってある程度自分自身が善と悪を判断できる能力も人間に与えられています。

 その第三は、人間の最終的な結末は、彼が自分自身もっているいろいろ能力によって自分自身を清めるか、どうか、によって決まる、と言うことです。彼を善や悪の方へ引っ張っていく内部の力があります。彼はどれを抑えて、どれを育てるか、善の方へ行くか或いは悪の方へ傾くか、それによって彼の最終的な結末きまるのです。

 この章の節第十一から終わるまでの第二部には、

 

91(1). Sura(Sura) As(As) Shams(Shams) (The(The) Sun(Sun))

91. 太陽(たいよう) (アッシャムス) の邦訳

 

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

(1~10):太陽(たいよう)とその輝き(かがやき)において,それに(あと)追う(おう)(つき)において,(太陽(たいよう)が)輝き現わす(かがやきあらわす)(ひる)において,それを覆う(おおう)(よる)において,(てん)と,それを打ち建てた(うちたてた)御方(おかた)において,大地(だいち)と,それを広げた(ひろげた)御方(おかた)において、人間 自身(じしん)と,かれを釣合い(つりあい)よく整然(せいぜん)として(ととの)いてくれた御方(おかた)において(誓う)、また人間(にんげん)邪悪(じゃあく)信心(しんじん)就いて(ついて)霊感(れいかん)を吹き込んで(ふきこんで)くれた御方(おかた)において(誓う(ちかう))。だんじて、人間(にんげん)が自分(じぶん)自身(じしん)清めれば(きよめれば)成功(せいこう)し、汚す(よごす)場合(ばあい)滅びる(ほろびる)

11~15):サムード(さむーど)(の(たみ))は,その法外(ほうがい)行い(おこない)によって(アッラー(あっらー)命令(めいれい)を)拒んだ(こばんだ)。かれらの(なか)最も(もっとも)邪悪(じゃあく)(もの)が(不信心(ふしんじん)のため)立ち上がった(たちあがった)(とき)アッラー(あっらー)御使い(みつかい)サーリフ(さーりふ))はかれらに「これがアッラー(あっらー)雌骼駝(めすラクダ)である。それに(みず)飲ませなさい(のませなさい)。」と(アッラー(あっらー)命令(めいれい)を)伝えた(つたえた)。だがかれらは,かれの警告(けいこく)(うそ)だといって、その(めす)ラクダ(らくだ)殺して(ころして)しまった。それで(しゅ)は,その[([)(かみ)命令(めいれい)を拒んだことの](つみ)のためにかれらをA滅ぼし(ほろぼし)平らげられた(たいらげられた)。また主には、この厳しい(きびしい)行為(こうい)対して(たいして)なにか復讐(ふくしゅう)されるかな、というような(なん)畏れ(おそれ)もあり得ないのです。

92. Sura Al Lail (The Night)

92. (よる) (アッ・ライル)

なまえ:この章の一番初めの言葉「アッライル」から出ている。

啓示された時期:この章とこの前の章「アッシャムス」両方で同じ内容の事が別々の方法で教えられている。あまりにも両方が似ているから両方がお互いの解説のように見える。だから、両方ともメッカで同じ時期に啓示されたと思われています。

内容とテマ―:これのテマ―は人間の生き方の二つの方法の違いとそれの結末の違いを教えられているのです。この内容が二つの部分に分かれられています。第一部は初めから第十一節まで、第二部は第十二節から終わりまでにあるのです。

 第一部で教えられている内容は人間が個人的や民族的や団体的やっているいろいろな行いは、道徳の面とそれの結果の面からみれば、夜と昼や雄と雌の違い程大きく分かられているのです。その後聖クルアーンでは、短い章の正常の表現の仕方と同じく、人間の幅広い行いの中から、三つの道徳面の特徴を見本とし挙げて、それの違いと、それらの結末の違いを教えているのです。この両方のことを見て、誰でも、この両方がどういうふうな生き方を代表しているのか、を簡単に分かるのです。この両方の見本が短い文章で、分かりやすく、人間の心を強く訴えるようになっているのです。

 道徳の第一種類の三つの特徴は、自分の財を寄付することと、自制心を行って、自分の利害関係を忘れて人に優しくすることと、善行のことが善行として認めることです。またそれの反対に、道徳の第二種類の三つの特徴は、金を寄付しないで、逆にけちけちすることと、神の怒りや喜びの事を無視した悪い行いを平気でやることと、善行を善行として認めないことです。

 この両方の道徳の特徴がお互いに反対であるから、これらの結末も大分違ってでます。第一種類の道徳を持つ人には神は、現世の生活の大変さを楽にして、幸せにしてくれる。それで、そういう方には、善行の行いするのが簡単で、良いになさって、悪行の方へ走るのが難しくしてくれる。逆の三つの道徳の特徴を持つ人にはアッラーは、現世の生活を難しくして、不幸になるように罰当たりの対象にしますし、またこういう方を悪行で楽しむようにして、善行の道に方へ走るのが難しくしてくれる。

 またこの話は心に矢を放つように一つの文書で終わっている。それは、人は自分の人生で、一生を財を集めるために過ごしたが、それを自分のお墓に持っていけないし、またそれを自分を死んでから何の役にもたたないではないか?

 この章の第二部にはまた別の三つの事実のことを教えられています。それの第一は、神は人間にこの現世の一時的な試みの人生で成功して幸せになる道を明らかにしていることです。いろいろ生活の仕方の中で、どれが一番正いなのか、それをアッラーがはっきりと教えているのです。そのために自分から送られた預言者と聖クルアーンによって、神は人類の導きの責任を果たしている。

 第二の事実を教えられているのは、現世と来世両方のオーナーがアッラーであると言うことです。現世で自分の幸せの為に何か要求する者があれば、それを与えるのもアッラーであるし、また来世の幸福のために何か要求することがあれば、それも与えてくれるのもアッラーだけです。だから人間が何を欲しいなのかそれを人間自身が決めるべきことです。

第三の事実を教えられているのは、預言者と聖クルアーンで教えられている善行を否定して、それで背を向ける人は一番運の悪い人で、業火に永久に入るものになります。逆にアッラーの命令を従って、自分の財も神の為に、人を世話する気持ちで使う人には、アッラーは両方の人生で一杯恵みを与えてくれます。

92. (よる) (アッ・ライルの邦訳

慈悲(じひ)深い(ぶかい),何回(なんかい)も何回(なんかい)も無限(むげん)に慈悲(じひ)を下さる(くださる)アッラー(あっらー)の御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

(1~11):覆われる(おおわれる)(よる)において, 輝く(かがやく)(ひる)において,男女(だんじょ)を創造(そうぞう)された御方(おかた)において(誓う(ちかう))。あなたがたの努力(どりょく)は,誠に多様(たよう)種類(しゅるい)のものであろう。それで((かみ)のために自分(じぶん)(とみ)が)施し(ほどこし)をなし,(しゅ)(の命令(めいれい)不従順(ふじゅうじゅん)しないでそれ)を畏れる(おそれる)(もの)、また(し)(ぜん)真実(しんじつ)として認めた(みとめた)(もの)には,われは(至福(しふく)への(みち)を)容易(ようい)にしよう。だが(施しいをしないで)ケチケチしたり、(自分(じぶん)(しゅ)に)無関心(むかんしん)になったりして、(し)(ぜん)真実(しんじつ)として認めなかった(みとめなかった)(もの)には、われは(苦難(くなん)への(みち)を)容易(ようい)にするのであろう。かれが滅び去ろう(ほろびさろう)とする(とき),その(とみ)はかれにどういうふうに(やく)立つ(たつ)のでしょうか?

(12~21):断じて、導き(みちびき)するのはわれのみのことであり来世(らいせ)のも現世(げんせい)のも支配(しはい)者がわれのみであろう。それで、われは燃え盛る(もえさかる)業火(ごうか)就いて(ついて)あなたがたに(もう(すで)に)警告(けいこく)しているのであろう。それで焼かれる(やかれる)のは、最も(もっとも)哀れ(あわれ)な、真理(しんり)拒んで(こばんで)背き去った(そむきさった)以外(いがい)(だれ)もないのです。だがそれ(業火(ごうか))から遠く(とおく)置かれる(おかれる)のは、自分(じぶん)清める(きよめる)ために(とみ)を施した信心(しんじん)深い(ぶかい)者である。こういう者は、(だれ)からの(おん)も受けてないのに、その恩返し(おんがえし)のため(とみ)施した(ほどこした)(わけ)ではなくて、一生懸命(いっしょうけんめい)至高者(しこうしゃ)(しゅ)御顔(みかお)請う(こう)だけであろう。それで、やがて,かれは(十分(じゅうぶん)に)満足(まんぞく)出来て(できて)喜ぶ(よろこぶ)のであろう。

93. Sura Ad Dhuha (The Morning Light)

93. (あさ) (アッドハー)

啓示された時期

この章はメッカの一番初めの時期で啓示されたものです。宇宙全体を支配している唯一の神、アッラー、から啓示受けると預言者の神経が大分疲れていたのです。啓示の光が強くて、それを耐えれるのがそんな簡単なことではなかったのです、だから一番初めの啓示の後からしばらく何も神の言葉が啓示されなかったのです。長い間に神と何の繋がりもないことで預言者が心配していたのです。そういう時期にこの章が啓示されたのです。

内容とテーマ

 この章のテーマは、預言者モハッマドを慰めることです。長い間には啓示がなかったことで彼は心配していた。この章によってその心配をなくされた。

     一番初めに明るい日にちと夜の静かさの事を譬として誓って、預言者に安心させている。貴方の主は貴方をほっておいている訳ではない。日にちの明るさと夜の静かさの現象と同じく、人間の悲しみと喜びの時期もかわりがわりに訪れる、と言うことです。だからあなたの主もあなたのことを怒って、あなたに新しい啓示を出すのが止めた訳ではない。

 この慰めの後、彼に吉報として知らされているのは、イスラームへダーワや呼びかけの初めの時期で直面している困難の苦しみの時期が長く続くことが無く、一時的なことだ、ということです。いつでも後から来る時期が前の時期より良い方向へ進むのです。後の時期では神は自分の恵みがあなたに雨が降るように一杯与えます。それで貴方は凄く喜べるでしょう。これは、彼に対してアッラーのやくそくだった。

 これは、聖クルアーンの実際に現実的に証明されたいろいろな預言の中の一つです。

邦訳:

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

「(1~3):(あさ)(の輝き(かがやき))において,夜は静寂(せいじゃく)になった時において(誓う(ちかう))。(しゅ)は,あなたを見捨て(みすて)もしてないし、あなたに対して(たいして)(き)悪く(わるく)していることでもない。

45):きっと後期(こうき)状態(じょうたい)があなたのために前期(ぜんき)より(よ)いになるのです(解説1)やがて(しゅ)はあなたを充分(じゅうぶん)満足(まんぞく)して喜ぶ(よろこぶ)ほどのものを御授け(みさずけ)になるのです(解説2)”

611):(しゅ)は)あなたの状態(じょうたい)孤児(こじ)だとして見つけて(みつけて)庇護(ひご)なされたではないか(解説3)。あなたのさ迷って(さまよって)いた状況(じょうきょう)見付けて(みつけて)導き(みちびき)を与えたではないか。また貧しい(まずしい)あなたを見付けて(みつけて)裕福(ゆうふく)になされたではないか。だから孤児(こじ)虐げて(しいたげて)はならない。物乞い(ものごい)しているものをはねつけてはならない。断じて、あなたの(しゅ)恩恵(おんけい)を必ず(の)伝えなさい(つたえなさい)。」

解説1:アッラーからこの吉報が知らされた時はほんの少ない人たちが預言者の仲間だった。そこの国全体の人が彼の敵になっていた。イスラ-ム教が普及される見込みまったくなかった。預言者のミッションが成功する可能性は全然見えなかった。イスラームの小さなろうそくの光がメッカ市だけで少し光っていた。それも吹く消すために周りからたくさん大きなタイフーンが襲っていた。こういう大変な時に、アッラーは預言者に慰めているのが、この初めの時期のいろいろ苦労で心配しないで、後で来る全ての時期が前のどんな時期よりももっともっと楽の時期になる、と言うことです。彼の権力と名誉と影響力など全部が次から次の時期でだんだん良くなるように進んでいきます。

 またこの約束がこの現世にだけ限らないで、来世にも当てはまるのです。そちらで与えられる恵みが現世よりかなり多いのです。

解説2:ちょっと遅くなることがあっても、貴方に貴方の主の恵みが雨のように多く降ります。こういう時期が来るのはそれほど遅くではない。この約束が預言者の生きている間でもかなり果たされました。アラビア全体に彼の権力が広がった。南の海岸から北のロマー帝国のシリヤ国境とペルシア帝国のイラーク国境まで、東にペルシヤ湾から西に赤湾まですべての地域がかれの権力の下に入っていた。アラビアのその時期までの歴史の中で、初めてアラビヤ全体が一つの法律のもとで支配されるようになりました。どんな勢力もこれにぶつかったら、それ自身が滅びてしまった。

 イスラームの第一信条「アッラーしか誰も神ではない、モハッマドがアッラーの預言者である。」の反響でアラビヤの地域全体が沸上がった。多神教等と啓典の民の皆さんの自分の宗教を維持する努力が失敗になってしまった。彼らは、無理やりで刀の力に負けて、頭を下げたではなくて、説得力によってイスラームの教えのことが良く分かった上で、心からイスラ-ムの真実性とそれで自分たちが現世でも、来世でも幸せになることを分かって入信した。

イスラーム教の教えに心から納得して入信した結果として、かれらの考え方、信仰、日常生活の仕方、行いと道徳にはラジカル的な変化が起こった。

 人間の全歴史の中でただ23年ほど短い期間で無知の野蛮みたいな民族が立派な人柄を持つようになった。信仰に基づいて、人の道徳の向上によって促進した預言者モハッマド(彼に平安があれ)の運動は、凄い力で盛り上がった。その結果としてイスラームの生き方がアジア、アフリカとヨロッパの大部分に普及したし、またこれらの大きな地域がイスラームの権力の下に入った。それらの以外の世界のどんな地域でも、イスラームの教えの影響が広まった。それでイスラームが世界のスパーパワルとして十三世紀ほど大きな期間のあいだにも続いた。十九世紀からイギリスの産業革命でヨロッパの帝国主義始まるまで世界を支配していたのはイスラームの権力だった。

 こういう歴史の流れで分かるのは、イスラームがただ精神を清めるための外の宗教と同じものではなくて、人間の政治、経済、社会のようなすべての場面の道徳の向上に基づいて改革していくイデオロギーでもある、ということです。

 この章でアッラーは預言者モハッマドに上げる恵みの約束は、どういうふうに果たされたかのことが先に述べられた歴史の流れで明らかになります。これは彼が現世に受けた豊富な恵みのことですが、来世に与えられる恵みははかり切れないことになる、ということです。

解説3:この章の節3でアッラーはいっているのが、「(しゅ)は,あなたを見捨て(みすて)もしてないし、あなたに対して(たいして)(き)悪く(わるく)していることでもない」。その証拠としてアッラーは預言者が自分のお父さんがなくなって、彼が孤児になった時から彼の面倒を見ていたことを指摘している。彼はまだ生まれる前に、お母さんの体内に6か月の赤ちゃんだった時に彼のお父さんが亡くなった。彼はこの世にでてきた時から孤児として生まれていたが、アッラーは彼を一日もどうしようもない状態にしなかった。彼が6歳になるまで、彼のお母さんは彼を育っていた。その後彼が8歳になるまで、彼のおじいさんが彼を凄く可愛がっていた。それだけではなくて、かれのことが自慢話として周りの皆さんに、「自分のこの子が世界で何か大きいな、素晴らしいことを成し遂げて、非常に世の中高い名誉の持ちぬしになるだろう、」と言っていた。そのおじいさんが死んでから、彼の本当の叔父は亡くなっていた親よりももっともっと可愛がっていた。彼が預言者になってからメッカの市民が彼の敵になった時の10年間のあいだにも、そのおじさんは自分が死ぬまで、彼の為に一生懸命に彼の敵の皆さんから彼を保護していた。だから、そういうふうにアッラーは、彼が孤児になっていた時からずっと彼の面倒を見ていたことの慈悲と恵みのことを、ここで指摘している。

94. 胸を広げる(アラム・ナシュラフ)

章の説明:

本章名は,第1節に「あなたの胸を広げなかったか」とあるにちなみ名付けられる。前章の直後の啓示で,その論議(ろんぎ)の補足(ほそく)である。(ウマル・三田)

テーマと内容の紹介:

 この章が啓示された目的は預言者モハッマド(PBUH)を慰めようとするのである。この前の章ドハー(93)の啓示目的も同じであったのです。預言者になる前の時期では、かれがそういう状勢に直面したことがなかったのです。彼はイスラームの呼びかけが始まった途端に、思ってもない情勢にぶつかったのです。この状態が彼の今までの暮らしの中で大きな革命的な変化であった。その時までの毎日の暮らしのなかでかれはそういう変化のこと創造もつかなかった。彼がイスラームのダーワを始めた途端に彼が凄い尊敬の目で見られていたのに、かれの周りの社会全体が、かれの敵になってしまった。彼を大事にしていた親戚や友達や同族の方々や隣近所の皆さんが変わって、彼のことを意地悪するようになりました。メッカ市では、誰もかれの話しを聞いてくれる人もいなかった。町のどちらに行っても嘲笑いされていた。一歩一歩どちらへ進んでもあらゆる難関や障害物とぶつかっていた。

 徐々に彼はこれよりもっと厳しい困難に耐えるようになりましたが、一番初めに予測も出来なかったような、いきなり直面した皆に尊敬の代わりに嫌われ、意地悪されるようになったことで彼はかなり悲しいになっていた。だから、初めドハー章(93)とそれの続きでこの章の啓示で彼が慰められた。

 ここでアッラーは彼に三つの凄く偉大な恩恵を与えた、と言っているのです。だから、それで彼が悲しむようなことがなくなるのです。その第一は胸を広げて理解力と忍耐力を増やしたと言うことです。その第二は、預言者になるまえに彼の腰を壊していた,その精神的な重荷を彼からとった、と言うことです。その第三は彼に名誉を高めたと言うことです。この第三の恩恵は、彼よりもっと多く与えられている外の人もなければ、彼と同じぐらいでも与えられている人も誰もがないのです。この章のいろいろ節の解説の段階でこの三つの恩恵の事とそれの大事さのことも、もっと詳しく述べます。

 その次にこの宇宙全体の主は、自分の僕と預言者であるモハッマド(PBUH)に慰める言葉を言っている。彼は安心させる為にアッラーが一つの大事な原則を彼におしえた。それは、彼が困難に直面しているこの時期があまり長く続くことが無く、苦しい時期と共に楽をする時期もそれと一緒に必ずくついてくる、と言う事実が神からかれに確信された。

人間に対してこれは神の一つの大事な法則である。この法則は預言者のためだけに特別に限られている訳ではない。無心じゃの方も含めて、どんな人間でも何か良い素晴らし目的のために一生懸命に努力しているならば、神が必ずある程度の試みの後で、その努力を実るようにする、と言うことはここで一つの原則のように、この章で皆に安心させている。

 同じようなことが、預言者を安心させるために、神が別の表現でこの前のドハー章93でものべている。そちらの表現では、次の状況は前の状況よりよくなるという確信の言葉で言っているのです。

 それを預言者とすべての信者に困難の時がっかりしないように、もっと安心させるためにもう一つ別の原則も次の表現の形で述べているのです。それは、貴方の主はあなたに凄く喜ぶような恩恵を与える、という神から人間に対して一つの固い約束のことです。アッラーからそういう約束のことを信じている方が、現状ではどんなに大変な酷い目にあってもがっかりして病気もしないし、自殺の行為も考えないないで、将来に対して不満の気持ちも持たないのです

この章の最後に彼はこの初期の大変な時期を乗り越えるために自分の中に精神的な力を育てるのに一つしか外の方法がない、ということを指図(さしず)されたのです。それは、日常(にちじょう)の仕事から楽になって余裕があった時に一所懸命にアッラーにお祈りと崇拝の一心に務めることです。

94. 胸を広げる(アラム・ナシュラフ)章の邦訳

慈悲(じひ)深い(ぶかい)、何回(なんかい)も何回(なんかい)も無限(むげん)に慈悲(じひ)を下さる(くださる)アッラー(あっらー)の御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

「われは、あなたの(むね)理解力(りかいりょく)と忍耐力)を広げ(ひろげ)たではなか(解説1)そして、おまえの(こし)壊れる(こわれる)ほどの重荷(おもに)降したで(おろしたで)はないか。またわれは、あなたの(ため)にあなたの名誉(めいよ)を高め(たかめ)たではないか(解説2)それゆえ、まことに困難(こんなん)と(とも)に、必ず(かならず)安楽(あんらく)もついていて、断じて間違いなく(まちがいなく)、困難と(とも)に、絶対(ぜったい)に安楽(あんらく)もついている(解説3)それで(当面(とうめん)の日常(にちじょう)の務め(つとめ)から)(らく)になって、余裕(よゆう)があったときに、更に(さらに)お祈り(おいのり)と崇拝(すうはい)労苦(ろうく)に努めなさい(つとめなさい)(解説4)((ただ)一筋(ひとすじ)に)あなたの(しゅ)に一心(いっしん)傾倒(けいとう)しなさい。

解説1:胸を広げるという表現は二つの意味でとられるのです。その第一はあることに対してどうすれば分からなくて、迷って、決断出来ない状態から出てはっきりと物事分けって、その道に自信を持って進む覚悟までいった精神状態の事です。

その第二は、自分が正しいと思った道に進むとあらゆら困難や障害物を見てそれ全部を乗り越えていくまでの自信と勇気が無くて、その大変さを畏れて、その道に進みたくてもなかなか進めない状態から出られて、どんなに大変でもそういう状態から抜き出せる気持ちになって、その為には、どんな犠牲でも払って、だんだん先へ先へ進んでいく自信と勇気を湧き上がった精神状態になることです。

ここであなたの胸を広げたではないか?という質問の形でアッラーが預言者モハッマドにそういう両方の意味で精神力を与えた恩恵を完成していることを指摘しているのです。

 彼の周りの皆が多神教だったので、彼は預言者になる40歳までは神に対して正しい道を自分の心で求めていた。その時でも彼は一神教の考え方をもっていた。特に40歳ごろになってから、彼一人で山のヒラと言う洞窟の中に入って、いろいろな考えごとをしていた。その洞窟で初めてジブライルと天使により、彼が啓示いただいて、預言者になった。その啓示で徐々にアッラーからいろいろ教えて貰った。そういう神からの啓示によって彼が自分の周りの社会の改善が一神教によって出来ると確信持つようになった。それで彼の中の悩みがなくなった。それは第一の意味で彼の胸が広がったことになります。

 また彼は自分一人ぼっちで周りの悪い社会と世の中がどういうふうに一神教に基づいて改善出来るのかのことで悩んでいた。彼がそういう呼びかけが始めた途端に周りに皆が敵になって、彼を意地悪して、あらよる障害物と困難にぶつかるようにした。それで彼は、悲しんでいた。第二の意味では、彼の胸を広げたと言うことが、この恩恵がかれの悲しみを無くして、彼を慰めて、彼自身のミッションを完成するのに勇気づけられた。

解説2:世界中にかれの名誉を高められるということが言われたのは、そのことが誰にも創造もつかない時期であった。砂漠のなかにある山々のメッカ市にほんの少し信者と一緒にいる方がこの世が終わるまでに名誉が高められていく、という予言が簡単に信じられないような話だった。けれども、この話がこの世の雄一つの主、アッラー、から言われた一つの約束のことでもあった。その話が1500年前に言われたことだった。が、今だにそれの真実性を証明されているのです。

 日本では町中の人を呼びかけるときは、特に小さな村の場合は、鐘を鳴らす習慣がある。また正月始まった時でも各お寺で12月31日の夜の12時過ぎた途端に鐘を鳴らす伝統がある。が、イスラーム教では鐘を鳴らすことが無く、毎日5回のサラートや礼拝に呼びかける時に大きな声でアザーンをやることになっている。それを聞いて信者の皆さんが自分の家から出てマスジドやモスクと言われているイスラーム教の特集な礼拝堂の方へ団体礼拝やサラートを皆と一緒にやる為に行く。信者の皆さんが毎日この呼びかけの音が聞いたら5回も自分の家から出て皆と一緒に団体サラートをやる為にマスジドへ行かなければいけない義務があるのです。

 このアザーンではアラビア語でいろいろな呼びかけの良い言葉を使われている。そのなかの一つ呼びかけの定められた言葉の中には、「私はモハッマドがアッラーの預言者である、ということを証言します」、と言うのもあるのです。今1500年経っても世界のどんな地域でもイスラーム教等が住んでいるのです。彼らがいる所に必ず一つマスジドも自分の住んでいる場所の近く建てられているのです。皆さんは毎日5回やるべき団体サラートの義務を果たすためにその定められた呼びかけ「アザーン」の声を聞いてから自分の家から出てそのマスジドの方へ行くのです。

     そういうふうな形やきっかけで毎日世界のどんな地域でもモハッマド「彼にアッラーの平安があれ」の名前が尊敬の気持ちで皆さんが唱えているのです。それでアッラーから1500年前に預言されたことや約束が今でも果たされているし、またこの世が終わるまで彼の名誉がそういうふうに高めることがずっと永久に続くのです。

     またこのアザーン以外にも毎日の5回のサラートの中にもモハッマド(PBUH)に対して彼「にアッラーの平安があれ」、と言うお祈りも含まれているのです。また、毎週金曜日の大きな集まりの時の「クトバー」や団体礼拝の指導者「イマーム」の話の時も「かれに平安があれ」のお祈りも必ずされているのです。

     また、一年中の12か月の間には24時間世界のどこかにサラートの5回の礼拝が行われているのです。そういうふうに彼の名誉がずっと24時間世界のどこかに高められているのです。

     また、これが1500年前に啓示された聖クルア-ンに書かれている言葉の真実性の証拠にもなるのです。このことが啓示された時には今に見えるかれの名誉の高まる方法と可能性のこともだれも創造も出来なかったのです。あの小さな砂漠の山々の町メッカに苛められた人物がそんなに名誉が高められたのが不思議な出来事ではないでしょうか?

     あるハヂス(預言者の言葉)によるとアッラーは言っているのが「自分の名前と一緒にあなた(モハッマド)の名前も唱えられる」と言うこともあるのです。それで、各信者の方がアッラーのこと唱える時になるべく彼の名前も口から出す耽美(たんび)に、必ず「彼に平安があれ」と言うお祈りする伝統を守っている。たとえ、わたしもクルアーンのこういうふうないろいろな解説を書いているときでもなるべく「彼に平安があれ」と言うお祈りや英語でPeace Be Upon Him の代わりに(PBUH)をかっこうで書いているのです。

     今20世紀と21世紀で見るともう一つの現象も見られているのです。それは正しいか、間違いか、の議論をべつにして客観的に見れば一つの現象として存在していることが認識できるのです。それはモハッマド(PBUH)の名誉を汚そうとした人たちは殺されているや神に罰せられているのです。インドでも一人、フランソや仏でも12人とデンマークでも何人が預言者もハッマド(PBUH)の諷刺画を出版して、彼の名誉をけなしたからイスラーム教の方々が自分のお父さんよりも、外のだれよりも、一番尊敬していた人物を貶されるのが我慢できないので人殺しいやってしまった。

日本でも筑波(つくば)大学の五十嵐(いがらし)教授も「悪魔の歌」と言う本を日本語で翻訳したから殺された事件があったのです。「The Satanic Verses」というこの本の元の英語版の作家「サルマーン・ルシュヂ」に対して現代イラーンの創立者、イスラームのシヤ派の学者「イマム・コメニ」がこの作家がモハッマド(PBUH)の名誉を貶したから殺されるべきだと言う「ファトワ」宗教判決が出していた。またその宗教判決にイスラーム教のスンニ派の学者たちの皆も賛成して、それが正しいファトワとして認めた。歴史上にそういうふうないろいろな事件があって、一回もモハッマド(PBUH)の名誉を貶すことが成功できなかった事実も誰も否定できないのです。

彼の名誉を守る為に自分の命も犠牲にしても良いと思っているイスラーム教の方々が自分の信仰の一つの義務と思っているのです。またイスラーム教ではそれを教えられているのです。イスラーム教の基本はアッラーを信じるだけではない。それと一緒に預言者モハッマド(PBUH)も信じて、アッラーとモハッマド(PBUH)両方の命令を従う義務があるのです。だから、彼の名誉を守る為に信者たちはいつでも自分の命をかけても良いと思っているのです。

解説3:このことが2回も繰り替えて教えているのです。その目的がここで教えていることの真実性に確信もって、現時点の苦しみが一時的なものと思いなさい、と言うメッセジによって預言者モハッマド(PBUH)が慰められた。彼は急に周りの社会から苛められていた時期のはじまりだった。それは彼がイスラームへに呼びかけ始めた途端にメッカ人が彼に対して今までの尊敬するようなことを止めて、嫌がらせするようになっていた。その時アッラーからこの慰めの真実を述べられた。

     不断苦しみと一緒に安楽もあると言うことが信じられないのです。この両方がお互いの反対の状況のことです。だから苦しみのあと安楽あるというよりも苦しみと共に安楽ついているという表現の目的は苦しみの時期があまり長くないと言うことを出張しているのです。もうすぐ楽になるから、いまの苦しみで心配しないで、それを乗り越えるようにもうしばらくの間頑張りなさい、と言うメッセジです。

     これは預言者に対してのメッセジだったが、普段どんな人間でも何かいい目標の為に努力しているならば、そのとっ中で直面する試みと苦しみのことが一時的と思って、頑張っていれば、それと共に必ず目標達成の道も開く自身持つべきです、という教訓が我々はクルアーンのこの教えから学んで勇気づけられるのです。

解説4:ここで外の仕事から余裕があった場合は神の崇拝と礼拝に集中しなさい、と言っているのです。だから、まじめに仕事するのもイスラームでは礼拝や崇拝と同じく宗教のいろいろな信条の中の一つと思われているのです。山の中に入って朝から晩まで神の名前を唱えるや崇拝だけに命をかけるような考えは好ましくないのです。仕事と言うことは社会的な責任をチャンと果たす義務があると言うことです。イスラームでは、そういう責任から逃げて山の中に被るのはいけないと思われているのです。

95. イチジク (アッテイン)

メッカで啓示された章

 “慈悲(じひ)深い(ぶかい)、何回(なんかい)も何回(なんかい)も無限(むげん)に慈悲(じひ)を下さる(くださる)アッラー(あっらー)の御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

邦訳:“「イチジク(いちじく)無花果(いちじく))とオリーブ(おりーぶ)にかけて(解説1)ツール・シナイ山(しないさん)にかけて(解説2)また平安(へいあん)なこの(まち)(メッカー市)において(誓う(ちかう))。確か(たしか)にわれは、人間(にんげん)(さい)優秀(ゆうしゅう)姿(すがた)に創った(解説3)それから、われらは、かれを低い(ひくい)(もの)のうちでも最も(もっとも)低い(ひくい)(もの)投げ落とした(なげおとした)。ただし、信仰(しんこう)して善行(ぜんこう)をなした(もの)(べつ)である。かれらに対して(たいして)果て(はて)しない報奨(ほうしょう)があろう。それなのに、(なに)がおまえにその(あと)(最後(さいご)審判(しんぱん)(ひ))裁き(さばき)のことを(うそ)として、否定(ひてい)させるのか? アッラー(あっらー)は、あらゆる支配者(しはいしゃ)のうちに(すべてのものの)至上(しじょう)支配者(しはいしゃ)ではないか(解説4)

解説(かいせつ)1):イチジク(いちじく)オリーブ(おりーぶ)一番(いちばん)多く(おおく)栽培(さいばい)されている地域(ちいき)パレスチナ(ぱれすちな)シリア(しりあ)のこと。その地域(ちいき)歴史(れきし)のことを証拠(しょうこ)として出して(だして)(なに)一つ(ひとつ)真実(しんじつ)(つぎ)(せつ)語られて(かたられて)いるのです。

解説(かいせつ)2):シナイ山(しないさん)(ち)域内(いきない)ツール(つーる)言う(いう)小さい(ちいさい)(やま)があって、その場所(ばしょ)全能(ぜんのう)唯一(ゆいいつ)御方(おかた)アッラー(あっらー)ムーゼ(むーぜ)預言者(よげんしゃ)直接(ちょくせつ)(ばなし)をした、と言う(いう)伝統(でんとう)(せい)クラアーン(くらあーん)(べつ)(ところ)書かれて(かかれて)いるのです。

解説(かいせつ)3):(まえ)三つ(みつ)(せつ)でいろいろな地域(ちいき)において誓って(ちかって)、この(せつ)ではそれの結論(けつろん)出して(だして)いるのです。それは、この地域(ちいき)歴史(れきし)証拠(しょうこ)として出して(だして)ここで述べられて(のべられて)いる結論(けつろん)が、人間(にんげん)がもともと悪者(わるもの)ではなく、非常(ひじょう)上等(じょうとう)道徳(どうとく)持ち主(もちぬし)として創造(そうぞう)されたということです。アブラハ(あぶらは)(む)からイエス(いえす)キリスト(きりすと)までや預言者(よげんしゃ)モハッマド(PBUH)(もはっまど)まで二千(にせん)から三千年(さんぜんねん)のあいだにその地域に実現したあらゆる預言者(よげんしゃ)たちが殆ど(ほとんど)この地域(ちいき)(なか)からだったのです。人類(じんるい)(なか)悪者(わるもの)もいっぱいいるのですが、このパレスチナ(ぱれすちな)シリヤ(しりや)シナイ山(しないさん)メッカ(めっか)などの地域(ちいき)過去二(かこに),三千年(さんぜんねん)のあいだに生まれた(うまれた)あらゆる預言者(よげんしゃ)生き方(いきかた)見る(みる)立派(りっぱ)道徳(どうとく)持ち主(もちぬし)存在(そんざい)否定(ひてい)出来ない(できない)のです。と言う(いう)のは、このことは人間(にんげん)性質(せいしつ)立派(りっぱ)人格(じんかく)をもてるように創られて(つくられて)いるということの証拠(しょうこ)になるのです。

解説(かいせつ)):この(しょう)最後(さいご)の2,3(せつ)教えて(おしえて)いるのは、人間(にんげん)として、自分(じぶん)元々(もともと)生まれつき(うまれつき)良い(よい)性質(せいしつ)立派(りっぱ)人格(じんかく)維持(いじ)して育って(そだって)いくべきです、と言う(いう)ことです。それは信仰(しんこう)持って(もって)善行(ぜんこう)をなさった場合(ばあい)だけ可能(かのう)になるのです。そうではなかった場合(ばあい)人間(にんげん)人格(じんかく)動物(どうぶつ)よりもずっとかなり低くなっていく、と言うことです。

 

 

96(96). 凝血(ぎょうけつ) (アル(ある)アラク(あらく)

(しょう)の説明(せつめい):

本章名(ほんしょうめい)は,第2(だい2せつ)のことばにちなみ名付けられる(なづけられる)。また第1(だい1せつ)の冒頭(ぼうとう)の言葉(ことば)により読誦(どくしょう)([)イクラア(いくらあ)〕(しょう)とも呼ばれる(よばれる)。第1-5(だい1-5せつ)はヌール(ぬーる)山頂(さんちょう)のヒラー(ひらー)の洞窟(どうくつ)で(せい)預言者(よげんしゃ)に最初(さいしょ)に下された(くだされた)啓示(けいじ)である。それ以下(いか)の第6-19(だい6-19せつ)は,啓示(けいじ)の中断(ちゅうだん)以後(いご)に下さったものである・・・・・・・(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ))。

96(96). 凝血(ぎょうけつ) (アル(ある)アラク(あらく)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

[-]((解説1))読め(よめ)、あなたの(しゅ)御名(ぎょめい)において、(その御方(おかた)こそが)「創造(そうぞう)なされた。(いっ)凝血(ぎょうけつ)から人間(にんげん)創造(そうぞう)した((解説2))読め(よめ)、あなたの(しゅ)は、最高(さいこう)(そん)(き)であられ、(ふで)によって知識(ちしき)学問(がくもん)(みち)開いた(ひらいた)御方(おかた)人間(にんげん)(かれ)知らなかった(しらなかった)ことの智識(ちしき)(とすべての学問(がくもん))を与えた(あたえた)((解説3))

[-19]断じて(だんじて)、まことに人間(にんげん)は、((かみ)対して(たいして))凄く(すごく)反逆的(はんぎゃくてき)である。それは、((かみ)頼らなく(たよらなくて)も)自分(じぶん)自身(じしん)(ちから)でなんでも出来る(できる)だろうと思って(おもって)いるからです。(けれども、(かみ)対して(たいして)いくら反逆(はんぎゃく)していてもいずれは)きっとあなたの(しゅ)(もと)に(すべての(もの)は)必ず(かならず)戻される(もどされる)のである

 あなたは、阻止(そし)する(もの)見た(みた)か、一人(ひとり)のしもべ(ムハッマドPBUH)が、礼拝(れいはい)をしたい(とき)にそれを妨げ(さまたげ)ようとした。かれ(礼拝(れいはい)していた(もの))が、正しい(ただしい)(みち))に導かれて(みちびかれて)いても、あるいは、かれが敬神(けいしん)勧めて(すすめて)いても、(こういうふうに防止(ぼうし)されるべきなのか、)ということがあなたは見て(みて)ないのか?また、(真理(しんり)を)(うそ)であるとして(せ)向けた(むけた)(もの)のことも見て(みて)ないのか?(こういう(ぜん)(あく)をやっている二人(ふたり)のような方々(かたがた)のことが) アッラー(あっらー)がきっと見て(みて)おられることを知らない(しらない)のか。. 断じて(だんじて)そうではない。もしかれが(そいう行為(こうい)から)止まらない(とまらない)のであれば,われは、(ひたい)前髪(まえがみ)でかれを捕え(とらえ)引っ張る(ひっぱる)であろう、嘘付き(うそづき)罪深い(つみぶかい)(ひたい)を。それで、かれは(自分の救助(きゅうじょ)のために)(おのれ)の寄り合いを呼び集めよう(よびあつめよう)。われらも火獄(ひごく)使い(つかい)呼び集めよう(よびあつめよう)断じて(だんじて)、あなたはかれに従って(したがって)はならない。一途(いちず)サジダ(さじだ)して((しゅ)に)近付け(ちかづけ)。」([)サジダ(さじだ)(]解説4)

(解説1)預言者(よげんしゃ)モハッマド(もはっまど)(PBUH)が40歳(40さい)ごろに人間(にんげん)の未来(みらい)と社会(しゃかい)の状況(じょうきょう)の改善(かいぜん)のようないろいろな(こと)に対して(たいして)関心が深く(ふかく)なった。それで(かれ)は(まち)から離れた(はなれた)(やま)の(ほう)へ行って(いって)、そちらにあったヒラー(ひらー)と言う(いう)洞窟(どうくつ)に入って(はいって)、そこでいろいろ考え事(かんがえごと)していた。(かれ)が人間(にんげん)の未来(みらい)と社会(しゃかい)の改善(かいぜん)に対して(たいして)熱心(ねっしん)に導き(みちびき)を探し求めて(さがしもとめて)いた。それである(ひ)(きゅう)にジブリール(じぶりーる)と言う(いう)アッラー(あっらー)からの使徒(しと)がその洞窟(どうくつ)に現れた(あらわれた)。(かれ)は一番初め(いちばんはじめ)にこの五つ(いつつ)の(せつ)を預言者(よげんしゃ)(PBUH)に教えた(おしえた)。それで(せい)クラアーン(くらあーん)の啓示(けいじ)が始まった(はじまった)。その(ご)23年(23ねん)にかけて預言者(よげんしゃ)(PBUH)の死ぬ(しぬ)(とき)まで徐々(じょじょ)に(せい)クルアーン(くるあーん)が全部(ぜんぶ)啓示(けいじ)された。

解説(かいせつ)2)例えば(たとえば)、この(せつ)で指摘(してき)しているように、人間(にんげん)はどういうふうにあるいは、どのような材料(ざいりょう)によって創られた(つくられた)かの知識(ちしき)や学問(がくもん)が得られた(えられた)場合(ばあい)は、人類(じんるい)と宇宙(うちゅう)のすべての(もの)の創造(そうぞう)ぬしアッラー(あっらー)の偉大さ(いだいさ)が分かる(わかる)のです。イスラーム(いすらーむ)(きょう)ほど知識(ちしき)と学問(がくもん)を大事(だいじ)にするような宗教(しゅうきょう)は(ほか)にあまり目立たない(めだたない)のです。また(ぼう)さん従う(したがう)ことじゃなくて、基本的(きほんてき)に(ぼう)さんも先に(さきに)同じ(おなじ)(しゅ)に従って(したがって)、(せい)クルアーン(くるあーん)に基づいて(もとづいて)宗教(しゅうきょう)の(こと)を教える(おしえる)ように制限(せいげん)されているのです。

解説(かいせつ)3)イスラーム(いすらーむ)(きょう)が始まった(はじまった)のはこの五つ(いつつ)の(せつ)によってその特徴(とくちょう)はなんでしょうか?この五つ(いつつ)の(せつ)のなかで四つ(よっつ)のの中(せつのなか)には、知識(ちしき)と学問(がくもん)と読誦(どくしょう)(読め(よめ))の(はなし)があるのです。また(せい)クルアーン(くるあーん)でもいろいろ自然(しぜん)現象(げんしょう)の素晴らしさ(すばらしさ)と自然(しぜん)法則(ほうそく)の(こと)を指摘(してき)して、そういう知識(ちしき)と学問(がくもん)を得て(えて)、全能(ぜんのう)の唯一(ゆいつ)の(かみ)アッラー(あっらー)の存在(そんざい)と偉大さ(いだいさ)のことを認めて(みとめて)、その御方(おかた)が自分(じぶん)と全人類(ぜんじんるい)の(しゅ)であるので、その御方(おかた)のことだけ従って(したがって)、かれだけを褒め称える(ほめたたえる)べきだ、と言う(いう)ことを教えて(おしえて)いるのです。

解説(かいせつ)4:この邦訳(ほうやく)の一番初め(いちばんはじめ)に書いて(かいて)あるように、(せい)クラアーン(くらあーん)のサイドライン(さいどらいん)ではいくつかの箇所(かしょ)サジダ(さじだ)という言葉(ことば)書かられて(かかられて)います。(せい)クラア(くらあ)(ん)読誦(どくしょう)しているときにそういう箇所(かしょ)まできた場合(ばあい)は5回の礼拝(れいはい)(とき)頭を下げて(さげて)大地(だいち)までもっていく動作(どうさ)のことをサジダ(さじだ)といって、同じく(おなじく)サジダ(さじだ)動作(どうさ)をするべきことが定められて(さだめられて)います。その偉大(いだい)御方(おかた)から授けられた(さずけられた)(もと)言葉(ことば)理解(りかい)した(うえ)にそのまま読誦(どくしょう)しているときそういう箇所(かしょ)まできたときには、なんとなく人間(にんげん)(こころ)気持ち(きもち)(かみ)(まえ)(あたま)下げて(さげて)(しゅ)のことを褒め称える(ほめたたえる)ようになります。

サジダ(さじだ)と言う(いう)のは、礼拝(れいはい)の時頭(ときあたま)を下げて(さげて)大地(だいち)まで持って(もって)行く(いく)こと。これの詳しい(くわしい)解説(かいせつ)が第一部(だいいちぶ)の初め(はじめ)にご覧(ごらん)ください。

97(97). アル・カドル章

(しょう)説明(せつめい)

本章(ほんしょう)は,クルアーン(くるあーん)最初(さいしょ)啓示(けいじ)された大事(だいじ)(よる)は,全世界(ぜんせかい)照す(てらす)ことになった,御光(おひかり)輝き(かがやき)立証(りっしょう)するにちなみ 名付けられる(なづけられる)マッカ(まっか)時代(じだい)啓示(けいじ)である。暗黒(あんこく)世の中(よのなか)に,啓示(けいじ)下された(くだされた)のである。アッラー(あっらー)慈悲(じひ)現わす(あらわす)、 ・・・・・・・・・。(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ)

 

 

 

97(97). アル(ある)カドル(かどる)(しょう)

 慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

「誠にわれは((解説1))カドル(かドる)(運命(うんめい)定められる(さだめられる)重要(じゅうよう)な)(よる)に,この(クルアーン(くるあーん))を下った(くだった)((解説2))カダル(かだる)(よる)がどういうものなのか、それ(大事(だいじ)さ)をあなたが(なに)をわかっているのですか?カドル(かドる)(よる)は、千月(せんがつ)よりも優る(まさる)((解説3))(その(よる)天使(てんし)たちと聖霊(せいれい)は,(しゅ)許し(ゆるし)のもとで、全て(すべて)[([)者の運命(うんめい)定められた(さだめられた)(しん)(れい)持って(もって)下る(くだる)((解説4))その(よる)が、夜明け(よあけ)までには、平安(へいあん)(よる)である。](])

解説(かいせつ)1):イスラーム(いすらーむ)(きょう)の悪口(わるぐち)書いて(かいて)いる西洋(せいよう)学者(がくしゃ)たちは(せい)クルアーン(くるあーん)預言者(よげんしゃ)モハッマド(PBUH)(もはっまど)自分(じぶん)自身(じしん)考え(かんがえ)書いた(かいた)という(うそ)広げて(ひろげて)いるのです。がここではそういうことを否定(ひてい)されているのです。これはどんな人間(にんげん)出来ない(できない)ような内容(ないよう)のものであるのです。これが出来る(できる)のはアッラー(あっらー)のみの(ちから)知恵(ちえ)計画(けいかく)お蔭(おかげ)です。

 そういう(うそ)否定(ひてい)するために一番(いちばん)良い(よい)証拠(しょうこ)アッラー(あっらー)(じ)書く(かく)ことも読む(よむ)ことも出来ない(できない)ような(かた)モハッマド(もはっまど)(PBUH)、を預言者(よげんしゃ)として定めた(さだめた)ことです。(じ)書く(かく)こと読む(よむ)ことも出来ない(できない)(ほう)がどういうふうに(せい)クルアーン(くるあーん)みたいな素晴らしい(すばらしい)教え(おしえ)生み出せる(うみだせる)のですか?だからこの(しょう)一番初め(いちばんはじめ)にこれがアッラー(あっらー)から啓示(けいじ)されたことを明らか(あきらか)にしているのです。

 この事実(じじつ)のもう一つ(ひとつ)証拠(しょうこ)もあるのです。(せい)クルアーン(くるあーん)一番(いちばん)短い(みじかい)アル(ある)カウサル(かうさる)という第108章(だい108しょう)メッカ(めっか)カーバー(かーばー)神殿(しんでん)(かべ)(ところ)ぶら下げて(ぶらさげて)おいて、預言者(よげんしゃ)モハッマド(PBUH)(もはっまど)無信者(むしんじゃ)皆様(みなさま)にこの(しょう)同等(どうとう)文学的(ぶんがくてき)(なに)文章(ぶんしょう)をだすようにと、挑戦(ちょうせん)したことがあった。がアラブ(あらぶ)のすべての(ぶん)学者(がくしゃ)自分(じぶん)負け(まけ)認めて(みとめて)自分(じぶん)たちがそれを出来ない(できない)ということを告白(こくはく)したのです。それでイスラーム(いすらーむ)(きょう)反対者(はんたいしゃ)(せい)クルアーン(くるあーん)同等(どうとう)文書(ぶんしょ)一節(いっせつ)もどんな人間(にんげん)作れない(つくれない)ということを立証(りっしょう)したことになります。これがいつまでも偉大(いだい)御方(おかた)から下さった(くださった)ものであるという結論(けつろん)になるのです。

解説(かいせつ)2):(せい)クルアーン(くるあーん)が人類(じんるい)のために一番初め(いちばんはじめ)啓示(けいじ)された(よる)のことはカドル(かどる)(よる)言われて(いわれて)います。それは(ぜんしょう)第97号(だい97ごう)アル(ある)アラク(あらく))の一番初め(いちばんはじめ)五つ(いつつ)(せつ)のことです。その(とき)からずっと23年(23ねん)をかけて全クラアーン(ぜんくらあーん)啓示(けいじ)されたのです。

 断食の月ラマデャン(らまでゃん)最後(さいご)(と)(か)(かん)のどちらか一つ(ひとつ)はそのカドル(かどる)大事(だいじ)(よる)言われて(いわれて)いるのです。その(なか)一番(いちばん)可能性(かのうせい)高い(たかい)のはラマデャン(らまでゃん)21日目(21にちめ)23日目(23にちめ)25日目(25にちめ)27日目(27にちめ)29日目(29にちめ)だ、といわれているのです。ラマデャン(らまでゃん)毎晩(まいばん)20ラカート(らかーと)団体(だんたい)ジャマート(じゃまーと))の礼拝(れいはい)(せい)クラアーン(くらあーん)(あん)記して(きして)いる(かた)がおもに1/30を読誦(どくしょう)しているのです。それは世界中(せかいじゅう)(ほとん)どのモスコ(もすこ)では27日目(27にちめ)終わる(おわる)ようにしているのです。それはどういう(わけ)だろう?その27日目(27にちめ)(よる)カドル(かどる)(よる)になるだろうという可能性(かのうせい)がこの(と)(かん)(なか)一番(いちばん)高い(たかい)だろうと思われて(おもわれて)いるからです。

 その大事(だいじ)(よる)世界中(せかいじゅう)イスラーム(いすらーむ)(きょう)信者(しんじゃ)たちが出来る(できる)限り(かぎり)(あさ)まで起きて(おきて)いてなるべく礼拝(れいはい)したり、(せい)クルアーン(くるあーん)読誦(どくしょう)したり、宗教(しゅうきょう)偉い(えらい)先生(せんせい)(はなし)(みな)団体(だんたい)聞いたり(きいたり)、また個人的(こじんてき)自分(じぶん)人生(じんせい)過去(かこ)過ち(あやまち)(つみ)のことを反省(はんせい)してアッラー(あっらー)許し(ゆるし)求めたり(もとめたり)しているのです。その(よる)アッラー(あっらー)人類(じんるい)から一番(いちばん)近い(ちかい)(てん)降りて(おりて)信者(しんじゃ)たち皆さん(みなさん)お祈り(おいのり)願い事(ねがいごと)を聞いて、みなの(つみ)許す(ゆるす)だろうと言われて(いわれて)いるのです。それはこの(しょう)言って(いって)いるように、(せい)クラアーン(くらあーん)がその(よる)に人類に与えられた(あたえられた)ので、一番(いちばん)祝福(しゅくふく)(よる)思われて(おもわれて)いるからです。

解説(かいせつ)3):アラビア語(あらびあご)ではこういう表現(ひょうげん)計算(けいさん)して、ただ1000月(1000がつ)(かず)限って(かぎって)ないで、ずっと長い(ながい)年数(ねんすう)のことの意味(いみ)使われて(つかわれて)いるのです。

解説(かいせつ)4):カドル(かどる)(よる)のもう一つ(ひとつ)大事(だいじ)(てん)は、この(せい)クラアーン(くらあーん)下った(くだった)(よる)には全人類(ぜんじんるい)とすべての生き物(いきもの)宇宙(うちゅう)(なか)存在(そんざい)しているすべてのものの来年(らいねん)同じ(おなじ)カドル(かどる)(よる)までの運命(うんめい)定められた(さだめられた)神令(しんれい)持って(もって)使徒(しと)ジブリル(じぶりる)(ほか)天使(てんし)たちが降りて(おりて)来る(くる)言う(いう)ことです。

 

98. 明証(アル・バイイナ)

章の内容

 第96(だい96)アル(ある)アラク(あらく)(しょう)第97(だい97)アル(ある)カドル(かどる)(しょう)(あと)にこの(しょう)順番(じゅんばん)のことには非常(ひじょう)重要(じゅうよう)意味(いみ)含まれて(ふくまれて)いるのです。アル(ある)アラク(あらく)(しょう)には最初(さいしょ)啓示(けいじ)知識(ちしき)学問(がくもん)大事(だいじ)にしてアッラー(あっらー)存在(そんざい)宇宙(うちゅう)人類(じんるい)(みな)(しゅ)として信じる(しんじる)ようにと言う(いう)(はなし)があった。その(つぎ)アル(ある)カドル(かどる)(しょう)には(せい)クルアーン(くるあーん)啓示(けいじ)始まり(はじまり)によって、人類(じんるい)歴史(れきし)人間(にんげん)(みな)運命(うんめい)定める(さだめる)ことの大事さ(だいじさ)教えた(おしえた)。それから今度(こんど)(だれ)一人(ひとり)(かた)預言者(よげんしゃ)として現れる(あらわれる)のが人類(じんるい)幸せ(しあわせ)のために必要(ひつよう)だった、と言う(いう)ことがこの(しょう)明らか(あきらか)にしているのです。

 人類(じんるい)導き(みちびき)のためにモハッマド(PBUH)みたいな一人(ひとり)(かた)がこの(よ)現れて(あらわれて)くないとどんな人間(にんげん)迷って(まよって)しまう可能性(かのうせい)が大きいのです。この(よ)でも来世(らいせ)でも幸せ(しあわせ)生き方(いきかた)導き(みちびき)のために、その御方(おかた)人類(じんるい)(しゅ)、の(ほう)から定められた(さだめられた)(だれ)一人(ひとり)預言者(よげんしゃ)(かた)現れる(あらわれる)ことが必要(ひつよう)です。このこと以外(いがい)にもこの(しょう)内容(ないよう)としてほかのいろいろな(はなし)があるのはのちほどいろいろな解説(かいせつ)分かる(わかる)ことができるのです。

98. 明証(アル・バイイナ

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

信仰を拒否(きょひ)しているような、(けい)(てん)(たみ)(なか)も、多神教(たしんきょう)(と)(なか)も、(なに)明証(めいしょう)(や証拠)が来る(くる)までには、自分(じぶん)無信仰(むしんこう)立場(たちば)から離れよう(はなれよう)としなかった。(その明証(めいしょう)証拠(しょうこ)としては、)アッラー(あっらー)から定められた(さだめられた)、だれか御使い(みつかい)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)(PBUH)}として、(じゅん)(せい)書巻(しょかん)を、読んで(よんで)聞かせる(きかせる)までは((解説1))その(なか)には,真理(しんり)語られた(かたられた)正しい(ただしい)教え(おしえ)書かれて(かかれて)いるように。(けれども、(けい)(てん)真理(しんり)(や信仰)のことを分かって(わかって)も)以前(いぜん)(けい)(てん)授かって(さずかって)いる(もの)たちが、分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)したのは,明証(めいしょう)証拠(しょうこ)がかれらに来て(きて)から(あと)のことであった((解説2))かれらの命じられた(めいじられた)ことは,(ただ)アッラー(あっらー)仕え(つかえ),かれに信心(しんじん)(まこと)尽し(つくし)純正(じゅんせい)服従(ふくじゅう)帰依(きえ)して,礼拝(れいはい)務め(つとめ)守り(まもり)定め(さだめ)喜捨(きしゃ)をしなさいと,言う(いう)だけのことであった。これこそ宗教(しゅうきょう)真正(しんせい)教え(おしえ)である。(けい)(てん)(たみ)(なか)にも、多神教(たしんきょう)(と)のなかにも,{預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)(PBUH)のことを}拒否(きょひ)した(ひと)たちは地獄(じごく)(ひ)投げ込まれて(なげこまれて)、その(なか)永遠(えいえん)に住む。かれらは、全て(すべて)生き物(いきもの)(なか)には、最悪(さいあく)(もの)である。だが信仰(しんこう)して善行(ぜんこう)勤しむ(いそしむ)(もの)たちが、全て(すべて)生き物(いきもの)(なか)には、最善(さいぜん)(もの)である。かれらへの(しゅ)からの報酬(ほうしゅう)が、その(した)(かわ)流れる(ながれる)常住(じょうじゅう)(その)である。かれらは、永遠(えいえん)にその(なか)住む(すむ)であろう。アッラー(あっらー)はかれらに満悦(まんえつ)し、かれらもかれに満悦(まんえつ)している。それは(しゅ)畏れる(おそれる)(もの)(への報奨(ほうしょう))である。

(解説1):経典(けいてん)の(たみ)キリスト(きりすと)(きょう)ユダイヤ(ゆだいや)(きょう)(など)、と(とも)多神教(たしんきょう)(など)両方(りょうほう)(なに)証明(しょうめい)証拠(しょうこ)がない限り(かぎり)自分(じぶん)たちは信仰(しんこう)するかしないかの判断(はんだん)出来ない(できない)言って(いって)いた。モハッマド(PBUH)(もはっまど)預言者(よげんしゃ)として現れる(あらわれる)こと自体(じたい)がかれらのこう言う(いう)言い訳(いいわけ)答え(こたえ)になるのです。

 ここではモハッマド(PBUH)(もはっまど)預言者(よげんしゃ)として現れる(あらわれる)現実(げんじつ)事態(じたい)一つ(ひとつ)明るい(あかるい)証拠(しょうこ)だと言って(いって)いるのです。(かれ)アッラー(あっらー)(ほう)から定められた(さだめられた)預言者(よげんしゃ)であるかないかの判断(はんだん)するために、(かれ)生き方(いきかた)(かれ)生涯(しょうがい)(あいだ)実現(じつげん)した実績(じっせき)(なか)にそれの(しるし)がいっぱいあるのです。0歳(40さい)(かれ)預言者(よげんしゃ)とし定められる(さだめられる)(まえ)とそれの(あと)(かれ)生活(せいかつ)生き方(いきかた)見る(みる)非常(ひじょう)率直(そっちょく)正直(しょうじき)人間(にんげん)見える(みえる)のです。(かれ)(じ)書く(かく)ことも読む(よむ)ことも出来ない(できない)のに(せい)クルアーン(くるあーん)みたいな立派(りっぱ)教え(おしえ)生み出した(うみだした)のは(かれ)個人(こじん)(ちから)知恵(ちえ)ではなかった。(かれ)教育(きょういく)訓練(くんれん)によって(かれ)信者(しんじゃ)仲間(なかま)理想的(りそうてき)立派(りっぱ)道徳(どうとく)持ち主(もちぬし)入れ替わった(いれかわった)(かれ)相手(あいて)納得(なっとく)出来る(できる)ような信仰(しんこう)(はなし)自分(じぶん)自身(じしん)清める(きよめる)ようないろいろな礼拝(れいはい)お祈り(おいのり)仕方(しかた)、またどんなイデオロギー(いでおろぎー)も、どんな経済(けいざい)政治(せいじ)社会(しゃかい)精度(せいど)よりも優る(まさる)ようなイスラーム(いすらーむ)制度(せいど)与えた(あたえた)(かれ)(はなし)行動(こうどう)(あいだ)(なん)矛盾(むじゅん)もなかった。メッカ(めっか)(し)(かれ)(かれ)仲間(なかま)がいくら苛められて(いじめられて)も、いくら迫害(はくがい)されても、またメッカ(めっか)(し)多神教(たしんきょう)(ら)から(かね)地位(ちい)(おんな)のようなどんな誘惑(ゆうわく)が提供されてもそれに負けないで(まけないで)、自分のダーワー(だーわー)広げる(ひろげる)活動(かつどう)止めなかった(やめなかった)。またメヂナー(めぢなー)(し)でのイスラーム(いすらーむ)国家(こっか)があらゆる無信者(むしんじゃ)(てき)から何回(なんかい)軍事(ぐんじ)攻撃(こうげき)されていても、それをうまく防衛(ぼうえい)して、その国家(こっか)イスラーム法(いすらーむほう)基づいて(もとづいて)成立(せいりつ)して、そこで平等(びょうどう)正義(せいぎ)言論(げんろん)自由(じゆう)を実現し、また貧困(ひんこん)もなくすような内容(ないよう)理想的(りそうてき)(くに)社会(しゃかい)作った(つくった)。こういうふうにモハッマド(PBUH)の63年(63ねん)生涯(しょうがい)見る(みる)(かれ)実績(じっせき)が誰でも一般(いっぱん)人間(にんげん)出来る(できる)ようなものがないということがはっきり分かる(わかる)のです。(かれ)一生(いっしょう)生き方(いきかた)実績(じっせき)(かれ)全能(ぜんのう)唯一(ゆいつ)アッラー(あっらー)(ほう)から定められた(さだめられた)預言者(よげんしゃ)であったということの証拠(しょうこ)になるのです。

解説(かいせつ)2):経典(けいてん)の(たみ)信仰(しんこう)証拠(しょうこ)がないから、真実(しんじつ)分からな(わからない)ので分裂(ぶんれつ)した(わけ)ではなかった。彼ら(かれら)信仰(しんこう)証拠(しょうこ)全部(ぜんぶ)見て、それの内容(ないよう)良く(よく)分かって(わかって)もそれをわざと拒否(きょひ)した。分からないで(わからないで)信仰(しんこう)しないことと(なん)でも全部(ぜんぶ)分かって(わかって)いても(きょひ)することがだいぶ違います(ちがいます)。かれらは預言者(よげんしゃ)モハッマド(PBUH)(もはっまど)生涯(しょうがい)生き方(いきかた)実績(じっせき)(かれ)本当(ほんとう)預言者(よげんしゃ)であるということが良く(よく)分かって(わかって)いても拒否(きょひ)していたのです。

 

 

 

 

99(99). 地震(じしん)(アッ(あっ)ザルザラ(ざるざら))(しょう)

(しょう)内容(ないよう)

 イスラーム(いすらーむ)(きょう)の考え方(かんがえかた)によると第一回目(だいいっかいめ)地震(おおじしん)でこの世の中(よのなか)全部(ぜんぶ)滅びて(ほろびて)人間(にんげん)含めて(ふくめて)生き物(いきもの)(みな)死んで(しんで)しまうのです。また第二回目(だいにかいめ)大地震(だいじしん)人間(にんげん)(みな)蘇える(よみがえる)のです。この(しょう)でこの二回目(にかいめ)大地震(だいじしん)(とき)大地(だいち)自分(じぶん)(なか)のすべての重荷(おもに)投げ出して(なげだして)しまうのです。その(とき)人間(にんげん)のすべての行い(おこない)大地(だいち)出して(だして)おいて、それの証人(しょうにん)でもなるのです。人間(にんげん)はこの大地(だいち)(うえ)にやったすべての所業(しょぎょう)のことを大地(だいち)がそれの証人(しょうにん)として提供(ていきょう)するのです。その(とき)人間(にんげん)一つ(ひとつ)微塵(みじん)なほど小さい(ちいさい)行い(おこない)対して(たいして)報い(むくい)処罰(しょばつ)貰う(もらう)のです。

99(99). 地震(じしん)(アッ(あっ)ザルザラ(ざるざら))(しょう)

邦訳

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

大地(だいち)がぐるぐる激しく(はげしく)揺らされる(ゆらされる)とき、大地(だいち)がその重荷(おもに)投げ出し(なげだし)人間(にんげん)がこれに[([)大地(だいち)](])(なに)があったのか、というとき、その(ひ)大地(だいち)は)全て(すべて)消息(しょうそく)語ろう(かたろう)。それは、あなたの(しゅ)[([)大地(だいち)](])そういう命令(めいれい)下さった(くださった)からであろう。その(ひ)人びと(ひとびと)分別(ぶんべつ)された集団(しゅうだん)となって進み出て(すすみでて)、かれらの行い(おこない)彼ら(かれら)見せつけられる(みせつけられる)一つ(ひとつ)微塵(みじん)だけの重さ(おもさ)善行(ぜんこう)でもなした(もの)はそれを見る(みる)一つ(ひとつ)微塵(みじん)だけの重さ(おもさ)悪行(あくぎょう)でもなした(もの)はそれを見る(みる)((解説1))

解説(かいせつ)1):審判(しんぱん)の(ひ)には、どんなに小さな(ちいさな)(よ)いや悪い(わるい)行い(おこない)があっても、それが全部(ぜんぶ)清算(せいさん)されるのです。ただし善行(ぜんこう)場合(ばあい)何倍(なんばい)にも見られ(みられ)悪行(あくぎょう)場合(ばあい)はその(ぶん)だけが一つ(ひとつ)として計算(けいさん)入れ(いれ)らるのです。またアッラー(あっらー)慈悲(じひ)深く(ぶかく)で、人間(にんげん)対して(たいして)凄く(すごく)親切(しんせつ)であるから悪行(あくぎょう)のいくらか、(なに)代わり(かわり)善行(ぜんこう)良い(よい)成績(せいせき)お蔭(おかげ)或いは(あるいは)人間(にんげん)反省(はんせい)して二度(にど)同じ(おなじ)悪行(あくぎょう)をしないというような決心(けっしん)した場合(ばあい)は、おもに大部分(だいぶぶん)許される(ゆるされる)こともかなりあるのです。こういうふうな清算(せいさん)仕方(しかた)によって人間(にんげん)悪行(あくぎょう)重さ(おもさ)段々(だんだん)減って(へって)いて、善行(ぜんこう)重さ(おもさ)がだんだんに重く(おもく)なっていくのです。が何ら(なんら)かの(かたち)微塵(みじん)ほど小さな(ちいさな)行い(おこない)必ず(かならず)清算(せいさん)対象(たいしょう)になるのです。

 信仰(しんこう)無い(ない)(もの)来世(らいせ)考え(かんがえ)をもってないので、そういう(かた)来世(らいせ)目標(もくひょう)として(なに)もやってないから、どんなに現世(げんせ)善行(ぜんこう)をなさって来て(きて)も、そういう(かた)のためには来世(らいせ)(なん)報い(むくい)もないのです。その(かた)自分(じぶん)もそういう可能性(かのうせい)元々(もともと)信じて(しんじて)なかったのです。だから(かれ)自身(じしん)来世(らいせ)(なに)報い(むくい)貰う(もらう)ような(なん)期待(きたい)ももってなかったので、(かれ)対して(たいして)そのとうりの結果(けっか)出る(でる)のも当たり前(あたりまえ)のことになるのです。

 が(かみ)人間(にんげん)対して(たいして)正義(せいぎ)行う(おこなう)ので、そういうふうな信仰(しんこう)無い(ない)(ほう)善行(ぜんこう)報い(むくい)が、この現世(げんせい)であらゆる幸せ(しあわせ)(かれ)希望(きぼう)どうりの物質的(ぶっしつてき)報い(むくい)お金(おかね)財産(ざいさん)地位(ちい)子供(こども)健康(けんこう)などの(かたち)与えられる(あたえられる)のです。

100(100). 進撃(しんげき)する(うま) (アル(ある)アーディヤート(あーでぃやーと)) (しょう)

(しょう)内容(ないよう)

この(しょう)で(うま)の話し(はなし)を出して(だして)、その(とき)のアラブ(あらぶ)で平和(へいわ)のない、不安(ふあん)な状態(じょうたい)を表して(あらわして)いるのです。いきなり、(あさ)早く(はやく)から(うま)に乗った(のった)(てき)の軍勢(ぐんぜい)で進撃(しんげき)される恐れ(おそれ)が、どこの(まち)にもあったのです。こういう不安(ふあん)な状態(じょうたい)の原因(げんいん)は、人間(にんげん)が(とみ)を愛して(あいして)、それに熱中(ねっちゅう)して、(かみ)に対して(たいして)恩知らず(おんしらず)になっている、という(こと)を指摘(してき)されているのです。来世(らいせ)の処罰(しょばつ)のことを信じて(しんじて)ないから、こういうことが起こって(おこって)、不安(ふあん)な状態(じょうたい)が止められない(やめられない)のです。

100(100). 進撃(しんげき)する(うま) (アル(ある)アーディヤート(あーでぃやーと)) (しょう)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

吐く(はく)(いき)荒く(あらく)進撃(しんげき)する((うま))において(誓う(ちかう))。(ひづめ)火花(ひばな)散らし(ちらし)(あかつき)急襲(きゅうしゅう)して、砂塵(さじん)巻き上げ(まきあげ)、((てき)の)軍勢(ぐんぜい)真っただ(まっただ)(なか)突入(とつにゅう)する((うま)において誓う(ちかう))。まことに人間(にんげん)は,自分(じぶん)(しゅ)対し(たいし)恩知らず(おんしらず)である。そして、まことに、そのことにはかれ自身(じしん)が、証言者(しょうげんしゃ)でもあります。また、まことに、((かれ)は)(とみ)愛する(あいする)ことに熱中(ねっちゅう)している。かれは(はか)(なか)のものが発き出される(あばきだされる)(とき)のこと、また(むね)(なか)にあるものが、暴露(ばくろ)され、それを評価(ひょうか)されることを知らない(しらない)のか? まことに彼ら(かれら)(しゅ)は,その(ひ),かれらについて全て(すべて)のことがご存じ(ごぞんじ)でおられる。

第101章(だい101しょう)大打撃(だいだげき) (アルーカーレアー(あるーかーれあー)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

「ある大打撃(だいだげき)!その大打撃(だいだげき)言う(いう)のは(なに)か?その大打撃(だいだげき)(なに)であるのか、それのことがあなたは(なに)分かる(わかる)のですか?その(ひ)は、人間(にんげん)が(ろうそくの周り(まわり)散らす(ちらす)ような)昆虫(こんちゅう)みたいに散らされる(ちらされる)し、山々(やまやま)があらゆる色彩(しきさい)富んだ(とんだ)羊毛(ようもう)覆われる(おおわれる)ようになろう。また、(善行(ぜんこう)で)重り(おもり)重い(おもい)(もの)が、幸福(こうふく)満ち足りて(みちたりて)暮らす(くらす)であろう。だが(善行(ぜんこう)で)重り(おもり)軽い(かるい)(もの)場合(ばあい)は、地獄(じごく)のどん(ぞこ)(かれ)(さと)になるのであろう((解説1))その地獄(じごく)のどん(ぞこ)がどういうものなのか、貴方(あなた)はご存じですか?それは焦熱(しょうねつ)地獄(じごく))の(ひ)(であろう))

(解説1):前章(ぜんしょう)の解説(かいせつ)信仰(しんこう)のない(もの)現世(げんせい)来世(らいせ)清算(せいさん)(はなし)があった。この(しょう)ではこれに対して(たいして)もう一つ(ひとつ)場面(ばめん)明らか(あきらか)にされているのです。それは信仰(しんこう)があるかないかによってその清算(せいさん)重さ(おもさ)大分(だいぶ)変る(かわる)ということです。(しん)仰がない(こうがない)場合(ばあい)(あく)重さ(おもさ)があまりにも重くて(おもくて)無信者(むしんじゃ)がどんなにたくさんの善行(ぜんこう)現世(げんせい)でなさっていても、それの報い(むくい)現世(げんせ)一杯(いっぱい)貰う(もらう)のですが、来世(らいせ)ではその善行(ぜんこう)重さ(おもさ)ゼロ(ぜろ)みたいになるのです。(しん)仰がない(こうがない)という(あく)非常(ひじょう)重い(おもい)(けいさん)されるので、それを軽く(かるく)するために善行(ぜんこう)がいくらあっても、そういうふうな善行(ぜんこう)無信仰(むしんこう)(あく)少し(すこし)軽く(かるく)することが出来ない(できない)のです。

 また(ぎゃく)信仰(しんこう)のある(かた)場合(ばあい)は、その(ぜん)重さ(おもさ)があまりにも重い(おもい)ので、いくら(あく)重さ(おもさ)があっても(ぜん)重さ(おもさ)優らない(まさらない)のです。

 来世(らいせ)では、現世(げんせ)でなさって来た(きた)人間(にんげん)(ぜん)(あく)行い(おこない)報い(むくい)(ばつ)大事(だいじ)ですけれども、一番(いちばん)徹底的(てっていてき)(ぜん)(あく)(なに)かというと、それは信仰(しんこう)があるかないかの(ぜん)(あく)のことであるのです。

102(102). 蓄積(ちくせき)(アッ(あっ)タカースル(たかーする))

(しょう)説明(せつめい)        

貪欲(どんよく)な蓄積(ちくせき)のために,人間(にんげん)の(しん)の目的(もくてき)から迷い去る(まよいさる)(もの)に対する(たいする)警告(けいこく)である。こんな(もの)は災難(さいなん)によって覚醒(かくせい)させ,救う(すくう)ほかない場合(ばあい)が多い(おおい)。この点前(てんぜん)(しょう)と密接(みっせつ)な関係(かんけい)がある。・・・・・・・・・・本章(ほんしょう)はマッカ(まっか)最初期(さいしょき)の啓示(けいじ)に属する(ぞくする)。 (ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)解説(かいせつ))

(もり)の(なか)の動物(どうぶつ)は(あさ)から(ばん)まで獲物(えもの)を探して(さがして)いるのです。彼ら(かれら)の毎日(まいにち)の生活(せいかつ)はそれだけでずっと忙しい(いそがしい)です。無信仰(むしんこう)の人間(にんげん)の毎日(まいにち)の活動(かつどう)も動物(どうぶつ)みたいに毎日(まいにち)貪欲(どんよく)な蓄積(ちくせき)で忙しい(いそがしい)です。死ぬ(しぬ)までそういう(こと)で忙しい(いそがしい)のは、人間(にんげん)の生涯(しょうがい)の空しさ(むなしさ)をあらわしているのです。(め)が覚めて(さめて)自分(じぶん)の生涯(しょうがい)のことを振り替えて(ふりかえて)みると自分(じぶん)が(なん)のために生まれて(うまれて)来た(きた)のかのことを疑問(ぎもん)として残る(のこる)のです。現世(げんせ)でそんな悲しい(かなしい)人生(じんせい)のあとには、また来世(らいせ)でそういうふうな人間(にんげん)が地獄(じごく)に行く(いく)と言う(いう)ことをこの(しょう)で教えて(おしえて)いるのです。だからこの(しょう)の教訓(きょうくん)がそういうふうな結末(けつまつ)に当たらない(あたらない)ように暮らす(くらす)べきです。それは信仰(しんこう)をして善行(ぜんこう)で自分(じぶん)自身(じしん)を忙しく(いそがしく)したほうがいいという教訓(きょうくん)になるのです。

102(102). 蓄積(ちくせき)(アッ(あっ)タカースル(たかーする))

邦訳

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(ぎょめい)において(始めます(はじめます))。

あなたがたは(財産(ざいさん)地位(ちい)息子(むすこ)などのようないろいろな現世(げんせい)欲深い(よくぶかい)ものの)貪欲(どんよく)蓄積(ちくせき)競い合い(きそいあい)のことに夢中(むちゅう)になって、いずれ(はか)追い立てられる(おいたてられる)までも(その競いあい(きそいあい)夢中(むちゅう)になっているのであろう)。断じて(だんじて)、(いや)もうすぐあなたがたは(そういう生き方(いきかた)始末(しまつ)のことを)知る(しる)であろう。もう一度(もういちど)言おう(いおう)か,断じて(だんじて)、(いや)あまり長い(ながい)時間(じかん)がたたないうちに、もうすぐ、あなたがたは

(そういう生きかた(いきかた)始末(しまつ)が)分かる(わかる)のであろう。断じて(だんじて)、あなたがたは確信(かくしん)智識(ちしき)ではっきりと(そういう生き方(いきかた)始末(しまつ)を)理解(りかい)するのであれば(そういう生き方(いきかた)過ごさなかった(すごさなかった)はずであろう)。あなたがたは、火獄(ひごく)必ず(かならず)見る(みる)のであろう。もう一度(もういちど)言おう(いおう)か,あなたがたはそれを絶対(ぜったい)明確(めいかく)に(自分(じぶん)自身(じしん)の)(め)見る(みる)のであろう。その(ひ)にあなたがたは、(かみ)からこの(よ)与えられた(あたえられた)全て(すべて)恵み(めぐみ)扱い(あつかい)対して(たいして)必ず(かならず)問われる(とわれる)のであろう((解説1))

解説(かいせつ)1):信者(しんじゃ)であろうが無信者(むしんじゃ)であろうが(みな)が(かみ)から与えられた(あたえられた)恵み(めぐみ)に対して(たいして)問われる(とわれる)のです。人間(にんげん)が自分(じぶん)の努力(どりょく)や(ちから)の結果(けっか)として恵まれる(めぐまれる)場合(ばあい)もあります。そういう場合(ばあい)は人間(にんげん)が(かみ)のお蔭(おかげ)でそういう恵み(めぐみ)を受けた(うけた)と思う(おもう)のかあるいは、威張って(いばって)いて全部(ぜんぶ)自分(じぶん)自身(じしん)の(ちから)と努力(どりょく)のお蔭(おかげ)と思って(おもって)無感謝(むかんしゃ)になるのか。例えば(たとえば)(ひと)を騙して(だまして)、泥棒(どろぼう)してお金(おかね)を取った(とった)のか。また(かね)の使い方(つかいかた)はどうしているのか。無駄使い(むだづかい)しているのか。人助け(ひとだすけ)のために使って(つかって)いるのか。(かみ)から授けられた(さずけられた)すべての恵み(めぐみ)をどういうふうに使って(つかって)いるのか。そういうふうに人間(にんげん)が受けた(うけた)すべての恩恵(おんけい)に対して(たいして)とわれるのです。

第103(だい103しょう)時代(じだい)(アル(ある)アスル(あする))

(しょう)説明(せつめい)

 このマッカ(まっか)初期(しょき)の啓示(けいじ)は,真理(しんり)を受け入れた(うけいれた)(もの)だけが成功(せいこう)するという,時間(じかん)にかけた証言(しょうげん)である。前章(ぜんしょう)では人生(じんせい)の(しん)の目的(もくてき)から迷い去って(まよいさって),(ざい)の蓄積(ちくせき)に終始(しゅうし)する(もの)に対する(たいする)警告(けいこく)であったが、ここでは時間(じかん)を通じ(つうじ)歴史(れきし)が証明(しょうめい)するように、信仰(しんこう)して純潔(じゅんけつ)な生活(せいかつ)を営み(いとなみ),努力(どりょく)し忍耐(にんたい)することを知る(しる)(もの)には、時間(じかん)はつねに恵み(めぐみ)をもたらすとの教え(おしえ)である。ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)解説(かいせつ)

 

 

内容(ないよう)テーマ(てーま)

 この短い(みじかい)(しょう)の(なか)で(おお)きな(ほん)でも詳しく(くわしく)説明(せつめい)できないほど大事(だいじ)な内容(ないよう)が含まれて(ふくまれて)いるのです。ここで人間(にんげん)の幸福(こうふく)と不幸(ふこう)の(みち)をはっきりとして伝えているのです。この(しょう)の内容(ないよう)を深く(ふかく)理解(りかい)した場合(ばあい)は、人間(にんげん)の導き(みちびき)と幸せ(しあわせ)のためにこれだけで充分(じゅうぶん)です、とイマム(いまむ)・シャファイ(しゃふぁい)が(みな)の納得(なっとく)が得られる(えられる)ように表現(ひょうげん)をしているのです。預言者(よげんしゃ)モハッマド(PBUH)(もはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)の仲間(なかま)たちがお互い(おたがい)にった(あった)(とき)には、この(しょう)をお互い(おたがい)に読んで(よんで)聞いて(きいて)貰わない(もらわない)まで別れなかった(わかれなかった)のです。(チブラニ(ちぶらに))。

解説(かいせつ)1(1):この(しょう)では、時代(じだい)にかけて誓って(ちかって)いるのは(なに)かと言う(いう)と、それは人間(にんげん)が喪失(そうしつ)していることを歴史(れきし)の流れ(ながれ)であらゆる全て(すべて)の時代(じだい)で証明(しょうめい)されているということです。

この(しょう)の内容(ないよう)を理解(りかい)するために、イスラーム(いすらーむ)の有名(ゆうめい)な学者(がくしゃ)イマム(いまむ)・ラージ(らーじ)がある先輩(せんぱい)の先生(せんせい)の話し(はなし)を参考(さんこう)にだしているのです。その先輩(せんぱい)の先生(せんせい)がある(こおり)の販売(はんばい)をしている商人(しょうにん)からある珍しい(めずらしい)販売(はんばい)の進め方(すすめかた)を聞いて(きいて)、この(しょう)の大事さ(だいじさ)を理解(りかい)した、と言って(いって)いるのです。その(こおり)の販売員(はんばいいん)が自分(じぶん)の(こおり)を売る(うる)ために(こえ)をかけていたのは:人人(ひとびと)よ、元金(がんきん)を溶けて(とけて)しまっているようなこの(こおり)の商人(しょうにん)にあわれみをかけてください。」、「人人(ひとびと)よ、元金(がんきん)を溶けて(とけて)しまっているようなこの(こおり)の商人(しょうにん)にあわれみをかけてください。」こういう珍しい(めずらしい)販売(はんばい)の進め方(すすめかた)を見て(みて)その先生(せんせい)がこれで自分(じぶん)がこの(しょう)の第一節(だいいっせつ)と第二節の意味(いみ)が分かった(わかった)、と言った(いった)のです、その第一節(だいいっせつ)はこれです:「時代(じだい)にかけて(誓う(ちかう))。まことに、人間(にんげん)は喪失(そうしつ)の(なか)にいる」(103-1)。これの意味(いみ)は人間(にんげん)のこの世の中(よのなか)に生きる(いきる)期間(きかん)があらかじめ決まって(きまって)いて、それは(とし)を取る(とる)ごとに(こおり)のように速やか(すみやか)に溶けて(とけて)いるのです。その生きる(いきる)期間(きかん)を無駄(むだ)に使ったり(つかったり)、(だれ)にも(なん)の役にも立たない(たたない)ように過ごしたり(すごしたり)、あるいはいけないような悪い(わるい)ことをやって月日(つきひ)を過ごしたり(すごしたり)すると、それはその人間(にんげん)が自分(じぶん)の人生(じんせい)で一番(いちばん)損失(そんしつ)していることになるのです。だから、そういうふうに過ごして(すごして)いる人間(にんげん)の人生(じんせい)のことに対して(たいして)、速やか(すみやか)に過ごして(すごして)いる時代(じだい)や時間(じかん)のことを証明(しょうめい)としてだすためには、それのことを誓う(ちかう)ような(かたち)になっているのです。

  こういうふうに速やか(すみやか)に過ごして(すごして)いる人生(じんせい)の時間(じかん)が証明(しょうめい)しているのは、この(しょう)で言って(いって)いる四つ(よっつ)の性質(せいしつ)を持って(もって)いない人間(にんげん)のことが物凄く(ものすごく)損失(そんしつ)している人間(にんげん)だろう、ということです。得して(とくして)いるのは、この四つ(よっつ)の性質(せいしつ)を持って(もって)人生(じんせい)を過ごして(すごして)いる(ひと)(たち)だけです。これの(れい)として学生(がくせい)たちの試験(しけん)の経験(けいけん)で良く(よく)分かります(わかります)・試験(しけん)の部屋(へや)に入って(はいって)、試験(しけん)にでている問題(もんだい)の答え(こたえ)を書かないで(かかないで)、よけいなことでその試験(しけん)の時間(じかん)を過ごして(すごして)しまえば、それほど損失(そんしつ)している学生(がくせい)はこの世の中(よのなか)にないだろう。

 (せい)クルアーン(くるあーん)の(なか)には、人間(にんげん)の不幸(ふこう)や幸福(こうふく)、(あるい)は、損失(そんしつ)や得する(とくする)ような言葉(ことば)が使われて(つかわれて)いる場合(ばあい)は、それは全部(ぜんぶ)がこの(よ)と来世(らいせ)、両方(りょうほう)の世界(せかい)にあてはまる言葉(ことば)であるのです。この(せつ)で損失(そんしつ)や喪失(そうしつ)の言葉(ことば)を使われて(つかわれて)いるのも、現代(げんだい)と来世(らいせ)両方(りょうほう)にあてはまるのです。商売(しょうばい)で一つ(ひとつ)の取引(とりひき)でする(そんする)こともあれば、全体(ぜんたい)で倒産(とうさん)することもあるのです。おなじく、この(しょう)で指摘(してき)されている四つ(よっつ)の性質(せいしつ)を持って(もって)いない人間(にんげん)は現代(げんだい)でも、来世(らいせ)でも、損失(そんしつ)することになるのです。

人間(にんげん)のいろいろな時代(じだい)時間(じかん)流れ(ながれ)損失(そんしつ)をしないで、(とく)をしているのが、四つ(よっつ)性質(せいしつ)持って(もって)いる人人(ひとひと)だけなのです。その第一(だいいち)信仰(しんこう)第二(だいに)善行(ぜんこう)第三(だいさん)第四(だいよん)は、お互い(おたがい)正義(せいぎ)(みち)忍耐(にんたい)のことを語り合う(かたりあう)性質(せいしつ)のことです。これらの性質(せいしつ)のことが一つ一つ(ひとつひとつ)詳しく(くわしく)理解(りかい)しなければこの(せい)クルアーン(くるあーん)言われて(いわれて)いる言葉(ことば)真実性(しんじつせい)把握(はあく)できないのです。

 その四つ(よっつ)性質(せいしつ)(なか)第一(だいいち)なのは信仰(しんこう)です。信仰(しんこう)ということの第一(だいいち)は、(ゆいいつ)全能(ぜんのう)(かみ)アッラー(あっらー)だけだということを認める(みとめる)べきです。この文書(ぶんしょ)でこれから「(かみ)」と言う(いう)言葉(ことば)出会った(であった)場合(ばあい)は、それが唯一(ゆいいつ)の、全能(ぜんのう)の、(かみ)アッラー(あっらー)のことだと思って(おもって)下さい(ください)。その(かみ)存在(そんざい)認める(みとめる)だけじゃなくて、この(よ)のことも、あの(よ)ことも、この宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)も、生き物(いきもの)すべての生まれて(うまれて)(とき)から死ぬ(しぬ)まで面倒(めんどう)見て(みて)いるのも、人間(にんげん)含めて(ふくめて)すべての生き物(いきもの)運命(うんめい)も、偶然(ぐうぜん)じゃなくて、その御方(おかた)以外(いがい)(だれ)支配(しはい)していないのです。

 だから、人間(にんげん)としてはその「(かみ)」だけを崇拝(すうはい)して、その御方(おかた)教え(おしえ)のみが第一(だいいち)義務(ぎむ)として従う(したがう)べきであるのです。その「(かみ)」だけが人間(にんげん)(うん)良く(よく)したり、悪く(わるく)したりしているのです。願い(ねがい)ごと全て(すべて)をその御方(おかた)頼む(たのむ)べきです。頼る(たよる)べきものもその御方(おかた)だけです。(かれ)だけに命令(めいれい)下さ(くださる)物事(ものごと)禁じる(きんじる)権利(けんり)属して(ぞくして)いるのです。だから、私たち(わたしたち)がその「(かみ)」の(しもべ)としてその御方(おかた)からでたすべての命令(めいれい)従う(したがう)べきで、禁じられた(きんじられた)ことをすべてやめていくべきであるのです。

 その御方(おかた)(なん)でも見たり(みたり)聞いたり(きいたり)する能力(のうりょく)持って(もって)いるのです。人間(にんげん)全て(すべて)行為(こうい)だけじゃなくて、その行為(こうい)(うら)にある、人間(にんげん)(こころ)(なか)隠れて(かくれて)いる目的(もくてき)動機(どうき)までもその「(かみ)」に全部(ぜんぶ)見えて(みえて)いるのです。

 信仰(しんこう)ということの第二(だいに)は、預言者(よげんしゃ)のことを信じる(しんじる)べきです。預言者(よげんしゃ)は「(かみ)」から定められた(さだめられた)聖者(せいじゃ)人類(じんるい)対して(たいして)指導者(しどうしゃ)であるのです。(かれ)(なに)教えて(おしえて)も、その教え(おしえ)のすべてが「(かみ)」からであって、合法的(ごうほうてき)なもので、人類(じんるい)がそれに従う(したがう)べきことであるのです。預言者(よげんしゃ)信じる(しんじる)ということは、天使(てんし)たちとすべての預言者(よげんしゃ)たちとクルアーン(くるあーん)とそれと同じく(おなじく)(かみ)」から啓示(けいじ)されたすべての聖典(せいてん)信じる(しんじる)べきであるのです。預言者(よげんしゃ)自体(じたい)がそういうもの全部(ぜんぶ)信じる(しんじる)べきだと教えて(おしえて)いるからです。

 信仰(しんこう)ということの第三(だいさん)は、来世(らいせ)のことを信じる(しんじる)べきであるのです。人間(にんげん)の現世の人生(じんせい)だけが全て(すべて)ではないのです。これだけで最初(さいしょ)最後(さいご)人生(じんせい)ではないのです。死んで(しんで)から人間(にんげん)がもう一回(いっかい)(いま)同じ(おなじ)(からだ)復活(ふっかつ)されるのです。この現世(げんせ)でやった全て(すべて)行い(おこない)対して(たいして)(かみ)」に精算(せいさん)しなければいけないのです。それで善行(ぜんこう)行い(おこない)方々(かたがた)良い(よい)報い(むくい)貰って(もらって)悪者(わるもの)たちが罰せられる(ばっせられる)のです。

 この信仰(しんこう)良い(よい)道徳(どうとく)立派(りっぱ)人格(じんかく)(す)晴らし(ばらし)人柄(ひとがら)育てる(そだてる)ために強い(つよい)基盤(きばん)になるのです。それに基づいて(もとづいて)上品(じょうひん)社会(しゃかい)出来上がる(できあがる)ことが可能(かのう)になるのです。こういう信仰(しんこう)基づいた(もとづいた)基盤(きばん)がなかったら人間(にんげん)社会(しゃかい)安定(あんてい)した、道徳(どうとく)基づいた(もとづいた)立派(りっぱ)発展(はってん)出来ない(できない)し、また現代(げんだい)みたいな犯罪(はんざい)多い(おおい)社会(しゃかい)方向(ほうこう)へだんだん進んで(すすんで)いきますし、また(かく)個人(こじん)ストレス(すとれす)毎日(まいにち)不安(ふあん)負けて(まけて)自殺(じさつ)方向(ほうこう)へ迎えるようになるのです。日本(にほん)過去(かこ)十年間(じゅうねんかん)あまりのあいだ毎年(まいとし)三万人(さんまんにん)以上(いじょう)自殺(じさつ)しているのもこういう信仰(しんこう)がないからです。来世(らいせ)永久(えいきゅう)人生(じんせい)があって、そこで永久(えいきゅう)罰せられる(ばっせられる)という恐れ(おそれ)がない限り(かぎり)犯罪(はんざい)自殺(じさつ)止められない(とめられない)のです。

 それは、この(しょう)人間(にんげん)損失(そんしつ)理由(りゆう)として第一番目(だいいちばんめ)にこういうふうな信仰(しんこう)性質(せいしつ)持って(もって)ないことをあげているのです。

 人間(にんげん)人生(じんせい)失敗(しっぱい)しないで、損失(そんしつ)のないような人生(じんせい)送りたい(おくりたい)場合(ばあい)は、この(しょう)言われて(いわれて)いる必要(ひつよう)四つ(よっつ)性質(せいしつ)(なか)信仰(しんこう)(あと)には、第二(だいに)性質(せいしつ)善行(ぜんこう)であるのです。(せい)クルアーン(くるあーん)言って(いって)いる善行(ぜんこう)のなかではあらゆるすべての美徳(びとく)がはいっているのです。どんなに小さい(ちいさい)徳行(とっこう)でもその(なか)入って(はいって)いるのです。けれども、(せい)クルアーン(くるあーん)善行(ぜんこう)言って(いって)いる行い(おこない)二つ(ふたつ)条件(じょうけん)があるのです。その第一(だいいち)は、その徳行(とっこう)信仰(しんこう)基づいた(もとづいた)行為(こうい)じゃなければいけないのです。その第二(だいに)は、「(かみ)」と預言者(よげんしゃ)教え(おしえ)従う(したがう)ような行為(こうい)じゃなければいけないのです。この二つ(ふたつ)条件(じょうけん)満たせない(みたせない)徳行(とっこう)場合(ばあい)は、「(かみ)」はこの現世(げんせ)必ず(かならず)報い(むくい)をくれるのですが、来世(らいせ)永久(えいきゅう)人生(じんせい)では、こういう(かた)(なん)報酬(ほうしゅう)与えられない(あたえられない)のです。

 だから、(せい)クルアーン(くるあーん)では善行(ぜんこう)教え(おしえ)(とも)必ず(かならず)信仰(しんこう)のことがそのすぐ直前(ちょくぜん)書いて(かいて)あるのです。この(しょう)場合(ばあい)でも善行(ぜんこう)直前(ちょくぜん)に信仰のことが強調(きょうちょう)されているのです。

 また(くち)自分(じぶん)信仰(しんこう)していると唱えて(となえて)信頼(しんらい)受けられない(うけられない)のです。その口先(くちさき)の話しはその信仰(しんこう)基づいた(もとづいた)徳行(とっこう)証明(しょうめい)しなければいけないのです。自分(じぶん)良い(よい)行い(おこない)証拠(しょうこ)をだせるような信仰(しんこう)だけが有益(ゆうえき)であるような、頼もしい(たのもしい)ものとして見られる(みられる)のです。そうじゃない場合(ばあい)は、信仰(しんこう)のことは自分(じぶん)自身(じしん)否定(ひてい)しているのと等しい(ひとしい)ことになるのです。というのは、口先(くちさき)自分(じぶん)信仰(しんこう)しているようなことを(おおやけ)言いながら(いいながら)、「(かみ)」と預言者(よげんしゃ)教え(おしえ)違反(いはん)行い(おこない)があった場合(ばあい)は、自分(じぶん)自身(じしん)がその信仰(しんこう)否定(ひてい)しているようなことになるのです。

 信仰(しんこう)善行(ぜんこう)間柄(あいだがら)は種(はたね)樹木(じゅもく)同じ(おなじ)ようなことであるのです。(たね)がないと樹木(じゅもく)がでてこない。信仰(しんこう)がないと善行(ぜんこう)はむりになるのです。信仰(しんこう)があって善行(ぜんこう)がない場合(ばあい)死んだ(しんだ)種が(つち)(なか)埋められて(うめられて)いると同じ(おなじ)ことになるのです。だから、(せい)クルアーン(くるあーん)であらゆるすべての吉報(きっぽう)与えられて(あたえられて)いる全部(ぜんぶ)信仰(しんこう)持って(もって)、またそれに基づいて(もとづいて)善行(ぜんこう)(かならず)やる(ひと)(たち)(ため)であるのです。おなじことがこの(しょう)でも言われて(いわれて)いるのです。人間(にんげん)損失(そんしつ)から助けられる(たすけられる)ために信仰(しんこう)(つぎ)善行(ぜんこう)もやるような性質(せいしつ)持って(もって)いなければならないのです。と言う(いう)のは、善行(ぜんこう)がなくて信仰(しんこう)だけでは人間(にんげん)損失(そんしつ)から助からない(たすからない)のです。

 ここまで述べて(のべて)きた二つ(ふたつ)性質(せいしつ)(かく)個人(こじん)持たなければ(もたなければ)ならないのです。そのあと損失(そんしつ)から助けられる(たすけられる)ためにまた二つ(ふたつ)(べつ)性質(せいしつ)持たなければ(もたなければ)ならないのです。それは、信仰(しんこう)をして善行(ぜんこう)もやっている(ひと)(たち)は、またお互い(おたがい)正しい(ただしい)(みち)をたどるように、それと我慢強く(がまんづよく)忍耐(にんたい)のことも頑張る(がんばる)ように熱心(ねっしん)説き進めなければ(ときすすめなければ)いけないのです。というのは、信仰(しんこう)善行(ぜんこう)行う(おこなう)(ひと)(たち)自分(じぶん)自身(じしん)個人(こじん)中心(ちゅうしん)勝手(かって)生活(せいかつ)営む(いとなむ)ことじゃなくて、そういう個人(こじん)個人(こじん)(みな)(ちから)合わせて(あわせて)道義的(どうぎてき)正しい(ただしい)有徳(ゆうとく)な、廉直(れんちょく)社会(しゃかい)生み出す(うみだす)べきであるのです。また、社会(しゃかい)悪い(わるい)方向(ほうこう)行かない(いかない)ようにお互い(おたがい)正義(せいぎ)忍耐(にんたい)のことを熱心(ねっしん)説き進める(ときすすめる)べきであるのです。だから最初(さいしょ)二つ(ふたつ)性質(せいしつ)(しんこう)善行(ぜんこう)一緒(いっしょ)最後(さいご)二つ(ふたつ)性質(せいしつ)正義(せいぎ)忍耐(にんたい)のことをお互い(おたがい)説き進めあう(ときすすめあう)ことも持たない(もたない)人間(にんげん)個人的(こじんてき)にも、社会的(しゃかいてき)にも、損失(そんしつ)から助からない(たすからない)のです。この(しょう)語って(かたって)いるこの真実性(しんじつせい)歴史(れきし)のどんな時代(じだい)でも証明(しょうめい)されているのです。

 ここで正義(せいぎ)二つ(ふたつ)意味(いみ)使われて(つかわれて)いるのです。その一つ(ひとつ)は、正当(せいとう)な、公平(こうへい)な、真実(しんじつ)基づいた(もとづいた)こと。それは信仰(しんこう)教義(きょうぎ)関して(かんして)あろうが、或いは(あるいは)現世(げんせ)日常(にちじょう)生活(せいかつ)対して(たいして)であろうが、両方(りょうほう)場合(ばあい)正しい(ただしい)(みち)辿る(たどる)べきであるのです。

 その二つ目(ふたつめ)意味(いみ)は、他人(たにん)や、「(かみ)」や、自分(じぶん)自身(じしん)対して(たいして)発生(はっせい)するすべての義務(ぎむ)をちゃんと果たす(はたす)べきであるということです。

 お互い(おたがい)正義(せいぎ)のことを説き進む(ときすすむ)場合(ばあい)は、お互い(おたがい)対して(たいして)発生(はっせい)する全て(すべて)義務(ぎむ)果たす(はたす)ことになるのです。そういう社会(しゃかい)出来上がった(できあがった)場合(ばあい)(みな)平和(へいわ)平等(びょうどう)公平(こうへい)暮らす(くらす)ようになるのです。現代(げんだい)社会(しゃかい)でお互い(おたがい)に対して(たいして)存在(そんざい)している不満(ふまん)とか文句(もんく)や自分(じぶん)の権利(けんり)が奪われる(うばわれる)ような恐れ(おそれ)が発生(はっせい)しないのです。

 これのもう一つ(ひとつ)の場面(ばめん)は、社会(しゃかい)で(うそ)偽り(いつわり)のことが盛ん(さかん)になっていて、不正義(ふせいぎ)の行為(こうい)が平気(へいき)で発生(はっせい)しているのに、皆さん(みなさん)が黙って(だまって)それを見て(みて)いるだけのようなことがいけないのです。この状態(じょうたい)の反対(はんたい)に、(うそ)偽り(いつわり)のことが社会(しゃかい)でちょっとでもどこかで現れたら(あらわれたら)、互いに(たがいに)正義(せいぎ)の説き勧め(ときすすめ)でそれをすぐ止める(とめる)ようにするべきであるのです。だから、この(しょう)で教えて(おしえて)いる第三(だいさん)と第四(だいよん)性質(せいしつ)で互いに(たがいに)説き勧め(ときすすめ)ることによって社会(しゃかい)で不正義(ふせいぎ)と嘘偽り(いつわり)のことが起こらなく(おこらなく)なって、平和(へいわ)な、公平(こうへい)な社会(しゃかい)が構成(こうせい)されるのです。(かく)個人(こじん)が信仰(しんこう)をもって、良い(よい)行い(おこない)をやって、周り(まわり)の人人(ひとひと)に対して(たいして)発生(はっせい)する道義的(どうぎてき)なすべての義務(ぎむ)のこともちゃんと果たす(はたす)だけじゃなくて、理想的(りそうてき)な良い(よい)社会(しゃかい)も構成(こうせい)するように(どりょく)することも(かく)個人(こじん)がやらなければいけないのです。このことによって、社会(しゃかい)が道徳的(どうとくてき)な退化(たいか)と道義的(どうぎてき)な退廃(たいはい)とモラル(もらる)の腐食(ふしょく)から守られる(まもられる)のです。

 また、この第三(だいさん)と第四(だいし)の性質(せいしつ)で教えられて(おしえられて)いるように、互いに(たがいに)正義(せいぎ)とそのために忍耐(にんたい)のことが説き進めない(ときすすめない)場合(ばあい)は、生まれて(うまれて)くる損失(そんしつ)は社会(しゃかい)のモラル(もらる)腐食(ふしょく)以外(いがい)に、もう一つ(ひとつ)(べつ)の損失(そんしつ)も出て(でて)くる。互いに(たがいに)説き進める(ときすすめる)ことによって、社会(しゃかい)であらゆる邪悪(じゃあく)が出ない(でない)ようにしな場合(ばあい)は、そういう人々(ひとびと)が「(かみ)」から罰せられる(ばっせられる)のです。 こういうふうな罰当たり(ばちあたり)の損失(そんしつ)を避ける(さける)ためには、この第三(だいさん)と第四(だいし)の性質(せいしつ)を育てる(そだてる)必要(ひつよう)があるのです。

 この正義(せいぎ)のことと忍耐(にんたい)のことを説き進める(ときすすめる)ことが、イスラーム(いすらーむ)(きょう)の特集(とくしゅう)の言葉(ことば)ではダアワー(だあーわ)」の一部(いちぶ)でも言える(いえる)のです。この言葉(ことば)が普段(ふだん)もっと広い(ひろい)意味(いみ)で使われて(つかわれて)いるのです。信者(しんじゃ)ではない方々(かたがた)に信仰(しんこう)のことを説明(せつめい)したり、信者(しんじゃ)の(ひと)たちがお互い(おたがい)に自分(じぶん)自身(じしん)の信仰(しんこう)をもっと強めたり(つよめたり)、或いは(あるいは)一般(いっぱん)社会(しゃかい)でどんな正義(せいぎ)と良い(よい)道徳(どうとく)のことでも説き進めたり(ときすすめたり)、そういう全て(すべて)の活動(かつどう)が「ダアワー(だあわー)」の定義(ていぎ)に入る(はいる)のです。だから、この(しょう)で教えられて(おしえられて)いる第三(だいさん)と第四(だいし)の説き進める(ときすすめる)(かつどう)も、「ダアワー(だあわー)」として(みな)でやらなければならない義務(ぎむ)のことがはっきり分かる(わかる)ようにしているのです。また、そういう「ダアワー(だあわー)」の義務(ぎむ)を(みな)がちゃんと果たさなければ(はたさなければ)、「(かみ)」に罰せられる(ばっせられる)のです。

 こういう場合(ばあい)の罰当たり(ばちあたり)のことが(せい)クラアーン(くらあーん)では、ほかのところでももっと詳しく(くわしく)書いて(かいて)あるのです。自分(じぶん)だけが信仰(しんこう)を持って(もって)、個人的(こじんてき)にどんなに良い(よい)行為(こうい)や善行(ぜんこう)をやっても、(ひと)に説き進める(ときすすめる)ような「ダアワー(だあわー)」のことをしない場合(ばあい)は、「(かみ)」に罰せられる(ばっせられる)という損失(そんしつ)が避けられない(さけられない)のです。ということは、何回(なんかい)も何回(なんかい)も(せい)クラアーン(くらあーん)でいろいろな(かたち)で教えられて(おしえられて)いるのです。

 こういうことの(れい)が(せい)クルアーン(くるあーん)で、第五章(だいごしょう)のアルーマエダ(あるーまえだ)の第77(だい77)と78節(78せつ)にも書いて(かいて)あるのです。ここで「(かみ)」の怒り(いかり)が、デヴィド(でヴぃど)とマリヤ(まりや)の(こ)、イエス(いえす)・キリスト(きりすと)、預言者たちによってバニ(ばに)・イスライル(いすらいる)という民族(みんぞく)、現在(げんざい)それはユダヤ(ゆだや)(きょう)といわれている民族(みんぞく)が、(のろ)わられているような(かたち)でれて(あらわれて)いるのです。その呪われた(のろわれた)理由(りゆう)としては、社会(しゃかい)で邪悪(じゃあく)のことが流行って(はやって)、どんどん増えて(ふえて)いても、バニ(ばに)・イスライル(いすらいる)民族(みんぞく)が、互いに(たがいに)説き進める(ときすすめる)ことによって、それを止めよう(とめよう)としなかったからなのです。

その呪われた(のろわれた)結果(けっか)がどういうふうにあらわれたのでしょうか?答え(こたえ)は、この民族(みんぞく)の歴史(れきし)をみると彼ら(かれら)はあらゆる(かたち)で「(かみ)」に罰せられて(ばっせられて)いるのです。このユダヤ(ゆだや)(きょう)民族(みんぞく)が自分(じぶん)自身(じしん)のことが世界(せかい)の(いま)までの歴史(れきし)の(なか)で、一番(いちばん)迫害(はくがい)された民族(みんぞく)と言って(いって)いるのです。迫害(はくがい)されたということは、「(かみ)」からの罰当たり(ばちあたり)の対象(たいしょう)になった、ということになるのです。

 また同じ(おなじ)ようなことが第七章(だいななしょう)のアル(ある)・アアラフ(ああらふ)の(だい)(163~166)(せつ)にも書いて(かいて)あるのです。聖書(せいしょ)で定められた(さだめられた)安息(あんそく)(び)(サバト(さばと))で、「(かみ)」に仕事(しごと)を辞めて(やめて)その(ひ)にお祈り(おいのり)などするように命じられた(めいじられた)のに、バニ(ばに)・イスライル(いすらいる)が「(かみ)」の命令(めいれい)に従う(したがう)ようなことをしないで、それを違反(いはん)しながら、(さかな)を取る(とる)仕事(しごと)を平気(へいき)でやっていたのです。(かみ)」の命令(めいれい)を平気(へいき)で無視(むし)するという(つみ)のことで「(かみ)」に罰せられて(ばっせられて)みな死んで(しんで)しまったのです。その(ばつ)から守られた(まもられた)のは、そういうふうな(つみ)を行わない(おこなわない)ように説き進めて(ときすすめて)いた僅か(わずか)な(ひと)たちだけです。

 また同じ(おなじ)ようなことが第八章(だいはちしょう)のアル(ある)・アンファアル(あんふぁある)の第25節(だい25せつ)にも書いて(かいて)あるのです。ここで言い方(いいかた)がちょっと違って(ちがって)いるのです。悪い(わるい)ことを行って(おこなって)いる人々(ひとびと)だけに限らない(かぎらない)「(かみ)」の怒り(いかり)と(ばつ)から自分(じぶん)自身(じしん)を守りなさい(まもりなさい)、と。自分(じぶん)自身(じしん)が悪い(わるい)行い(おこない)やらないだけで{(かみ)」の罰当たり(ばちあたり)から助けられないのです。そういう方々(かたがた)が(ひと)に説き進めないで(ときすすめないで)、周り(まわり)に邪悪(じゃあく)がだんだん流行って(はやって)いたのに、それに対して(たいして)黙って(だまって)いて、自分(じぶん)中心(ちゅうしん)の生活(せいかつ)だけに夢中(むちゅう)でいたからです。

 だから、(せい)クルアーン(くるあーん)の第三章(だいさんしょう)の第104節(だい104せつ)で、アマル(あまる)・ビルマルフ(びるまるふ)とネヒ(ねひ)・アニル(あにる)・ムンカル(むんかる)のことがムスリム(むすりむ)・ウッマー(うっまー)の大事(だいじ)な義務(ぎむ)として定められて(さだめられて)いるのです。また、同じ(おなじ)(しょう)の第110節(だい110せつ)では、こういう義務(ぎむ)をちゃんと果たす(はたす)ウッマー(うっまー)のことが世界(せかい)で一番(いちばん)良い(よい)ウッマー(うっまー)といわれているのです。イスラ(いすら)ー(む)(ほう)を大事(だいじ)にしているムスリム(むすりむ)国家(こっか)でこういうことが(くに)で責任(せきにん)をもって管理(かんり)するために政府(せいふ)からこの仕事(しごと)のために専門(せんもん)の大臣(だいじん)も任務(にんむ)されているところもあるのです。この意味(いみ)は、イスラーム(いすらーむ)の(くに)としてただ説き進める(ときすすめる)だけじゃなくて、(くに)の法律(ほうりつ)の(ちから)でも、イスラーム(いすらーむ)社会(しゃかい)で善行(ぜんこう)と良い(よい)道徳(どうとく)のことが実行(じっこう)させておいて、邪悪(じゃあく)と全て(すべて)の悪い(わるい)ことが(くに)の警察(けいさつ)と裁判(さいばん)の(ちから)で止める(とめる)義務(ぎむ)があるのです。

 善行(ぜんこう)と道徳(どうとく)に基づいた(もとづいた)良い(よい)行い(おこない)のことだけじゃなくて、この(しょう)の第四(だいよん)性質(せいしつ)でいわれているように、互いに(たがいに)忍耐(にんたい)と艱難(かんなん)辛苦(しんく)に堪える(たえる)ことも説き進めなければ(ときすすめなければ)いけないのです。それは、人間(にんげん)社会(しゃかい)では、正義(せいぎ)に基づいた(もとづいた)行い(おこない)をやり続けよう(やりつづけよう)としている人々(ひとびと)が大変(たいへん)な苦労(くろう)して、苦難(くなん)に耐える(たえる)ようなこともしなればいけないようなことになっているからです。

 このことの大事(だいじ)さが(せい)クラアーン(くらあーん)の第90(だい90)のアル(ある)・バラド(ばらど)(しょう)の第17節(だい17せつ)の第14(だい14)解説(かいせつ)でマウドヂー(まうどぢー)先生(せんせい)がもっと理解(りかい)するように詳しく(くわしく)書いて(かいて)あるのです。この先生(せんせい)の説明(せつめい)では、人間(にんげん)が正しい(ただしい)(みち)を辿ろう(たどろう)としたら、一生(いっしょう)あらゆることで忍耐(にんたい)と艱難(かんなん)(しんく)に堪える(たえる)ようなことになるのです。例えば(たとえば)、自分(じぶん)が信仰(しんこう)の(みち)へ入った(はいった)とか、自分(じぶん)がイスラーム(いすらーむ)(きょう)に入信(にゅうしん)したとかいったとたんに、その(ひ)から毎日(まいにち)5回(5かい)の礼拝(れいはい)の義務(ぎむ)が発生(はっせい)します。それが時間(じかん)どおりにちゃんと果たす(はたす)ためにだいぶ忍耐(にんたい)と覚悟(かくご)が必要(ひつよう)であるのです。そのために、(あさ)早く(はやく)起きたり(おきたり)、仕事(しごと)の忙しい(いそがしい)ときにそれを一時的(いちじてき)に休んだり(やすんだり)、いくら疲れて(つかれて)いて凄く(すごく)眠く(ねむく)ても寝ないで(ねないで)礼拝(れいはい)の義務(ぎむ)を毎日(まいにち)5回(5かい)果たす(はたす)のにだいぶ忍耐(にんたい)がいるのです。

 同じく(おなじく)、「(かみ)」のすべての命令(めいれい)にちゃんと従う(したがう)ためとそれを気持ち(きもち)よ服従(ふくじゅう)する(ため)には、忍耐(にんたい)を込めて(こめて)、辛抱強く(しんぼうづよく)行動(こうどう)にうつらなければいけないのです。(あく)の行為(こうい)をすべて辞めて(やめて)、よい道徳(どうとく)の(みち)に走る(はしる)のに、まただい忍耐(にんたい)の性質(せいしつ)を(そだてる)必要(ひつよう)があるのです。どんな人間(にんげん)社会(しゃかい)でも、(つみ)の誘惑(ゆうわく)が多い(おおい)のです。だから、それを乗り越える(のりこえる)ほどの忍耐(にんたい)がいつでも必要(ひつよう)になるのです。日常(にちじょう)生活(せいかつ)の(なか)で「(かみ)」のしい(ただしい)(みち)に走った(はしった)(ひと)が、あらゆる困難(こんなん)と艱難(かんなん)と耐えがたい(たえがたい)苦労(くろう)に直面(ちょくめん)することがあるのです。またそれの(ぎゃく)に、それを拒んで(こばんで)、「(かみ)」の命令(めいれい)と教え(おしえ)の反対(はんたい)のことやれば、かなり利益(りえき)と楽しむ(たのしむ)可能性(かのうせい)がでてくることがあるのです。忍耐(にんたい)のない信者(しんじゃ)の場合(ばあい)は、こういうことに負けないで(まけないで)進む(すすむ)のが非常(ひじょう)に難しい(むずかしい)のです。

 マウドヂー(まうどぢー)先生(せんせい)が忍耐(にんたい)のもう一つ(ひとつ)の場面(ばめん)も指摘(してき)しているのです。(だれ)でも信仰(しんこう)の(みち)へ走ろう(はしろう)ということが決定(けってい)したとたんに、(かれ)が自分自身(じぶんじしん)の内面(ないめん)からの(ゆうわく)と私利私欲利己心自分(じぶん)の家族(かぞく)や部族(ぶぞく)や民族(みんぞく)や(まわ)りの人々(ひとびと)や社会(しゃかい)や自分(じぶん)の村人(むらびと)や国民(こくみん)や国家(こっか)みたいなあらゆる卑劣(ひれつ)な人間(にんげん)やジン(じん)からもいろいろなわけのわからない妨害(ぼうがい)と敵対(てきたい)(しん)に直面(ちょくめん)するようなことになるのです。場合(ばあい)によって自分(じぶん)の常時(じょうじ)住んで(すんで)いる(くに)から移住(いじゅう)するようなことも起こる(おこる)可能性(かのうせい)もあって、またそういう(あく)や卑劣(ひれつ)(こころ)もつ(ほう)が戦うや(たたかうや)ジハド(じはど)しなければならないようなこともありうるのです。だから、そういう事情(じじょう)で、忍耐(にんたい)の性質(せいしつ)をもっている信者(しんじゃ)だけが自分(じぶん)の信念(しんねん)が固く(かたく)守る(まもる)ことができるのです。

 それで、そういう信者(しんじゃ)が個人(こじん)個人(こじん)で、そういう大変(たいへん)な妨害(ぼうがい)と敵対(てきたい)(しん)と戦う(たたかう)としたら負けて(まけて)しまう可能性(かのうせい)がたかいのです。信者(しんじゃ)が一人(ひとり)の場合(ばあい)は、こういう試み(こころみ)の(とき)が負けて(まけて)しまうことがありうるのです。だから、負けないで(まけないで)(みな)がお互い(おたがい)に(ちから)になって、助けあう(たすけあう)ために、この(しょう)で互いに(たがいに)忍耐(にんたい)のことが説き進める(ときすすめる)ように教えられて(おしえられて)いるのです。ある社会(しゃかい)ですべての個人(こじん)個人(こじん)が忍耐(にんたい)強く(つよく)で、またみんなが互いに(たがいに)忍耐(にんたい)強く(つよく)なれるように説き進めあう(ときすすめあう)ことをしている場合(ばあい)は、その社会(しゃかい)があらゆる幸運(こううん)にめぐまれてくるでしょう。それで、社会(しゃかい)から(あく)追い(おい)はらうために全体的(ぜんたいてき)に無限(むげん)の(ちから)が発生(はっせい)されてくるのでしょう。それで、人間(にんげん)社会(しゃかい)をよい道徳(どうとく)の(みち)の(ほう)へ連れて(つれて)行く(いく)のに物凄い(ものすごい)準備(じゅんび)が整える(ととのえる)でしょう。

 だから、上記(じょうき)で述べられて(のべられて)いるように一つ一つ(ひとつひとつ)性質(せいしつ)のことが詳しく(くわしく)理解(りかい)できれば、この(しょう)で教えられて(おしえられて)いる四つ(よっつ)の性質(せいしつ)が持って(もって)ない人間(にんげん)とそういう社会(しゃかい)が、どんな時代(じだい)でも、大変(たいへん)(おお)きいな損失(そんしつ)をしていることになるのです。

第104章(だい104しょう)アル(ある)・フマザ章 慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。 

災い(わざわい)あれ、当人(とうにん)(まえ)(かれ)対して(たいして)中傷(ちゅうしょう)をする(もの)と、当人(とうにん)がいない(とき)にかれに対して(たいして)陰口(かげぐち)をいう(もの)すべてに。それは(ざい)集め(あつめ)、それをずっと増やしながら(ふやしながら)何回(なんかい)何回(なんかい)もそれを数える(かぞえる)勘定(かんじょう)夢中(むちゅう)になる(もの)(かれ)は、(おのれ)(ざい)(おのれ)永久(えいきゅう)生かして(いかして)くれると勝手(かって)思い込んで(おもいこんで)いるのである。決して(けっして)そうではない。かれは必ず(かならず)粉砕(ふんさい)する(ひ)(なか)に,投げ込まれる(なげこまれる)のである。あなたは粉砕(ふんさい)する(ひ)(なん)だろか、ということが分かって(わかって)いるのですか。(それは)ぼうぼうと燃えて(もえて)いるアッラー(あっらー)(ひ)心臓(しんぞう)まで焼き尽し(やきつくし)、(彼ら(かれら)入れられた(いれられた)その地獄(じごく)は)かれらの頭上(ずじょう)完全(かんぜん)覆い被される(おおいかぶされる)のである。(彼ら(かれら)は)かなり長い(ながい)(ひ)列柱(れっちゅう)(なか)に(囲まれて(かこまれて)いるのである。)

(しょう)内容(ないよう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)は前章(ぜんしょう)の場合(ばあい)とは正反対(せいはんたい)に,永遠(えいえん)の善事(ぜんじ)のために努力(どりょく)するよりも蓄財(ちくざい)に専念(せんねん)し,また真理(しんり)を命じる(めいじる)代りに(かわりに),他人(たにん)を中傷(ちゅうしょう)して不当(ふとう)に損傷(そんしょう)する(もの)に対する(たいする)警告(けいこく)でマッカ(まっか)最初期(さいしょき)の啓示(けいじ)である。ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)解説(かいせつ))

  西洋(せいよう)文化(ぶんか)影響(えいきょう)のもとで出来上がった(できあがった)現代(げんだい)物質(ぶっしつ)主義(しゅぎ)考え方(かんがえかた)同じく(おなじく)蓄財(ちくざい)専念(せんねん)するのが(むかし)アラブ(あらぶ)社会(しゃかい)でも流行って(はやって)いたのです。

 信仰(しんこう)のないアラブ(あらぶ)悪い(わるい)社会(しゃかい)では、金持ち(かねもち)のがめつい方々(かたがた)のいろいろの特徴(とくちょう)であった悪い(わるい)性格(せいかく)のことがこの(しょう)非難(ひなん)されているのです。こういうふうな悪い(わるい)性格(せいかく)になったことの原因(げんいん)はやはり現代(げんだい)物質(ぶっしつ)社会(しゃかい)同じく(おなじく)蓄財(ちくざい)専念(せんねん)する生き方(いきかた)であったのです。

 見難い(みがたい)悪い(わるい)キャラクタ(きゃらくた)のがめつい金持ち(かねもち)方々(かたがた)のことがその社会(しゃかい)(だれ)尊敬(そんけい)(め)見て(みて)なかったのです。アラブ人(あらぶじん)のなかではだれひとりも、それは道徳的(どうとくてき)良い(よい)ことだと思って(おもって)いなかったのです。こういうふうな悪い(わるい)方々(かたがた)のいやな性格(せいかく)指摘(してき)して、かれらの最終的(さいしゅうてき)始末(しまつ)来世(らいせ)でどうなるのかのことがこの(しょう)教えられて(おしえられて)いるのです。

 この悪い(わるい)性格(せいかく)のことと、またそれの持ち主(もちぬし)方々(かたがた)最終的(さいしゅうてき)始末(しまつ)のこと、この両方(りょうほう)組み合わせ(くみあわせ)が、かなり巧み(たくみ)書かれて(かかれて)いるのです。読者(どくしゃ)がそれを読んで(よんで)、その悪い(わるい)性格(せいかく)金持ち(かねもち)の方々の始末(しまつ)として地獄(じごく)焼かれる(やかれる)ことが当然(とうぜん)であろう、と思う(おもう)ようになるのです。

 この(しょう)で第一(だいいち)は、金儲け(かねもうけ)に夢中(むちゅう)になった、がめつい、欲深い(よくぶかい)方々(かたがた)の三つ(みつ)の特徴(とくちょう)が指摘(してき)されているのです。

 そういうふうな(かた)第一(だいいち)の特徴(とくちょう)は、第一節(だいいっせつ)で指摘(してき)されているように、自分(じぶん)自身(じしん)が金持ち(かねもち)だから威張って(いばって)いて、自分(じぶん)だけが世の中(よのなか)では一番(いちばん)偉い(えらい)(ほう)で、他人(たにん)のすべての皆さん(みなさん)が自分(じぶん)より(した)の人間(にんげん)で、下町(したまち)の地位(ちい)の方々(かたがた)だ、と思って(おもって)いるのです。それで(ひと)の悪口(わるくち)や中傷(ちゅうしょう)だけいつでも(ひと)に話す(はなす)ような(くせ)になっているのです。それで、(ひと)の(まえ)でも(うら)でもその(ひと)の欠点(けってん)のことだけを喋って(しゃべって)いるのです。他人(たにん)のことを低い(ひくい)(め)で見る(みる)原因(げんいん)は自分(じぶん)が金持ち(かねもち)だから、自分(じぶん)だけが偉い(えらい)人間(にんげん)だと思い込んで(おもいこんで)いるからであるのです。

 それの第二(だいに)は、第二節(だいにせつ)で言って(いって)いるとおりに、自分(じぶん)の生きて(いきて)いる目的(もくてき)が金儲け(かねもうけ)だけだと思って(おもって)いることであるのです。だから、そういうふうな(ひと)は、毎日(まいにち)(あさ)から(ばん)まで一生懸命(いっしょうけんめい)に働いた(はたらいた)結果(けっか)として、(ざい)が毎日どのぐらい増えた(ふえた)かのことが、何回(なんかい)も何回(なんかい)もそれを数えて(かぞえて)、その増えた(ふえた)(ぶん)の計算(けいさん)を毎日(まいにち)の楽しみ(たのしみ)にしているのです。

 それの第三(だいさん)の特徴(とくちょう)は、そういうふうな人間(にんげん)の考え方(かんがえかた)のことです。それの発想(はっそう)の(もと)は、この(しょう)の第三節(だいさんせつ)で教えて(おしえて)いるように、(かね)永久(えいきゅう)に残る(のこる)だろうということは間違った(まちがった)考え方(かんがえかた)であるのです。そういうふうな考え方(かんがえかた)があるからこそ(ざい)を集める(あつめる)のが自分(じぶん)の生きて(いきて)いる目的(もくてき)にしているのです。いずれ自分(じぶん)が亡くなって(なくなって)、この集めた(あつめた)(ざい)が永久(えいきゅう)に(やく)に立たない(たたない)ことに(き)がつかないのです。

 どんな時代(じだい)でも(かね)欲深い(よくぶかい)方々(かたがた)が上記(じょうき)に述べた(のべた)ような特徴(とくちょう)を持って(もって)いるのです。またそういう方々(かたがた)が、そのまま豊か(ゆたか)な暮らし(くらし)をずっとしながら、静か(しずか)に死んで(しんで)いくように見える(みえる)が、この(しょう)の第二(だいに)の特徴(とくちょう)としては、第四節(だいよんせつ)から終わり(おわり)までに、そういう金持ち(かねもち)の欲深い(よくぶかい)、がめつい(かた)最終的(さいしゅうてき)な始末(しまつ)がそう簡単(かんたん)に終わらない(おわらない)だろう、ということがここで強調(きょうちょう)されているのです。

 この(よ)ではそういう(ひと)が金持ち(かねもち)で成功者(せいこうしゃ)に見える(みえる)のですが、この(しょう)の最後(さいご)には、あの(よ)では凄い(すごい)(ひ)に焼かれて(やかれて)、どれほど酷い(ひどい)(ばつ)受ける(うける)かのことが詳しく(くわしく)述べられて(のべられて)いるのです。

第105章(だい105しょう)(アル(ある)フィール(ふぃーる))

 慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます)

あなたの(しゅ)が、(ぞう)を(兵隊(へいたい)とし侵略(しんりゃく)来襲(らいしゅう)した)(ひと)たちのことをどういうふうに処分(しょぶん)したのか、それを観察(かんさつ)したのか?かれは((しゅ)は)、かれらの巧み(たくみ)秘密(ひみつ)策略(さくりゃく)壊滅(かいめつ)したではないか。かれら(敵側(てきがわ))(うえ)群れなす(むれなす)数多(あまた)アバビル(あばびる)という(とり)遣わされ(つかわされ) それらは、彼ら(かれら)焼き土(やきつち)(つぶて)投げた(なげた)。そうして(かれ)は((しゅ)は)、彼ら(かれら)食い荒らされた(くいあらされた)(わら)(くず)のようにしてしまったのである。

解説(かいせつ)(1):カアバ(かあば)神殿(しんでん)を壊す(こわす)目的(もくてき)(なか)には一つ(ひとつ)秘密(ひみつ)戦略(せんりゃく)」もあった。それは、マッカ(まっか)経由(けいゆ)南アラビア(みなみあらびあ)隊商(たいしょう)行ける(いける)(たび)(みち)アラブ人(あらぶじん)から奪い取って(うばいとって)しまうという目的(もくてき)があったのです。けれども、その「秘密(ひみつ)戦略(せんりゃく)」もアッラー(あっらー)失敗(しっぱい)させた、ということです。

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)は,西暦(せいれき)570(570)(ねん)(ごろ)の出来事(できごと)にちなんだ啓示(けいじ)である。当時(とうじ)アラビア(あらびあ)半島(はんとう)南部(なんぶ)のイエメン(いえめん)はキリスト(きりすと)(きょう)を(ほう)ずるアビシニア(あびしにあ)の治下(ちか)にあり,その総督(そうとく)アブラハ(あぶらは)がカアバ(かあば)の神殿(しんでん)を破壊(はかい)するために,巨象(きょぞう)を含む(ふくむ)軍勢(ぐんぜい)で来襲(らいしゅう)した。これに対し(たいし)マッカ側(まっかがわ)は,施す(ほどこす)(さく)もなかったが、(とり)の大群(たいぐん)の(とう)ずる焼き土(やきつち)からできた(つぶて)が,大雨(おおあめ)のように降り(おり),侵略軍(しんりゃくぐん)は壊滅(かいめつ)したと伝えられた(つたえられた)。 (ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)(やく))

本章(ほんしょう)で学ぶ(まなぶ)教訓(きょうくん)は二つ(ふたつ)であるのです。その第一(だいいち)は、(なに)か良い(よい)目的(もくてき)を達成(たっせい)するために人間(にんげん)が先に(さきに)一所懸命(いっしょけんめい)に努力(どりょく)するべきです。けれども、いくら努力(どりょく)してもそれに限界(げんかい)があるのです。そういう(とき)には、全能(ぜんのう)の(かみ)アッラー(あっらー)を頼って(たよって)、(こころ)の(そこ)から熱心(ねっしん)にその唯一(ゆいいつ)の(かみ)に祈る(いのる)べきです。その時点(じてん)でその御方(おかた)から人間(にんげん)に対して(たいして)、(め)に見えない(みえない)不思議(ふしぎ)な方法(ほうほう)でお助け(おたすけ)が表れて(あらわれて)来て(きて)、人間(にんげん)が希望(きぼう)していた自分(じぶん)の努力(どりょく)の足りない(たりない)(ところ)がアッラー(あっらー)の助け(たすけ)によってその目的(もくてき)が達成(たっせい)するようになるのです。

 西暦(せいれき)570ごろに、この(しょう)が啓示(けいじ)された(とき)より(やく)40年前(40ねんまえ)ごろに、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)が生まれる(うまれる)(やく)50日前(50にちまえ)にアラビア(あらびあ)で起こった(おこった)一つ(ひとつ)の不思議(ふしぎ)な歴史的(れきしてき)な出来事(できごと)があったのです。カアバ(かあば)殿(しんでん)を壊す(こわす)つもりで6万人(6まんにん)の兵隊(へいたい)と13頭(13とう)の巨象(きょぞう)を連れて(つれて)来た(きた)(てき)エメン(えめん)のキリスト(きりすと)(きょう)の総督(そうとく)アブラハ(あぶらは)はマッカ(まっか)(し)の近辺(きんぺん)に来襲(らいしゅう)したが、(ぎゃく)に自分(じぶん)自身(じしん)と自分(じぶん)のすべての兵隊と巨像(きょぞう)を全部(ぜんぶ)が破滅(はめつ)してしまったのです。マッカ人(まっかひと)は、そういう強い(つよい)(てき)と戦う(たたかう)(ちから)が(なに)もなかったのです。彼ら(かれら)は、自分(じぶん)の努力(どりょく)や(ちから)で(なに)も出来ない(できない)ということを良く(よく)分かって(わかって)いたのです。だから、皆さん(みなさん)が集まって(あつまって)カアバ(かあば)神殿(しんでん)の(しゅ)、唯一(ゆいいつ)の(かみ)アッラー(あっらー)だけに祈って(いのって)、その御方(おかた)の助け(たすけ)を求めた(もとめた)のです。それで、アッラー(あっらー)の助け(たすけ)が(だれ)も想像(そうぞう)も出来ない(できない)方法(ほうほう)で現れた(あらわれた)のです。人間(にんげん)が考えられない(かんがえられない)方法(ほうほう)で、現実(げんじつ)に不思議(ふしぎ)なアバビル(あばびる)と言う(いう)(とり)が(きゅう)に大勢(おおぜい)であらわれて来たのです。各鳥(かくとり)が自分(じぶん)の(くち)で一つ一つ(ひとつひとつ)不思議(ふしぎ)な(つぶて)を持って(もって)来て(きて)それを大雨(おおあめ)が降った(ふった)ようにアブラハ(あぶらは)の兵隊(へいたい)に当てる(あてる)ように投げた(なげた)のです。その(つぶて)には、原子(げんし)爆弾(ばくだん)と似た(にた)ような(なに)かすべての(もの)を破滅(はめつ)するような不思議(ふしぎ)な(ちから)があったのです。総督(そうとく)アブラハ(あぶらは)と、(かれ)の6万人(6まんにん)の兵隊(へいたい)と巨象(きょぞう)(みな)の(からだ)がその(つぶて)で目茶目茶(めちゃめちゃ)に壊れて(こわれて)ばらばらになって、みんなが亡くなって(なくなって)しまったのです。

 (れき)史上(しじょう)でそういう不思議(ふしぎ)な出来事(できごと)が起こった(おこった)ことを(せい)クルアーン(くるあーん)に述べられて(のべられて)いるのは、この(しょう)の(せつめい)の初め(はじめ)に書いて(かいて)あるように、私たち(わたしたち)に一つ(ひとつ)大事(だいじ)な教訓(きょうくん)を教えられて(おしえられて)いるのです。ほど(さきほど)書いて(かいて)いるようにそれは、自分(じぶん)の努力(どりょく)に限界(げんかい)があった(とき)に、アッラー(あっらー)に熱心(ねっしん)に祈れば(いのれば)、その唯一(ゆいいつ)の全能(ぜんのう)の(かみ)の不思議(ふしぎ)な助け(たすけ)が表れる(あらわれる)、と言う(いう)ことです。

 アブラハ(あぶらは)に侵略(しんりゃく)された(とき)にマッカ人(まっかひと)は、カアバ(かあば)神殿(しんでん)に三百六十個(さんびゃくろくじゅうこ)の仏像(ぶつぞう)があって、それらは(かみ)であろうと思って(おもって)、毎日(まいにち)あらゆる目的(もくてき)を達成(たっせい)されるだろという思い(おもい)でその神々(かみがみ)に祈って(いのって)いたのです。けれども、この事件(じけん)の(とき)は、彼ら(かれら)がその全て(すべて)の神々(かみがみ)の(なか)からどんな(かみ)にも祈らなかった(いのらなかった)のです彼ら(かれら)はその(とき)に、(てき)の6(6)万人(まんにん)の兵隊(へいたい)と戦う(たたかう)(ちから)もなかったのです。彼ら(かれら)はそういうふうに困って(こまって)、自分(じぶん)たちがカアバ(かあば)神殿(しんでん)を守る(まもる)(ため)に(なん)の(ちから)もないと思った(おもった)(とき)には、本当(ほんとう)の唯一(ゆいつ)の全能(ぜんのう)の(かみ)と思って(おもって)いた、アッラー(あっらー)、だけに向いて(むいて)その御方(おかた)だけに一生懸命(いっしょうけんめい)に助け(たすけ)を求めた(もとめた)のです。それで、アッラー(あっらー)から考えられない(かんがえられない)、不思議(ふしぎ)な方法(ほうほう)で、助けて(たすけて)貰った(もらった)ことが起こった(おこった)のです。これは子供(こども)の(ほん)に出る(でる)ような不思議(ふしぎ)な物語(ものがたり)じゃなくて、本当(ほんとう)の歴史(れきし)の事実(じじつ)として起こった(おこった)出来事(できごと)であったのです。この歴史(れきし)の本当(ほんとう)に起こった(おこった)出来事(できごと)から私たち(わたしたち)が学べる(まなべる)教訓(きょうくん)は、アッラー(あっらー)を信じ(しんじ)、った(こまった)(とき)にその御方(おかた)だけに頼めば(たのめば)、何ら(なんら)かの(かたち)で、自分(じぶん)が想像(そうぞう)も出来ない(できない)方法(ほうほう)でアッラー(あっらー)は必ず(かならず)助けて(たすけて)くれるということです。

 だから、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)は、この(しょう)を通して(とおして)、マッカ人(まっかひと)が不思議(ふしぎ)な方法(ほうほう)で略者(しんりゃくしゃ)アブラハ(あぶらは)から助けて(たすけて)貰った(もらった)ように、その(おなじ)唯一(ゆいいつ)の、全能(ぜんのう)の(かみ)、アッラー(あっらー)、の信仰(しんこう)に入信(にゅうしん)しなさい、というメッセージ(めっせーじ)を彼ら(かれら)に伝えて(つたえて)いたのです。そうじゃなければ、(ぎゃく)に彼ら(かれら)も無信者(むしんじゃ)のアブラハ(あぶらは)と同じ(おなじ)運命(うんめい)に遭わないことの(なん)の保障(ほしょう)もないということです。この(しょう)で指摘(してき)されている歴史(れきし)の出来事(できごと)から学ぶ(まなぶ)べき教訓(きょうくん)のことが預言者(よげんしゃ)は(みな)に教えて(おしえて)いたのです。それは、その唯一(ゆいいつ)の(かみ)、アッラー、を信じる(しんじる)べきだ、と言う(いう)ことであったのです。

 (むかし)からカアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理役(かんりやく)を果たして(はたして)いたクレイシュ族(くれいしゅぞく)の族長(ぞくちょう)、またメッカ人(めっかじん)の第一(だいいち)主任(しゅにん)と指導者(しどうしゃ)でもあった、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)のお祖父さん(おじいさん)、アブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)、マッカ(まっか)近辺(きんぺん)まで来襲(らいしゅう)していたアブラハ(あぶらは)の(ところ)まで、(かれ)の兵隊(へいたい)によって連れて(つれて)行かれた(いかれた)ことがあったのです。アブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)の印象深い(いんしょうぶかい)魅力的(みりょくてき)な凄い(すごい)個性(こせい)を見て(みて)、アブラハ(あぶらは)が(かれ)の(ところ)まで行って(いって)(かれ)の(となり)にすわったのです。(てき)からそれほど尊敬(そんけい)されたのです。けれどもアブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)が侵略(しんりゃく)のつもりで来て(きて)いたアブラハ(あぶらは)にカアバ(かあば)神殿(しんでん)を壊さない(こわさない)ようなお願い(おねがい)をなにもしなかったのです。それは、その神殿(しんでん)の(しゅ)、アッラー(あっらー)に必ず(かならず)守られる(まもられる)だろうという自信(じしん)をもっていたからです。かれは、自分(じぶん)の200頭(200とう)のラクダ(らくだ)を返して(かえして)下さい(ください)というお願い(おねがい)だけをしたのです。アブラハ(あぶらは)の兵隊(へいたい)が彼のラクダ(らくだ)を持って(もって)いっていたからです。こういうお願い(おねがい)を聞いて(きいて)アブラハ(あぶらは)が(かれ)のラクダ(らくだ)を返した(かえした)が、アブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)が自分(じぶん)は尊敬をしていたほどの人間(にんげん)ではなかった、と思った(おもった)のです。(かれ)の人柄(ひとがら)にがっかりしたのです。それに、アブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)が答えた(こたえた)言葉(ことば)は歴史(れきし)で(きん)の文字(もじ)で書く(かく)ようなものだったのです。(かれ)が答えた(こたえた)のはラクダ(らくだ)が自分(じぶん)個人(こじん)の持ち物(もちもの)だから返して(かえして)欲しい(ほしい)が、カアバ(かあば)神殿(しんでん)の(しゅ)が違う(ちがう)ので、その(しゅ)(アッラー(あっらー))が自分(じぶん)自身(じしん)の持ち物(もちもの)(カアバ(かあば)神殿(しんでん))を自分(じぶん)自身(じしん)が守る(まもる)だろうと。結局(けっきょく)その(しゅ)、アッラー(あっらー)、は(とり)を使って(つかって)、(つぶて)が大雨(おおあめ)のように(ふ)らしておいて、(てき)の(みな)の(からだ)を目茶目茶(めちゃめちゃ)にしてしまって、自分(じぶん)の持ち物(もちもの)カアバ(かあば)神殿(しんでん)を奇跡的(きせきてき)な方法(ほうほう)で守って(まもって)歴史(れきし)の教訓(きょうくん)として残した(のこした)のです。アッラー(あっらー)は、こういう出来事(できごと)を起して(おこして)、預言者(よげんしゃ)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)がまだ生まれない(うまれない)(うち)に、(かれ)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)のお祖父さん(おじいさん)アブヅル(あぶづる)・ムタッリブ(むたっりぶ)の答え(こたえ)の真実性(しんじつせい)を立証(りっしょう)してくれたのです。(フセイーン(ふせいーん)・ハーン(はーん) 解説(かいせつ))

第106(だい106しょう)クライシュ族(くらいしゅぞく)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

クライシュ族(くらいしゅぞく)慣れた(なれた)慣れた(なれた)のは、(ふゆ)(なつ)旅行(りょこう)のことで、(だから、そういう恵み(めぐみ)対して(たいして)感謝(かんしゃ)として、)この(せい)殿(でん)(しゅ)服従(ふくじゅう)崇拝(すうはい)をしなさい。お腹(おなか)がすいた(とき)は,かれらに食べ物(たべもの)与え(あたえ),また((てき)から)恐怖(きょうふ)(とき)は、(クライシュ族(くらいしゅぞく))の安全(あんぜん)確保(かくほ)する御方(おかた)に。

解説(かいせつ)(1)クライシュ族(くらいしゅぞく)の隊商(たいしょう)が(なつ)は、パレスチナ(ぱれすちな)とシリヤ(しりや)の寒い(さむい)地域(ちいき)の(ほう)へ、(ふゆ)は南アラビア(みなみあらびあ)の熱い(あつい)地域(ちいき)の(ほう)へ行って(いって)、(なつ)と(ふゆ)の旅行(りょこう)に(むかし)から慣れて(なれて)いたのです。というのは、そういう安全(あんぜん)な旅行(りょこう)のお蔭(おかげ)で商売(しょうばい)が盛ん(さかん)になったいたのです。

ずっと(むかし)からカアバ(かあば)神殿(しんでん)がアラブの中(あらぶのなか)宗教(しゅうきょう)の中心(ちゅうしん)地域(ちいき)になっていたから、それの管理役(かんりやく)をやっていたクライシュ族(くらいしゅぞく)がアラブ中(あらぶじゅう)でだいぶ尊敬(そんけい)されていたのです。それで、彼ら(かれら)の隊商(たいしょう)が(ふゆ)でも(なつ)でも、一年中(いちねんじゅう)安全(あんぜん)に旅行(りょこう)出来た(できた)おかげで商売(しょうばい)が盛ん(さかん)になった。それで彼ら(かれら)はだいぶ豊か(ゆたか)になったのはカアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理人役(かんりにんやく)をたして(はたして)いたからです。

(しょう)の説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)は前章(ぜんしょう)と同じく(おなじく)マッカ(まっか)初期(しょき)に(けい)示された(じされた)(しょう)で、その一部(いちぶ)ともいえる。もしクライシュ族(くらいしゅぞく)が(しん)にマッカ(まっか)を愛し(あいし),その地理的(ちりてき)な位置(いち)や安全境(あんぜんさかい)のお陰(おかげ)で,通商上(つうしょうじょう)の利益(りえき)を享受(きょうじゅ)していることを考える(かんがえる)ならば,唯一(ゆいいつ)の(しん)(しゅ)を崇拝(すうはい)し,その啓示(けいじ)を受け入れる(うけいれる)べきである。 (ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)解説(かいせつ))

マッカ(まっか)(し)ではカアバ(かあば)神殿(しんでん)が出来た(できた)のが(いま)から(やく)4千年前(4せんねんまえ)アブラハーム(あぶらはーむ)予言者(よげんしゃ)の(とき)だったのです。その(とき)から(いま)までアラブ(あらぶ)の皆さん(みなさん)がこの神殿(しんでん)へ参拝(さんぱい)に行って(いって)いたのです。アブラハーム(あぶらはーむ)預言者(よげんしゃ)に子供(こども)が二人(ふたり)あったのです。二人(ふたり)ともイスハーク(いすはーく)とイスマイール(いすまいーる)預言者(よげんしゃ)になったのです。イスハーク(いすはーく)預言者(よげんしゃ)の息子(むすこ)ヤークーブ(やーくーぶ)預言者(よげんしゃ)は聖書(せいしょ)でジャコブ(じゃこぶ)といわれているのです。(かれ)の別名(べつめい)がイスラエル(いすらえる)でもあったのです。(かれ)の子孫(しそん)が(せい)クルアーン(くるあーん)ではバニーイスラエル(ばにーいすらえる)と言われて(いわれて)いるのですが、それは現代(げんだい)のユダヤ(ゆだや)(きょう)のことです。聖書(せいしょ)と(せい)クルアーン(くるあーん)で出て(でて)いる全て(すべて)の預言者(よげんしゃ)たちがアブラハーム(あぶらはーむ)預言者(よげんしゃ)の(こ)であるイスハーク(いすはーく)預言者(よげんしゃ)の子孫(しそん)になるのです。アブラハーム(あぶらはーむ)預言者(よげんしゃ)の(あと)2(2)千年(せんねん)の(あいだ)はイエス(いえす)・キリスト(きりすと)はその子孫(しそん)の(なか)で最後(さいご)の預言者(よげんしゃ)にあたるのです。但し(ただし)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)一人(ひとり)だけが預言者(よげんしゃ)アブラハーム(あぶらはーむ)の(べつ)の(こ)であったイスマーイル(いすまーいる)預言者(よげんしゃ)の子孫(しそん)になるのです。(かれ)は、アブラハーム(あぶらはーむ)預言者(よげんしゃ)の(やく)2(2)、600年後(600ねんご)にメッカ(めっか)(し)で人類(じんるい)の最後(さいご)の預言者(よげんしゃ)として生まれた(うまれた)のです。カアバ(かあば)神殿(しんでん)がその2(2),600(600)年前(ねんまえ)に預言者(よげんしゃ)アブラハーム(あぶらはーむ)がアッラー(あっらー)の命令(めいれい)の(もと)で建築(けんちく)したものです。

 そのイスマーイル(いすまーいる)預言者(よげんしゃ)の子孫(しそん)の(なか)で預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)のお祖父さんのお祖父さん(じいさん)ぐらいにあたるクシ(くし)・ビン(びん)・キラブ(きらぶ)の(とき)まではクライシュ族(くらいしゅぞく)がメッカ(めっか)(し)を含めた(ふくめた)現代(げんだい)アラビア(あらびあ)のヒジャズ(ひじゃず)と言う(いう)地域(ちいき)であちこち散らばって(ちらばって)住んで(すんで)いたのです。このクシ(くし)と言う(いう)(ほう)がそのクライシュ族(くらいしゅぞく)の皆さん(みなさん)をメッカ(めっか)市内(しない)に一か所(いっかしょ)で住む(すむ)ように集めて(あつめて)くれたのです。その(とき)までクライシュ族(くらいしゅぞく)が貧乏(びんぼう)な暮らし(くらし)をしていたのです。この(とき)から、みなが一か所(いっかしょ)で一緒(いっしょ)にメッカ(めっか)(し)で住んだ(すんだ)お蔭(おかげ)でこのクライシュ族(くらいしゅぞく)にカアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理役(かんりやく)が任された(まかされた)のです。この(かた)カアバ(かあば)神殿(しんでん)に(むかし)からアラブ中(あらぶじゅう)から巡礼(じゅんれい)に参りまして(まいりまして)メッカ(めっか)(し)に来た(きた)皆さん(みなさん)のことを良く(よく)世話(せわ)してくれたのです。

 予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)が属して(ぞくして)いたクレイシュ族(くれいしゅぞく)が、カアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理人役(かんりにんやく)をやっていたから豊か(ゆたか)ならし(くらし)が出来る(できる)ようになったのです。また、(まえ)の(しょう)にあった(はなし)のとおりで、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)が生まれる(うまれる)約50日前(50にちまえ)に、西暦(せいれき)570(570)(ねん)(ごろ)にアッラー(あっらー)から一つ(ひとつ)奇跡的(きせきてき)な出来事(できごと)があって、カアバ(かあば)神殿(しんでん)が本当(ほんとう)にアッラー(あっらー)の(ちから)だけで守られて(まもられて)いることが証明(しょうめい)されたのです。当時(とうじ)アラビア(あらびあ)半島(はんとう)南部(なんぶ)のイエメン(いえめん)はキリスト(きりすと)(きょう)を信じて(しんじて)いたアビシニア(あびしにあ)の治下(ちか)にあり、その総督(そうとく)アブラハ(あぶらは)がカアバ(かあば)の神殿(しんでん)を破壊(はかい)するために巨象(きょぞう)を含む(ふくむ)軍勢(ぐんぜい)で来襲(らいしゅう)したのです。これに対し(たいし)マッカ側(まっかがわ)は,施す(ほどこす)(さく)もなかったが、(とり)の大群(たいぐん)によって投げられた(なげられた)焼き土(やきつち)の(つぶて)が,大雨(おおあめ)のように降って(ふって)、侵略軍(しんりゃくぐん)は壊滅(かいめつ)した。(りんこく)エメン(えめん)の総督(そうとく)アブラハ(あぶらは)も自分(じぶん)の全て(すべて)の軍隊(ぐんたい)と一緒(いっしょ)にアッラー(あっらー)の奇跡(きせき)によって潰れて(つぶれて)しまったのです。

 この歴史的(れきしてき)な事実(じじつ)が明らか(あきらか)になったお蔭(おかげ)でクライシュ族(くらいしゅぞく)の地位(ちい)がアラビア中(あらびあじゅう)でだいぶ上がった(あがった)のです。それでこの(やから)がもっと豊か(ゆたか)になったのです。食べ物(たべもの)にも困らなかった(こまらなかった)し、ライバル族(らいばるぞく)や敵対族(てきたいぞく)から侵略(しんりゃく)される恐れ(おそれ)もなかったのです。そういう恐怖(きょうふ)からも守られて(まもられて)いたのです。それはクライシュ族(くらいしゅぞく)が(みな)の宗教(しゅうきょう)の中心(ちゅうしん)になっていたカアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理役(かんりやく)をやっていたからです。

 クライシュ族(くらいしゅぞく)に(かみ)のそういういろいろな恩恵(おんけい)を思いださせておいて、同じ(おなじ)クレイシュ族(くれいしゅぞく)に属して(ぞくして)いる予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)に反対(はんたい)をしないで、(ぎゃく)に(かれ)が教えて(おしえて)いるように唯一(ゆいいつ)の(かみ)アッラー(あっらー)だけに服従(ふくじゅう)と崇拝(すうはい)をするように、と言う(いう)ことがこの(しょう)によって(みな)に教えて(おしえて)いるのです。

 これは(むかし)の歴史話(れきしばなし)だけじゃなくて、この(しょう)で教えて(おしえて)いるようにいつでも人間(にんげん)が自分(じぶん)に対して(たいして)この現世(げんせ)でアッラーが下さった(くださった)いろいろな恩恵(おんけい)を思い出して(おもいだして)、唯一(ゆいいつ)の(かみ)アッラー(あっらー)だけに服従(ふくじゅう)と崇拝(すうはい)をするべきだ、と(い)いうことを覚えて(おぼえて)おくべきです。

 

第107(だい107しょう)アル(ある)マーウーン(まーうーん))

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

あなたは、審判(しんぱん)(ひ)報い(むくい)処罰(しょばつ)否定(ひてい)する(もの)観察(かんさつ)したのか。そういう(もの)こそは、孤児(こじ)追い払う(おいはらう)(かた)であり,また、貧困者(ひんこんしゃ)食べ物(たべもの)与える(あたえる)ことを促さない(うながさない)(もの)である。それゆえ、残念(ざんねん)ながら、いちおうサラート(さらーと)をする(もの)でありながら、(おのれ)礼拝(れいはい)から(き)がぬけている(し、また、5回(5かい)サラート(さらーと)をちゃんとやる義務(ぎむ)対して(たいして)軽率(けいそつ)である)。彼ら(かれら)は、(アッラー(あっらー)のためでなく、)(じん)見せかける(みせかける)ためにサーラト(さーらと)行為(こうい)真似(まね)しているだけである。また、彼ら(かれら)は、人々(ひとびと)什器(じゅうき)差しあげる(さしあげる)ほど小さな(ちいさな)親切(しんせつ)行為(こうい)もしないような(もの)である。

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)はマッカ(まっか)初期(しょき)の啓示(けいじ)で,(しん)の信仰(しんこう)について記される(しるされる)。それには信心(しんじん)と,貧困者(ひんこんしゃ)や律儀者(りちぎしゃ)に

親切(しんせつ)を尽し(つくし),救援(きゅうえん)する心構え(こころがまえ)の必要(ひつよう)なことが教えられる(おしえられる)。 (ウマル(うまる)三田(みた)了一(りょういち)解説(かいせつ))

この(しょう)では、来世(らいせ)、死後(しご)の永久(えいきゅう)の生命(せいめい)のことを信じない(しんじない)場合(ばあい)は、どういう道徳(どうとく)が生まれる(うまれる)のか、それを指示(しじ)しているのです。第二(だいに)と第三節(だいさんせつ)では、来世(らいせ)のことをはっきりと、どうどうと否定(ひてい)している無信者(むしんじゃ)のことを示して(しめして)いるのです。

 現代(げんだい)社会(しゃかい)では先進国(せんしんこく)ほど犯罪(はんざい)がどんどん増えて(ふえて)行って(いって)いるのです。警察(けいさつ)も(さい)判官(ばんかん)も活発(かっぱつ)に動いて(うごいて)いるのに犯罪(はんざい)事件(じけん)が少しも減らないで(へらないで)、増える(ふえる)一方(いっぽう)です。また、日本(にほん)の若者(わかもの)の道徳(どうとく)水準(すいじゅん)が(まえ)の世代(せだい)よりずっと下がって(さがって)いる傾向(けいこう)が続いて(つづいて)いるのです。警察(けいさつ)に捕まる(つかまる)とか、刑務所(けいむしょ)に入れられるとかのようなことで道徳(どうとく)水準(すいじゅん)が上がらない(あがらない)のです。イスラーム(いすらーむ)の場合(ばあい)はこういうことよりもいろいろの規則(きそく)を心から(こころから)守って(まもって)貰う(もらう)ために一番先(いちばんさき)にアッラー(あっらー)を信じて(しんじて)、また来世(らいせ)の永久的(えいきゅうてき)な処罰(しょばつ)のことを(こころ)の(そこ)から信じて(しんじて)貰う(もらう)ために(いま)みたいないろいろの(せい)クルアーン(くるあーん)の(せつ)でそれの大事(だいじさ)を強調(きょうちょう)しているのです。来世(らいせ)のこと信じる(しんじる)(ひと)こそ貧乏人(びんぼうじん)や困った(こまった)(ひと)の面倒(めんどう)を見る(みる)ような心構え(こころがまえ)が強く(つよく)なるのです。

例えば(たとえば)資本(しほん)主義(しゅぎ)や、共産(きょうさん)主義(しゅぎ)や、社会(しゃかい)主義(しゅぎ)(とう)にそれなりにいろいろな考え方(かんがえかた)とそれぞれの特殊(とくしゅ)な規則(きそく)があるのです。同じ(おなじ)ようにイスラーム(いすらーむ)教済(きょうすみ)体制(たいせい)の(なか)でも、利息(りそく)を取る(とる)のがいけないとか、義務的(ぎむてき)に毎年(まいとし)全て(すべて)の余分(よぶん)の収入(しゅうにゅう)と財産(ざいさん)から2.5%お金(おかね)がザカート(ざかーと)と言って(いって)、(くに)に納めなければ(おさめなければ)いけないというふうないろいろな規則(きそく)があるのです。もしどこかのイスラーム(いすらーむ)の(くに)がそういういろいろの規則(きそく)がいきなり実行(じっこう)し始めたら(しはじめたら)、すぐ失敗(しっぱい)に終わる(おわる)のです。そういういろいろな(くに)の規則(きそく)や(くに)の法律(ほうりつ)や厳しい(きびしい)道徳(どうとく)のことを守って(まもって)貰う(もらう)(まえ)にその(くに)のイスラーム(いすらーむ)の信者(しんじゃ)(たち)の信仰(しんこう)を強く(つよく)しなければいけないのです。

(なに)か規則(きそく)や道徳(どうとく)のことが皆さん(みなさん)に守って(まもって)貰う(もらう)のがかなり難しい(むずかしい)ことであるのです。そのために先に(さきに)(こころ)の準備(じゅんび)が必要(ひつよう)であるのです。それ(せい)クルアーン(くるあーん)の(いま)のようないろいろな(せつ)によって、またそれを毎日(まいにち)五回(ごかい)の礼拝(れいはい)で繰り返し(くりかえし)覚えて(おぼえて)いて、信者(しんじゃ)の潜在(せんざい)意識(いしき)の(なか)で、それの大事さ(だいじさ)とそれの来世(らいせ)で永久的(えいきゅうてき)な処罰(しょばつ)のことが(いま)の(せい)クルアーン(くるあーん)の(しょう)とその(なか)のいろいろな(せつ)の教え(おしえ)によって強く(つよく)入れて(いれて)貰う(もらう)のです。それで徐々(じょじょ)に行動(こうどう)に移って(うつって)貰う(もらう)のです。

 イスラーム(いすらーむ)で例えば(たとえば)、(さけ)を飲む(のむ)のが禁じられて(きんじられて)いるのですが、それがいきなり完全(かんぜん)にダメ(だめ)だという(かたち)ではじゃなかったのです。23(23)(ねん)をかけてそれが徐々(じょじょ)に禁じる(きんじる)ようにしてあるのです。この長い(ながい)23(23)(ねん)のあいだに先に(さきに)信仰(しんこう)を強く(つよく)して、来世(らいせ)のことを良く(よく)(こころ)と行動(こうどう)に移って(うつって)貰う(もらう)ような順番(じゅんばん)に最終的(さいしゅうてき)に(さけ)が完全(かんぜん)に禁じられた(きんじられた)のです。

 この(しょう)の第二(だいに)と第三節(だいさんせつ)では、来世(らいせ)の処罰(しょばつ)を信じない(しんじない)(ひと)の(こころ)の(なか)に簡単(かんたん)な親切さ(しんせつさ)もないだろう、ということが(れい)として出して(だして)あるのです。ここで二つ(ふたつ)の簡単(かんたん)なことに対して(たいして)そういう(ほう)の冷たい態度(たいど)と行動(こうどう)のこと(れい)として出して(だして)いるのです。それは、「そういう(もの)こそは、孤児(こじ)を追い払う(おいはらう)(ほう)であり,また、貧困者(ひんこんしゃ)に食べ物(たべもの)を与える(あたえる)ことを促さない(うながさない)(もの)である」ということです。

 また、そういう来世(らいせ)の否定(ひてい)している(かた)の場合(ばあい)は、この(しょう)の最後(さいご)の(せつ)でも「また、彼ら(かれら)は、人々(ひとびと)に什器(じゅうき)を差しあげる(さしあげる)ほど小さな(ちいさな)親切(しんせつ)な行為(こうい)もしないような(もの)である」と言う(いう)ことも指摘(してき)されているのです。

 その後(そのご)の残り(のこり)の四節(よんせつ)では、うわべだけではムスリム(むすりむ)でありながら、(こころ)の(なか)には来世(らいせ)の報い(むくい)と処罰(しょばつ)の考え(かんがえ)を持って(もって)いない偽信者(ぎしんじゃ)の状況(じょうきょう)を示して(しめして)いるのです。偽信者(ぎしんじゃ)のことが彼ら(かれら)のサラート(さらーと)(5(5)(かい)の義務的(ぎむてき)な(みな)一緒(いっしょ)にやるべき礼拝(れいはい)のこと)現れる(あらわれる)のです。彼ら(かれら)はサラートに対して(たいして)凄く(すごく)軽率(けいそつ)であるのです。時間(じかん)通り(どおり)にサラート(さらーと)やらなかったり、やっても礼拝中(れいはいちゅう)にアッラー(あっらー)の認識(にんしき)や考え(かんがえ)が(なに)もなく、自分(じぶん)の仕事(しごと)や家族(かぞく)(など)の余計(よけい)なことだけに夢中(むちゅう)になったりしているのです。

両方(りょうほう)のグループ(ぐるーぷ)の状況(じょうきょう)を示す(しめす)目的(もくてき)は、来世(らいせ)の信念(しんねん)が強く持てない(もてない)場合(ばあい)は、人間(にんげん)の(なか)にはしっかりした、理想的(りそうてき)な良い(よい)道徳(どうとく)が絶対(ぜったい)生まれない(うまれない)はずです。

 

第108(だい108しょう)アル(ある)カウサル(かうさる))

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 まことにわれは,あなた(ムハッマド(むはっまど))にカウサル(かうさる)潤沢(じゅんたく))を授けた(さずけた)。それゆえ、あなたの(しゅ)対して(たいして)礼拝(れいはい)をし,犠牲(ぎせい)授けなさい(さずけなさい)。まことに、あなたの(てき)貴方(あなた)憎んで(にくんで)貴方(あなた)皮肉(ひにく)言って(いって)いる(ひと)たち)こそ,根絶やし(ねだやし)にされた(子孫(しそん)を断たれた)であろう。

解説(かいせつ)(1):ここで犠牲(ぎせい)の意味(いみ)は、マッカ(まっか)(し)へ行って(いって)、そこでハッジュ(はっじゅ)(あるい)はウムラー(うむらー)をなさる(とき)に(ひつじ)や山羊(やぎ)や(うし)(など)が(かみ)に捧げる(ささげる)宗教的(しゅうきょうてき)な儀礼(ぎれい)が定められて(さだめられて)いる。そういう儀礼的(ぎれいてき)な犠牲(ぎせい)のことです。

(しょう)説明(せつめい)

 予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)が預言者(よげんしゃ)+(+)になる(まえ)カアバ(かあば)神殿(しんでん)の管理族(かんりぞく)クレイシュ(くれいしゅ)の一員(いちいん)として凄く(すごく)尊敬(そんけい)されていたのです。けれども、(かれ)はカアバ(かあば)神殿(しんでん)の(なか)にその(とき)にあった三百六十個(さんびゃくろくじゅうこ)の仏像(ぶつぞう)を崇めないで(あがめないで)、唯一(ゆいいつ)の(かみ)、アッラー(あっらー)、だけを崇めて(あがめて)下さい(ください)、と言う(いう)メッセ(めっせ)-(じ)を広げる(ひろげる)ような活動(かつどう)を始めた(はじめた)のです。その(とき)からかれと(かれ)の仲間(なかま)たちがアラブ(あらぶ)社会(しゃかい)の(なか)でボイコット(ぼいこっと)されて、一人ぼっち(ひとりぼっち)にされたのです。(かれ)の仲間(なかま)も僅か(わずか)で、その社会(しゃかい)の有力(ゆうりょく)の方々(かたがた)でもなかったのです。そういう(だれ)からも助け(たすけ)も、援助(えんじょ)も、慰め(なぐさめ)もない(じょうたい)で、(かれ)の息子(むすこ)二人(ふたり)も亡くなった(なくなった)のです。カシム(かしむ)と言う(いう)名まえ(なまえ)の(かれ)の初め(はじめ)の息子(むすこ)の(あと)に(かれ)の最後(さいご)のアブデュルラー(あぶでゅるらー)という二番目(にばんめ)の息子(むすこ)も亡くなった(なくなった)(とき)に、(だれ)も慰める(なぐさめる)ことなく、(ぎゃく)に周り(まわり)で(みな)が喜んで(よろこんで)いて、いろいろな皮肉(ひにく)なことを言われた(いわれた)のです。それは、ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)子孫(しそん)を絶たれて(たたれて)(ね)絶やし(だやし)されたとか、(かれ)の宗教(しゅうきょう)が(かれ)の(いっ)世帯(せたい)で終わる(おわる)だろうとか、というようないろいろな(こころ)を痛める(いためる)ようなことを言われて(いわれて)いたのです。

こういう背景(はいけい)の(とき)にこの(しょう)が(けい)示された(じされた)のです。これで(かれ)にカウサル(かうさる)(潤沢(じゅんたく))与えられた(あたえられた)という良い(よい)知らせ(しらせ)が届けられた(とどけられた)のです。これで(かれ)が感謝(かんしゃ)の気持ち(きもち)で毎日(まいにち)定められた(さだめられた)5回(5かい)とそれ以外(いがい)にもしょっちゅうサラート(さらーと)を行い(おこない)、宗教(しゅうきょう)で定められた(さだめられた)(ぎせい)をずっとやっていきなさい、と命令(めいれい)されたのです。(かれ)自身(じしん)ではなくて、(かれ)の(てき)こそが根絶やし(ねだやし)になれるだろう、ということもしらされたのです。

 というのは、(かれ)の宗教(しゅうきょう)イスラーム(いすらーむ)が世界中(せかいじゅう)で広がって(ひろがって)、この(よ)が終わる(おわる)まで何千万(なんぜんまん)、何億(なんおく)の人々(ひとびと)が(かれ)の信者(しんじゃ)として(かれ)の名まえ(なまえ)と(かれ)が持って(もって)きたメッセージ(めっせーじ)を残して(のこして)いくから、(かれ)が根絶やし(ねだやし)にならないで、(かれ)の(てき)とすべての反対者(はんたいしゃ)が実際(じっさい)に根絶やし(ねだやし)になったのです。それは、この(しょう)で予言(よげん)されたとおり歴史(れきし)で今まで起こった(おこった)事実(じじつ)であるのです。将来(しょうらい)もそのとりになっていくだろうということになるのです。

カウサル(かうさる)(潤沢(じゅんたく))の意味(いみ)はかなり幅広い(はばひろい)のです。言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)があらゆる恵み(めぐみ)を沢山(たくさん)、沢山(たくさん)与えられた(あたえられた)ということです。その(なか)の一つ(ひとつ)は、(かれ)が生きて(いきて)いる(あいだ)には(かれ)のミッション(みっしょん)が完成(かんせい)して、アラビア中(あらびあなか)でイスラーム(いすらーむ)(きょう)が広がって(ひろがって)しまったのです。

その(なか)の二つ目(ふたつめ)としては、(かれ)の名まえ(なまえ)と教え(おしえ)がこの世の中(よのなか)が終わる(おわる)までと、その後(そのご)も永久(えいきゅう)に残る(のこる)というアッラー(あっらー)からの恵み(めぐみ)であるのです。(かれ)の(てき)と(かれ)に根絶やし(ねだやし)になるだろうと皮肉(ひにく)を言った(いった)(ひと)たちこそが、(ぎゃく)に実際(じっさい)に根絶やし(ねだやし)になってしまったのです。彼ら(かれら)のことや彼ら(かれら)の子孫(しそん)のことはだれも知らない(しらない)状態(じょうたい)になっているのです。例えば(たとえば)、彼ら(かれら)の子孫(しそん)があった場合(ばあい)でも、(だれ)も自分(じぶん)たちが(れき)史上(しじょう)で悪者(わるもの)として(あつか)わられている方々(かたがた)の子孫(しそん)だ、と言えない(いえない)(はず)です。そう言う(いう)意味(いみ)で、(せい)クルアーン(くるあーん)の予言(よげん)どおりに彼ら(かれら)こそが根絶(ねだ)やしになってしまったのです。

カウサル(かうさる)の意味(いみ)の(なか)には、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)が来世(らいせ)にもカウサル(かうさる)と言う(いう)名まえ(なまえ)の(いけ)と小川(おがわ)も与えられる(あたえられる)ということもあるのです。予言者(よげんしゃ)からその小川(おがわ)あるいは(いけ)の(みず)を貰って(もらって)飲んだ(のんだ)(ひと)(たち)は来世(らいせ)には二度(にど)と(のど)が乾かなく(かわかなく)なりますし、また信仰(しんこう)をちゃんと守る(まもる)信者(しんじゃ)(たち)が、その(いけ)の(ところ)に予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)と遭えることが出来る(できる)、と言う(いう)ことです。

だから、この(しょう)から学ぶ(まなぶ)教訓(きょうくん)としては、信者(しんじゃ)がいくら大勢(たいせい)の人々(ひとびと)から反対(はんたい)されたり、皮肉(ひにく)を言われたり(いわれたり)しても、がっかりしないで、サラート(さらーと)と唯一(ゆいいつ)の(かみ)アッラー(あっらー)のメッセージ(めっせーじ)を広げる(ひろげる)(ため)にどんな犠牲(ぎせい)を払って(はらって)でも、努力(どりょく)を続けて(つづけて)いれば、アッラー(あっらー)から勝利(しょうり)とあらゆる(かたち)で潤沢(じゅんたく)を与えられる(あたえられる)、ということです。

 

第109(だい109しょう).無信者(むしんじゃ)たち(アル(ある)カーフィルーン(かーふぃるーん))

 “慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))”。

 “言え(いえ)、「お不(おふ)信者(しんじゃ)たちよ、(わたし)は、あなた(がた)崇める(あがめる)ものを崇めない(あがめない)し、あなた(がた)も、(わたし)崇めて(あがめて)服従(ふくじゅう)をしている(もの)唯一(ゆいいつ)(かみ)アッラー(あっらー))を、崇めて(あがめて)それに服従(ふくじゅう)をする(もの)たちではないだろう、(わたし)は、あなた(がた)崇めて(あがめて)きたものの,崇拝者(すうはいしゃ)ではなく、あなたがたも、(わたし)崇めて(あがめて)服従(ふくじゅう)してきたもの(唯一(ゆいいつ)(かみ)アッラー(あっらー))の、崇拝者(すうはいしゃ)ではない。あな(がた)には、あなた(がた)信仰(しんこう)生き方(いきかた)があり、(わたし)には、(わたし)信仰(しんこう)生き方(いきかた)があるのです”。

 

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)では,信仰(しんこう)を拒否(きょひ)する(もの)に対する(たいする)正しい(ただしい)態度(たいど)が教えられる(おしえられる)。真理(しんり)には妥協(だきょう)はないのであるが、(だれ)の信仰(しんこう)に対して(たいして)も、それを貶したり(けなしたり)蔑視(べっし)したりしてはならない。(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ))

 この(しょう)で強調(きょうちょう)しているのは、った(こまった)(とき)に日本人(にほんじん)だけじゃなくて、すべての人間(にんげん)がいろいろな神々(かみがみ)に助け(たすけ)を求める(もとめる)が、イスラーム(いすらーむ)の場合(ばあい)は、そういう(かみ)が全能(ぜんのう)の唯一(ゆいつ)のアッラー(あっらー)以外(いがい)に(だれ)も存在(そんざい)していないという考え方(かんがえかた)であるのです。だから、その御方(おかた)だけを崇拝(すうはい)して、(かれ)の教え(おしえ)だけに従う(したがう)べきであるのです。この基本的(きほんてき)な原理(げんり)と真実(しんじつ)に対して(たいして)、イスラ(いすら)-(む)(きょう)(など)がほかのどんな宗教(しゅうきょう)や信仰(しんこう)や生き方(いきかた)とも妥協(だきょう)は全然(ぜんぜん)出来ない(できない)、ということをこの(しょう)で教えて(おしえて)いるのです。

信仰(しんこう)に対して(たいして)この事実(じじつ)が、人類(じんるい)のすべての皆さん(みなさん)に教えた(おしえた)のは言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)に平安(へいあん)があれ)であるのです。だからそれを信じる(しんじる)(ひと)と信じない(しんじない)(ひと)がいて、両方(りょうほう)の(あいだ)には妥協(だきょう)するのがいけないのだ、ということがこの(しょう)で教えて(おしえて)いるのです。

 世の中(よのなか)には、あらゆる宗教(しゅうきょう)が存在(そんざい)しているのですが、みんなの共通点(きょうつうてん)は、イスラーム(いすらーむ)(きょう)の立場(たちば)から見た(みた)場合(ばあい)に、彼ら(かれら)が唯一(ゆいいつ)の全能(ぜんのう)の(かみ)アッラー(あっらー)を信じて(しんじて)いない、と言う(いう)ことであるのです。だから、我々(われわれ)の見方(みかた)から言えば(いえば)、それらの(みな)が無信者(むしんじゃ)になるのです。こういうふうな無信者(むしんじゃ)たちが一つ(ひとつ)の無信仰(むしんこう)という宗教(しゅうきょう)になるのです。また、唯一(ゆいいつ)の全能(ぜんのう)の(かみ)アッラー(あっらー)のことを信じて(しんじて)いる信者(しんじゃ)たちはまた(べつ)の宗教者(しゅうきょうしゃ)になるのです。この両方(りょうほう)の宗教(しゅうきょう)の考え方(かんがえかた)から見れば(みれば)、(かみ)に対して崇める(あがめる)儀式(ぎしき)だけ違う(ちがう)ことになるように見える(みえる)のです。それだけではなく、それぞれの宗教論(しゅうきょうろん)に基づいて(もとづいて)、別別(べつべつ)の道徳(どうとく)の(みち)と生き方(いきかた)も生まれて(うまれて)いるのです。また毎日(まいにち)の生活(せいかつ)習慣(しゅうかん)までも違って(ちがって)いるのです。だから、この両方(りょうほう)の違う(ちがう)信仰(しんこう)の(あいだ)は妥協(だきょう)が無理(むり)になるのです。この(に)種類(しゅるい)のなかで全て(すべて)の宗教(しゅうきょう)の基本的(きほんてき)な考え方(かんがえかた)が分けられる(わけられる)のです。

 無信者(むしんじゃ)すべての方々(かたがた)には、イスラーム(いすらーむ)(きょう)の治下(ちか)の(した)で宗教(しゅうきょう)の自由(じゆう)が与えられる(あたえられる)のです。けれども、彼ら(かれら)の宗教(しゅうきょう)や、考え方(かんがえかた)や、生き方(いきかた)にたいしては、どんなことがあっても永久(えいきゅう)に妥協(だきょう)してはいけない、ということがこの(しょう)で教えられて(おしえられて)いるのです。真理(しんり)と虚偽の(あいだ)には妥協(だきょう)がないのです。だから、無信者(むしんじゃ)は自分(じぶん)の宗教(しゅうきょう)や生き方(いきかた)を自由(じゆう)にやってよろしいですが、我々(われわれ)は、自分(じぶん)たちの信仰(しんこう)と生き方(いきかた)を固く(かたく)守って(まもって)いくべきだ、ということがこの(しょう)で述べて(のべて)いるのです。それは、人間(にんげん)を助けて(たすけて)くれる、養って(やしなって)くれる、幸せ(しあわせ)にしてくれるのは、唯一(ゆいいつ)の、全能(ぜんのう)の(かみ)がアッラー(あっらー)以外(いがい)にだれも存在(そんざい)していないからです。

 イスラーム(いすらーむ)では、サラテュル(さらてゅる)・ハージャト(はーじゃと)というと特別(とくべつ)のサラート(さらーと)があるのです。人間(にんげん)には(なに)かが大変(たいへん)な困った(こまった)ことがあって、どうしても(かみ)に助けて(たすけて)貰いたい(もらいたい)と思った(おもった)(とき)にはこの特殊(とくしゅ)なサラート(さらーと)をやるようになっているのです。このサラート(さらーと)の第一(だいいち)ラカート(らかーと)にこの(しょう)を読める(よめる)ように教えられて(おしえられて)いるのです。その重要性(じゅうようせい)がどこにあるか?この(しょう)の基本的(きほんてき)な教え(おしえ)は、全て(すべて)の神々(かみがみ)のことを強く(つよく)否定(ひてい)して、(だれ)とも(なん)の妥協(だきょう)もしないで、唯一(ゆいいつ)の、全能(ぜんのう)の(かみ)、アッラー(あっらー)だけに物事(ものごと)を頼む(たのむ)べきだという教え(おしえ)であるのです。だから人間(にんげん)が困って(こまって)、(なに)か大事(だいじ)な願い事(ねがいごと)があった(とき)の特殊(とくしゅ)なサラ(さら)-トーウルーハジャト(とーうるーはじゃと)の(なか)には、この(しょう)を読んで(よんで)、(ほか)の神々(かみがみ)じゃなくて、アッラー(あっらー)だけがそういうふうな人間(にんげん)を実際(じっさい)に助ける(たすける)(ちから)を持って(もって)いるという(おしえ)を自分(じぶん)の認識(にんしき)においてからお祈り(おいのり)するとそういう願い事(ねがいごと)が叶えられる(かなえられる)だろう、という重要性(じゅうようせい)があるのです。

 

第110(だい110しょう). 援助(えんじょ)(アン(あん)ナスル(なする))

 慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 アッラー(あっらー)からの援助(えんじょ)勝利(しょうり)来た(きた)(とき)が,あなたは、人びと(ひとびと)群れ(むれ)成して(なして)アッラー(あっらー)教え(おしえ)イスラーム(いすらーむ)(きょう))に入る(はいる)のを見た(みた)だろう,あなたの(しゅ)栄光(えいこう)誉め称え(ほめたたえ),またかれに悔い改めて(くいあらためて)御赦し(おゆるし)請え(こえ)。まことにかれは,悔い改める(くいあらためる)(かた)度々(たびたび)赦して(ゆるして)くれる御方(おかた)である。

 

 

(しょう)説明(せつめい)

この美しい(うつくしい)(しょう)はヒジュラ(ひじゅら)10(10)(ねん)、(せい)預言者(よげんしゃ)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)の最後(さいご)のマッカ(まっか)巡礼(じゅんれい)のさいミナー(みなー)で下った(くだった)ものである。大念願(だいねんがん)が成就(じょうじゅ)され,全アラビア(ぜんあらびあ)が教化(きょうか)されたのを見とどけ(みとどけ)、こ啓示(けいじ)(ご)80(80)(にち)にして、かれはアル(ある)・マディーナ(までぃーな)において逝去(せいきょ)した。勝利(しょうり)は,永年(えいねん)にわたる努力(どりょく)奉仕(ほうし)の賜物(たまもの)として,アッラー(あっらー)から下った(くだった)のである。ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ))

この(しょう)がハッジャツル(はっじゃつる)-ウィダー(うぃだー)、予言者(よげんしゃ)の最後(さいご)の巡礼(じゅんれい)、の(とき)に啓示(けいじ)されたものである。そのときは、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)の(うえ)に平安(へいあん)があれ)が、この(しょう)によって自分(じぶん)の(し)のことが知らされて(しらされて)いる、と言った(いった)のです。

この(とき)までイスラーム(いすらーむ)(きょう)を広げる(ひろげる)活動(かつどう)を始めて(はじめて)から(やく)23年(23ねん)たっていて、アラビア(あらびあ)の地域(ちいき)全部(ぜんぶ)がイスラーム(いすらーむ)(きょう)に入信(にゅうしん)していった。それで、これはアッラー(あっらー)の助け(たすけ)によってアラビア中(あらびあじゅう)イスラーム(いすらーむ)(きょう)の勝利(しょうり)の宣伝(せんでん)の(しょう)でも言える(いえる)のです。

アッラー(あっらー)の助け(たすけ)によってこの勝利(しょうり)に至る(いたる)までの23年(23ねん)の(あいだ)には、イスラーム(いすらーむ)(きょう)の信者(しんじゃ)(など)が、マッカ(まっか)(し)で初めて(はじめて)いろいろ反対(はんたい)されたり、意地悪(いじわる)されたり、苛められたり(いじめられたり)、圧迫(あっぱく)されたり、肉体的(にくたいてき)な苦痛(くつう)を与えられたり(あたえられたり)、拷問(ごうもん)にかけられたり、殺される(ころされる)ような危機(きき)も越えて(こえて)、ムスリム(むすりむ)(など)がメヂナ(めぢな)(し)へ移民(いみん)しなくてはいけない状況(じょうきょう)になったり、それから無信者軍(むしんじゃぐん)からメヂナ(めぢな)(し)では侵略(しんりゃく)されたり、メヂナ(めぢな)(し)での友好(ゆうこう)の契約をしながらユダイヤ(ゆだいや)(きょう)(ら)から裏切られたり(うらぎられたり)、またアラビア中(あらびあじゅう)からもいろいろ侵略軍(しんりゃくぐん)と戦争(せんそう)をするようなことがあったのです。そういうふうなあらゆる大変(たいへん)な時期(じき)をうまく超える(こえる)ようになったのが全部(ぜんぶ)アッラー(あっらー)のお助け(おたすけ)とお蔭(おかげ)であったのです。だから、この勝利(しょうり)のことで無信者(むしんじゃ)のように威張る(いばる)態度(たいど)をとらないで、その(しゅ)の栄光(えいこう)を誉め称え,また自分(じぶん)のすべての思い違い(おもいちがい)過失(かしつ)(つみ)対して(たいして)いつでもかれに御赦し(おゆるし)請いなさい(こいなさい)、と言う(いう)ことをこの(しょう)教えて(おしえて)いるのです。

また、この勝利(しょうり)アッラー(あっらー)御使い(みつかい)として、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)(うえ)平安(へいあん)があれ)アラビア中(あらびあじゅう)イスラーム(いすらーむ)(きょう)広げる(ひろげる)言う(いう)ミッション(みっしょん)完成(かんせい)になったことがアッラー(あっらー)によって確認(かくにん)された。自分(じぶん)与えられた(あたえられた)このミッション(みっしょん)完成(かんせい)されたので、預言者(よげんしゃ)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)はこの(しょう)によって自分(じぶん)(し)のことを知らされた(しらされた)、ということを述べて(のべて)いるのです。

 この(しょう)教えて(おしえて)いるのは、イスラーム(いすらーむ)信者(しんじゃ)(たち)生きる(いきる)(もくてき)(なに)をすべきか、と言う(いう)ことです。予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安があれ)の人生(じんせい)と(かれ)のミッシオン(みっしおん)の最終的(さいしゅうてき)な勝利(しょうり)のことから学んで(まなんで)おくべきであるのです。私たち(わたしたち)も同じく(おなじく)自分(じぶん)の生涯(しょうがい)をかけて、(い)(す)(ら)(ー)(む)(きょう)人類(じんるい)にもたらした平和(へいわ)正義(せいぎ)平等(びょうどう)貧富(ひんぷ)(さ)をなくす(など)のような高遠(こうえん)理念(りねん)理想(りそう)基づいた(もとづいた)体制(たいせい)のことがダーワー(だーわー)として(みんな)教える(おしえる)べきであるのです。また、人類(じんるい)(ため)だけじゃなくて、自分(じぶん)(くに)人々(ひとびと)幸せ(しあわせ)のためにもこの体制(たいせい)完全(かんぜん)実現(じつげん)されるような活動(かつどう)をなさるべきであるのです。

その体制(たいせい)がなにをもたらしたのか?イスラーム(いすらーむ)(きょう)(ほか)宗教(しゅうきょう)違って(ちがって)(だれ)崇める(あがめる)かとか、(だれ)崇拝(すうはい)するのか、ということだけの宗教(しゅうきょう)ではないのです。イスラーム(いすらーむ)制度(せいど)は、(れき)史上(しじょう)実行(じっこう)された国々(くにぐに)では、(みな)平和(へいわ)正義(せいぎ)平等(びょうどう)貧富(ひんぷ)(さ)をなくす(など)のようなことをもたらしたのです。

こういうイスラーム(いすらーむ)教え(おしえ)全世界(ぜんせかい)広げる(ひろげる)義務(ぎむ)果たす(はたす)べきであるのです。各ムスリム(かくむすりむ)がそう言う(いう)ライフ(らいふ)ミッション(みっしょん)持つ(もつ)べきであるのです。いろいろな障害(しょうがい)必ず(かならず)出て(でて)くるが、そういうミッション(みっしょん)持って(もって)いる方々(かたがた)には、必ず(かならず)ッラー(あっらー)からの助け(たすけ)援助(えんじょ)もついてくるので、最終的(さいしゅうてき)予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)と同じく(おなじく)勝利(しょうり)にいたるのは間違いない(まちがいない)のです。これがこの(しょう)から私たち(わたしたち)学ぶ(まなぶ)べき教訓(きょうくん)になるのです。

第111(だい111しょう). 火炎(かえん)(アル(ある)ラハブ(らはぶ)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 滅びよ(ほろびよ)アブー(あぶー)ラハブ(らはぶ)両手(りょうて)は。そして、かれも滅びて(ほろびて)しまった。かれの財産(ざいさん)(かれ)稼いだ(かせいだ)ものも、かれのためになにも(やく)立たなかった(たたなかった)。やがてかれ自分(じぶん)自身(じしん)(と(かれ)(つま)も)は、すぐに燃え盛る(もえさかる)(ほのお)業火(ごうか)(なか)焼かれる(やかれる)人々(ひとびと)悪口(わるくち)中傷(ちゅうしょう)をして歩いて(あるいて)いた、かれの(つま)焼かれる(やかれる) 彼女(かのじょ)(くび)棕櫚(しゅろ)荒縄(あらなわ)かけて。

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)は最初期(さいしょき)マッカ(まっか)啓示(けいじ)で,残酷(ざんこく)迫害(はくがい)特別(とくべつ)場合(ばあい)である。(あく)結局(けっきょく)失敗(しっぱい)のほかはなく、自分(じぶん)(て)自ら(みずから)滅す(ほろぼす)もので、(とみ)地位(ちい)(よう)をなさないという一般的(いっぱんてき)教訓(きょうくん)である。(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ)

 アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)という(ほう)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)の叔父さん(おじさん)であったのです。(かれ)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)の(ちち)アブヅウッラ(あぶづうっら)同じ(おなじ)お父さん(おとうさん)アブヅル(あぶづる)ムタッリブ(むたっりぶ)息子(むすこ)としてほんとの兄弟(きょうだい)だったのです。また、(かれ)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)の(いえ)(となり)どうしで、(かべ)ひとつで分かれて(わかれて)いたのです。アラブ(あらぶ)伝統(でんとう)として同じ(おなじ)部族(ぶぞく)方々(かたがた)お互い(おたがい)助け合う(たすけあう)義務(ぎむ)でもあったのですが、そういう密接(みっせつ)繋がり(つながり)無視(むし)して、アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)のことを徹底的(てっていてき)反対(はんたい)していたのです。予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)のもう一人(ひとり)お祖父さん(おじいさん)アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)のほんとの兄弟(きょうだい)アブ(あぶ)タリブ(たりぶ)最後(さいご)まで無信者(むしんじゃ)であったのですが、予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)を(てき)から守る(まもる)べき部族(ぶぞく)伝統(でんとう)をちゃんと果たして(はたして)いたのです。けれども、アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)(かれ)(おく)さんはこれの正反対(せいはんたい)回って(まわって)(てき)みたいに言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)を苛めたり(いじめたり)意地悪(いじわる)したりしていたのです。

全能(ぜんのう)の(かみ)アッラー(あっらー)は、普段(ふだん)どんな個人(こじん)名まえ(なまえ)出さないで(ださないで)一般的(いっぱんてき)無信者(むしんじゃ)悪者(わるもの)(など)地獄(じごく)焼かれる(やかれる)言って(いって)いるのです。けれども、アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)(つみ)(だれ)よりも酷い(ひどい)ので、(かれ)個人(こじん)名前(なまえ)まで出して(だして)、この(しょう)(かれ)がこの(よ)でも天罰(てんばつ)会う(あう)ことと、また、あの(よ)でも(かれ)(かれ)(おく)さん、二人(ふたり)とも、(ひ)焼かれる(やかれる)ということを(まえ)もって警告(けいこく)しているのです。また、この(よ)でも(かれ)と、(かれ)(おく)さんも、息子(むすこ)も、天罰(てんばつ)にあわせられた事実(じじつ)もあったのです。

 この(しょう)警告(けいこく)されたとおりに、(かれ)がこの(しょう)啓示(けいじ)されて(やく)7、8年後(7、8ねんご)凄い(すごい)天罰(てんばつ)受けて(うけて)亡くなった(なくなった)のです。(ひと)近づいて(ちかづいて)はいけないような病気(びょうき)亡くなって(なくなって)(かれ)息子(むすこ)たちも、どんな親戚(しんせき)友達(ともだち)近づけないで(ちかづけないで)(かれ)遺体(いたい)三日間(さんにちかん)腐って(くさって)しまって、一般(いっぱん)労働者(ろうどうしゃ)頼まれて(たのまれて)処分(しょぶん)されたのです。(かれ)無信者(むしんじゃ)息子(むすこ)ウテイバ(うていば)(とら)捕まえられて(つかまえられて)食われて(くわれて)、なくなったのです。また、(かれ)(おく)さんも酷い(ひどい)天罰(てんばつ)受けて(うけて)亡くなった(なくなった)のです。この(よ)では、(かれ)一所懸命(いっしょけんめい)稼いだ(かせいだ)(とみ)も、財産(ざいさん)も、地位(ちい)も、(なに)(やく)立たなかった(たたなかった)のです。来世(らいせ)でも、(かれ)(かれ)(おく)さんが、二人(ふたり)とも永久(えいきゅう)焼かれる(やかれる)、ということをこの(しょう)教えられて(おしえられて)いるのです。

  アラビア(あらびあ)では、その時代(じだい)社会(しゃかい)流行って(はやって)いた伝統(でんとう)のとおりで、アブ(あぶ)ラハブ(らはぶ)威張る(いばる)材料(ざいりょう)として、大勢(たいせい)子供(こども)と、現代(げんだい)(おく)(よろず)(ちょう)者じゃみたいに、沢山(たくさん)(とみ)財産(ざいさん)持ち主(もちぬし)であったのです。(かれ)のことを例え(たとえ)にして、この(しょう)学ぶ(まなぶ)べきことは、人間(にんげん)には信仰(しんこう)と良い行い(おこない)以外(いがい)に、この世の中(よのなか)一生(いっしょう)人生(じんせい)をかけて集めた(あつめた)(とみ)財産(ざいさん)稼いだ(かせいだ)ものが、(かみ)天罰(てんばつ)にあった(とき)や、死んで(しんで)から業火(ごうか)焼かれる(やかれる)ときには(なん)(やく)にもたたないである、と言う(いう)ことです。

 

第112(だい112しょう):純正(じゅんせい) (アル(ある)イクラース(いくらーす):AL(AL)-(-)IKHULAS)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 言え(いえ)、「それはアッラー(あっらー)である、唯一(ゆいいつ)なる御方(おかた)アッラー(あっらー)は,自存(じそん)で、だれにも頼って(たよって)いないし、かれには(みな)が頼っています。御産みなさらない(みうみなさらない)し、御産れ(おうまれ)になられたのでもない、かれに比類(ひるい)する、かれに比べ得る(くらべうる)(なに)ものもない。」

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)はマッカ(まっか)初期(しょき)啓示(けいじ)で、純正(じゅんせい)([)AL(AL)-(-)IKHULAS(IKHULAS)(])無用(むよう)のものを排して(はいして)純正(じゅんせい)にする(い)である。また本章(ほんしょう)は、唯一(ゆいいつ)なる御方(おかた)(しょう)あるいは信条(しんじょう)(しょう)とも呼ばれ(よばれ)アッラー(あっらー)唯一性(ゆいつせい)簡明(かんめい)数語(ずご)のなかに要約(ようやく)されている。それで信仰(しんこう)を告白(こくはく)し、また迷信(めいしん)を蔑視(べっし)して排撃(はいげき)する意味(いみ)で、日頃(ひごろ)よく唱えられる(となえられる)(しょう)である。(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ))

人間(にんげん)は困って(こまって)自分(じぶん)努力(どりょく)でどうにもならないと思った(おもった)(とき)には、本能的(ほんのうてき)(かみ)助け(たすけ)求める(もとめる)ようになっているのです。例えば(たとえば)(ふね)沈んで(しずんで)いてどうにもならないと思った(おもった)(とき)は、どんな人間(にんげん)でも、(め)見えない(みえない)全能(ぜんのう)(かみ)自然(しぜん)助け(たすけ)求める(もとめる)のです。多神教(たしんきょう)方々(かたがた)もそういうふうに本当(ほんとう)困って(こまって)、大変で、どうにもならない(とき)には、大勢(たいせい)神々(かみがみ)のことを忘れて(わすれて)唯一(ゆいいつ)全能(ぜんのう)(かみ)だけに助け(たすけ)求める(もとめる)のです。ずっと昔々(むかしむかし)から多神教(たしんきょう)アラビア(あらびあ)でもこういう唯一(ゆいいつ)の、全能(ぜんのう)(かみ)のことをアッラー(あっらー)言って(いって)いたのです。カアバ(かあば)神殿(しんでん)壊す(こわす)つもりで、キリスト(きりすと)(きょう)のエイメンの地域(ちいき)から(ぞう)大勢(おおぜい)兵隊(へいたい)連れて(つれて)来た(きた)アブラハ(あぶらは)侵略者(しんりゃくしゃ)(とき)でも、マッカ(まっか)(し)方々(かたがた)アッラー(あっらー)唯一(ゆいいつ)(かみ)だけに助け(たすけ)求めて(もとめて)いたのです。また、実際(じっさい)助けられた(たすけられた)のです。彼ら(かれら)(てん)(ち)(だれ)が創造したかという質問(しつもん)した場合(ばあい)は、彼ら(かれら)がそういう(かみ)アッラー(あっらー)である、といつでも答えて(こたえて)いたのです。

 この(しょう)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)は、呼びかけ(よびかけ)しているのも、彼ら(かれら)がずっと(まえ)時代(じだい)から良く(よく)ご存じ(ごぞんじ)であった.その同じ(おなじ)唯一(ゆいいつ)全能(ぜんのう)の神アッラーだけに服従(ふくじゅう)し、そうして、その御方(おかた)のことだけを崇拝(すうはい)しなさい、と言って(いって)いるのです。

 多神教(たしんきょう)神々(かみがみ)のことだけじゃなくて、ユダヤ(ゆだや)(きょう)(かみ)対して(たいして)考え方(かんがえかた)も、また、やキリスト(きりすと)(きょう)(かみ)(こ)言う(いう)考え方(かんがえかた)も、この(しょう)否定(ひてい)しているのです。世の中(よのなか)には、(だれ)(かみ)(こ)ではない。(かみ)人間(にんげん)じゃないから、人間(にんげん)みたいに子供(こども)産む(うむ)ようなことをするわけがない。また、(だれ)(かみ)産んだ(うんだ)ということもありえない、ということもこの(しょう)教えて(おしえて)いるのです。

 この(しょう)大事さ(だいじさ)としては、この短い(みじかい)(しょう)全聖(ぜんせい)クルアーン(くるあーん)三分(さんぶん)(いっ)等しい(ひとしい)言われて(いわれて)いるのです。それはこの(しょう)アッラー(あっらー)唯一性(ゆいつせい)自存性(じそんせい)語られて(かたられて)いるからです。

 イスラーム(いすらーむ)(きょう)では、基本的(きほんてき)三つ(みっつ)信条(しんじょう)があるのです。その第一(だいいち)は、唯一(ゆいいつ)全能(ぜんのう)(かみ)アッラー(あっらー)信じる(しんじる)ことと、その第二(だいに)は、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)の慈悲と平安(へいあん)があれ)のことがアッラ(あっら)-の最後(さいご)御使い(みつかい)として信じる(しんじる)ことと、その第三(だいさん)は、来世(らいせ)があって、そこの永久(えいきゅう)人生(じんせい)現世(げんせい)行い(おこない)対して(たいして)処罰(しょばつ)があるということを信じる(しんじる)ことであるのです。全聖(ぜんせい)クルアーン(くるあーん)では、この三つ(みつ)信条(しんじょう)のことが詳しく(くわしく)説明(せつめい)されているのです。この(しょう)では、この三つ(みつ)信条(しんじょう)(なか)から一つ(ひとつ)明確(めいかく)書かれて(かかれて)いるのです。だから、この(しょう)(せい)クルアーン(くるあーん)三分(さんぶん)(いっ)等しい(ひとしい)といわれているのです。

 

マウッザタエーン

第113章(だい113しょう)黎明(れいめい) (アル(ある)ファラク(ふぁらく))と第114(だい114).(しょう)人類(じんるい) 人々(ひとびと)(アン(あん)ナース(なーす))

名まえ(なまえ)

(せい)クルアーン(くるあーん)にはこの両方(りょうほう)(しょう)別々(べつべつ)(しょう)として、別々(べつべつ)名まえ(なまえ)書かれて(かかれて)いるのですが、両方(りょうほう)内容(ないよう)中身(なかみ)密接(みっせつ)お互い(おたがい)結ばれて(むすばれて)いるのです。だから、両方(りょうほう)一緒(いっしょ)にしてマウッザタエーン(まうっざたえーん)言う(いう)名まえ(なまえ)付けられて(つけられて)いるのです。その意味(いみ)は、この両方(りょうほう)(しょう)(なか)アッラ(あっら)-に守護(しゅご)求められて(もとめられて)いる、と言う(いう)ことです。そして、ここで両方(りょうほう)対して(たいして)同じ(おなじ)序論(じょろん)書いて(かいて)いるのです。けれども両方(りょうほう)(しょう)説明(せつめい)はまた別々(べつべつ)になるのです。

(せい)クラアーン(くらあーん)最後(さいご)両方(りょうほう)(しょう)説明(せつめい)

 この序論(じょろん)アル(ある)ファラク(ふぁらく)(113)とアン(あん)ナス(なす)(114)両方(りょうほう)(しょう)対して(たいして)あるのです。

 啓示(けいじ)された時期(じき)ユダヤ人(ゆだやじん)が予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)に妖術(ようじゅつ)をかけたことがあったのです。その(とき)メヂナ(めぢな)(し)で、この両方(りょうほう)(しょう)一緒(いっしょ)啓示(けいじ)されたこともあったのです。これらの(しょう)がその(まえ)一回(いっかい)マッカ(まっか)(し)にも啓示(けいじ)されたことがあったのです。同じ(おなじ)(しょう)(あるい)は、(せい)クルアーン(くるあーん)同じ(おなじ)(せつ)は、何回(なんかい)啓示(けいじ)されることも時々(ときどき)あるのです。

内容(ないよう)中心(ちゅうしん)

マッカ(まっか)(し)では、この両方(りょうほう)(しょう)下った(くだった)(とき)状況(じょうきょう)がだいぶ厳しい(きびしい)ものだったのです。イスラーム(いすらーむ)ダアワーー(だあわーー)始めた(はじめた)途端(とたん)預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)が蜂の巣(はちのす)突いた(ついた)感じ(かんじ)になったのです。(かれ)ダアワー(だあわー)広がる(ひろがる)たんびにクライシュ族(くらいしゅぞく)反対(はんたい)行動(こうどう)がだいぶ強く(つよく)なっていたのです。敵側(てきがわ)にまだ(なに)かの取引(とりひき)で、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)がダアワー(だあわー)活動(かつどう)をやめるだろう、という見込み(みこみ)があった(とき)までは、反対(はんたい)活動(かつどう)はまだそれほど厳しく(きびしく)ならなかったのです。けれども、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)に、お金(おかね)と女と社会的(しゃかいてき)(うえ)地位(ちい)みたいないろいろな誘惑(ゆうわく)提供(ていきょう)してみても無駄(むだ)だったのです。彼ら(かれら)お互い(おたがい)宗教(しゅうきょう)や、お互い(おたがい)神々(かみがみ)にかわりがわりの順番(じゅんばん)崇める(あがめる)ような妥協(だきょう)提案(ていあん)第109章(だい109しょう)によって断られた(ことわられた)のです。誘惑(ゆうわく)妥協(だきょう)もきかないと分かった(わかった)時点(じてん)からかれらの反対(はんたい)活動(かつどう)がかなり酷く(ひどく)なったのです。

 そういう状況(じょうきょう)(とき)がこの両方(りょうほう)(しょう)啓示(けいじ)されたのです。

マッカ(まっか)(し)で予言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)が強迫(きょうはく)されたり、妖術(ようじゅつ)をかけられたり、と言う(いう)ようなあらゆる方法(ほうほう)苛められたり(いじめられたり)していたのです。自分(じぶん)自身(じしん)守る(まもる)ためにどんな政治的(せいじてき)権力(けんりょく)兵隊(へいたい)など(なに)もなかったのです。そういう(とき)が、アッラー(あっらー)だけが守って(まもって)くれる、ということが皆さん(みなさん)にこれらの(しょう)をとおして、知らせて(しらせて)くれているのです。

 日本人(にほんじん)(なか)には、(くるま)(あるい)(くび)お守り(おまもり)をかける方々(かたがた)もいるのです。そのお守り(おまもり)をかけた場合(ばあい)(だれ)守って(まもって)くれるのか?その答え(こたえ)良く(よく)分からない(わからない)のです。イスラーム(いすらーむ)(きょう)場合(ばあい)はこの両方(りょうほう)(しょう)でそういうお守り(おまもり)全能(ぜんのう)唯一(ゆいいつ)(かみ)アッラー(あっらー)によって可能(かのう)である、ということが、この両方(りょうほう)(しょう)明らか(あきらか)述べて(のべて)いるのです。

 預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラー(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)にもユダヤ(ゆだや)(きょう)方々(かたがた)からかけられた(ようじゅつ)は、この両方(りょうほう)(しょう)全能(ぜんのう)(かみ)アッラー(あっらー)から啓示(けいじ)された(もと)アラビア語(あらびあご)言葉(ことば)、そのオリジナル(おりじなる)な、本来(ほんらい)アラビア語(あらびあご)で、(かみ)から直接(ちょくせつ)啓示(けいじ)されたそのものの言葉(ことば)不思議(ふしぎ)精神的(せいしんてき)(ちから)で、その妖術(ようじゅつ)無効(むこう)になってしまったのです。だから、この両方(りょうほう)(しょう)えて(おぼえて)いて、常に(つねに)私たち(わたしたち)アッラー(あっらー)守って(まもって)貰う(もらう)ように願った(ねがった)(ほう)良い(よい)のです。

 預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)アッラ(あっらー)慈悲(じひ)平安(へいあん)があれ)は、毎晩(まいばん)寝る(ねる)(まえ)に、この両方(りょうほう)(しょう)読んで(よんで)、その読んで(よんで)からの(いき)自分(じぶん)両方(りょうほう)(て)振って(ふって)、その両方(りょうほう)(て)自分(じぶん)(かお)から(あし)まで全体(ぜんたい)撫でて(なでて)から寝る(ねる)ことにしていたのです。この修業(しゅぎょう)概念(がいねん)としては、(かみ)から直接(ちょくせつ)啓示(けいじ)されたこの両方(りょうほう)(しょう)(もと)言葉(ことば)不思議(ふしぎ)(ちから)で、自分(じぶん)全体(ぜんたい)が、(め)見えない(みえない)あらゆる(がい)から守って(まもって)貰える(もらえる)ということです。こういう(かみ)から直接(ちょくせつ)啓示(けいじ)された(もと)言葉(ことば)に、そういうふうな妖術(ようじゅつ)溶ける(とける)ような、(あるい)は、(め)見えない(みえない)あらゆる(がい)から守って(まもって)貰える(もらえる)ような、不思議(ふしぎ)(ちから)対して(たいして)現代(げんだい)科学(かがく)知識(ちしき)がまだ及ばない(およばない)ので、なにも理論付(りろんづけ)ができないのです。それは(かみ)信じた(しんじた)(ひと)(かみ)から与えられた(あたえられた)不思議(ふしぎ)精神(せいしんてき)(ちから)思う(おもう)以外(いがい)にほかに(なん)説明(せつめい)もできないのです。

 この二つ(ふたつ)(しょう)だけで、そのぐらいの不思議(ふしぎ)精神的(せいしんてき)(ちから)があるということが立証(りっしょう)されているとすれば、全聖(ぜんせい)クルアーン(くるあーん)(もと)言葉(ことば)にどれ程目(ほどめ)見えない(みえない)不思議(ふしぎ)な、精神的(せいしんてき)な、(ちから)があるのだろか、想像(そうぞう)がつかないのです。

第113章(だい113しょう)黎明(れいめい) (アル(ある)ファラク(ふぁらく)

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)はマッカ(まっか)初期(しょき)啓示(けいじ)外界(がいかい)からの災厄(さいやく)他人(たにん)からの害意(がいい)策謀(さくぼう)嫉妬(しっと)対し(たいし)アッラー(あっらー)守護(しゅご)祈り(いのり)迷信(めいしん)恐れ(おそれ)(こころ)排除(はいじょ)する。(ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 言え(いえ)、「夜明け(よあけ)(しゅ)守護(しゅご)求める(もとめる)、かれが創造(そうぞう)してくれたもの(から発生(はっせい)するすべて)の(あく)から、(よる)深まる(ふかまる)暗闇(くらやみ)凄く(すごく)覆われた(おおわれた)(とき)(あく)危害(きがい))から、 結び目(むすびめ)(いき)吹きかける(ふきかける)妖術使い(ようじゅつづかい)(ひと)たちの(あく)から、また、嫉妬(しっと)する(もの)実際(じっさい)嫉妬(しっと)をした(とき)行動(こうどう)(あく)災厄(さいやく))から。」

解説(かいせつ)(1(1)):言え(いえ)」と言う(いう)言葉(ことば)が、人類(じんるい)に(かみ)の教え(おしえ)を伝える(つたえる)(ため)に、預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)に与えられた(あたえられた)メッセージ(めっせーじ)の一部(いちぶ)であるのです。この言葉(ことば)の第一(だいいち)受信人(じゅしんひと)が預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)であるのですが、(かれ)の(つぎ)は各信者(かくしんじゃ)がこれの受信人(じゅしんじん)になるのです。簡単(かんたん)に言う(いう)と、アッラー(あっらー)から受けた(うけた)導き(みちびき)を(みな)に伝えなさい(つたえなさい)、という意味(いみ)も執られて(とられて)いるのです。

解説(かいせつ)(2(2)):守護(しゅご)を求める(もとめる)行為(こうい)の(なか)に三つ(みっつ)の部分(ぶぶん)があるのです。その第一(だいいち)は、守護(しゅご)を求める(もとめる)行為(こうい)自体(じたい)です。その第二(だいに)は、守護(しゅご)を求める(もとめる)(かた)と、その第三(だいさん)は、守護(しゅご)をくれる(かた)であるのです。守護(しゅご)を求める(もとめる)ということは、(なに)か恐ろしい(おそろしい)ものがあって、その恐ろしさ(おそろしさ)から守って(まもって)貰う(もらう)ために、(だれ)か第三者(だいさんしゃ)の保護(ほご)のもとにいくか、(だれ)かの(ところ)へ隠れる(かくれる)か、(だれ)かにしがみ付く(しがみつく)か、(だれ)かの(かげ)のもとに行く(いく)か、と言う(いう)ようなことであるのです。守護(しゅご)を求める(もとめる)(かた)言う(いう)のは、自分(じぶん)が怖がって(こわがって)いるものから自分(じぶん)自身(じしん)の(ちから)で守りきれない(まもりきれない)、と言う(いう)ような(かた)のことです。だから、そう言う(いう)(かた)(だれ)か第三者(だいさんしゃ)の守護(しゅご)を求める(もとめる)必要性(ひつようせい)が凄く(すごく)感じて(かんじて)いるのです。また、その守護(しゅご)を求められる(もとめられる)第三者(だいさんしゃ)に対して(たいして)、守護(しゅご)を求める(もとめる)(ほう)が、自分(じぶん)が怖がって(こわがって)いる恐ろしい(おそろしい)ものから、自分(じぶん)自身(じしん)のことを保護(ほご)できるような凄い(すごい)(ちから)の持ち主(もちぬし)の(ほう)が、その第三者(だいさんしゃ)だけである、と思って(おもって)いるのです。

また、守護(しゅご)を求める(もとめる)種類(しゅるい)の(なか)に第一(だいいち)は、自然(しぜん)法則(ほうそく)で動いて(うごいて)いるこの物質(ぶっしつ)世界(せかい)のなかでは、(なに)か物質(ぶっしつ)の(もの)や、(ちから)や、(ひと)から求められる(もとめられる)ような守護(しゅご)であるのです。例えば(たとえば)、(てき)の攻撃(こうげき)から自分(じぶん)を救う(すくう)(ため)には、どこかのお城(おしろ)に入って(はいって)自分(じぶん)の(み)を守る(まもる)ことや、弾丸(だんがん)の(あめ)から救う(すくう)(ため)には、(なに)か塹壕(ざんごう)に入るや(はいるや)、どこかの(かべ)や(おか)の後ろ(うしろ)に隠れる(かくれる)ことや、(だれ)か残酷(ざんこく)な暴君(ぼうくん)から救う(すくう)(ため)には、(だれ)か強い(つよい)(ひと)や、国家(こっか)や、政府(せいふ)によって保護(ほご)して貰う(もらう)ようなことや、太陽(たいよう)の熱い(あつい)日光(にっこう)から救う(すくう)ためには、(なに)か(き)や建物(たてもの)の影に行く(いく)ようないろいろなことがあるのです。

(うえ)に述べた(のべた)ような守護(しゅご)を求める(もとめる)種類(しゅるい)以外(いがい)に、それの第二(だいに)種類(しゅるい)としては、全て(すべて)の危険性(きけんせい)のあるものと、また、全て(すべて)の物質的(ぶっしつてき)、道徳的(どうとくてき)や精神的(せいしんてき)な(がい)や損害(そんがい)の恐れ(おそれ)のあるものや、あらゆる恐ろしい(おそろしい)ものから救う(すくう)(ため)に、超自然的(ちょうしぜんてき)な(もの)に守護(しゅご)を求める(もとめる)、と言う(いう)ことです。この種類(しゅるい)の守護(しゅご)は、ある信条(しんじょう)に基づいて(もとづいて)やることです。その信条(しんじょう)としては、ある御方(おかた)に対して(たいして)、超自然的(ちょうしぜんてき)な方法(ほうほう)で守護(しゅご)を求める(もとめる)(もの)の望み(のぞみ)を叶える(かなえる)能力(のうりょく)と(ちから)を必ず(かならず)持って(もって)いるだろう、と言う(いう)ことを信じる(しんじる)ことです。このアル(このある)-ファラク(ふぁらく)(しょう)とこの(つぎ)のアン(あん)・ナス(なす)(しょう)で守護(しゅご)を求められて(もとめられて)いるのは、この第二(だいに)種類(しゅるい)の守護(しゅご)のことです。

また、(せい)クルアーン(くるあーん)とハヂース(はぢーす)(預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)のすべの教え(おしえ))で、どこでも守護(しゅご)を求める(もとめる)という(はなし)がでてきた場合(ばあい)は、それのすべてが、この第二(だいに)の種類(しゅるい)の守護(しゅご)のことであるのです。イスラーム(いすらーむ)の一神教(いっしんきょう)の信条(しんじょう)に基づいて(もとづいて)、この種類(しゅるい)の守護(しゅご)は、全能(ぜんのう)の唯一(ゆいいつ)の(かみ)、アッラー(あっらー)、以外(いがい)にどんな(もの)にも求める(もとめる)のは、固く(かたく)禁じられて(きんじられて)いるのです。これが、多神教(たしんきょう)と現代(げんだい)物質(ぶっしつ)主義(しゅぎ)の方々(かたがた)の考えかた(かんがえかた)とイスラーム(いすらーむ)の一神教(いっしんきょう)の基本的(きほんてき)な考え方(かんがえかた)の違い(ちがい)であるのです。(むかし)の多神教(たしんきょう)(ら)も、また現代(げんだい)の多神教(ら)も、(みな)がアッラー(あっらー)以外(いがい)にあらゆるものや神々(かみがみ)に守護(しゅご)を求めて(もとめて)いるのです。

現代(げんだい)の物質(ぶっしつ)主義者(しゅぎしゃ)の場合(ばあい)は、因果(いんが)論者(ろんしゃ)であり、自分(じぶん)の努力(どりょく)で集められる(あつめられる)手段(しゅだん)だけに頼って(たよって)いて、それで思い(おもい)どおりの良い(よい)結果(けっか)がでないで、失敗(しっぱい)になってしまった場合(ばあい)は、がっかりしたり、自殺(じさつ)したり、しているのです。そういう方々(かたがた)が(なに)か超自然的(ちょうしぜんてき)な御方(おかた)の存在(そんざい)も認めて(みとめて)いないのです。また、そういうかたがたは、だれか御方(おかた)の超自然的(ちょうしぜんてき)な(ちから)と能力(のうりょく)のささえと(おうえん)によって、やるべき手段(しゅだん)や方法(ほうほう)のことも(みちび)きられて、自分(じぶん)の望み(のぞみ)が叶えられる(かなえられる)可能性(かのうせい)もあるだろう、と言う(いう)考え(かんがえ)も認めない(みとめない)のです。

イスラーム(いすらーむ)の信者(しんじゃ)の場合(ばあい)は、あらゆる、(なん)の(ちから)もない、神々(かみがみ)に守護(しゅご)を求めない(もとめない)のです。また、自分(じぶん)の(ちから)や能力(のうりょく)や努力(どりょく)で防げない(ふせない)あらゆる災難(さいなん)や、逆境(ぎゃっきょう)や、不運(ふうん)から守護(しゅご)をめる(もとめる)ためには、アッラー(あっらー)の(ほう)だけに、頼み(たのみ)を向ける(むける)のです。

解説(かいせつ)(3):ここで{ラッブル(らっぶる)・ファラク(ふぁらく)}と言う(いう)言葉(ことば)の意味(いみ)は解説者(かいせつしゃ)の多く(おおく)の(ほう)が夜明け(よあけ)の(しゅ)」、と書いて(かいて)あるのです。というのは、夜中(よなか)の暗闇(くらやみ)を突き破って(つきやぶって)、明るい(あかるい)夜明け(よあけ)を抜き出して(ぬきだして)くれるような(ちから)と能力(のうりょく)を持って(もって)いる御方(おかた)の守護(しゅご)を求める(もとめる)ということです。ファラク(ふぁらく)と言う(いう)言葉(ことば)の意味(いみ)は、(なに)か固い(かたい)ものを突き破って(つきやぶって)出て(でて)くるようなことです。例えば(たとえば)、(たまご)の固い(かたい)(かわ)を突き破って(つきやぶって)(にわとり)のひよこが(そと)へ出て(でて)くるのです。全て(すべて)の野菜(やさい)や植物(しょくぶつ)が、(たね)のかわと固い(かたい)(つち)を突き刺して(つきさして)、(つち)の(なか)から(うえ)までに出て(でて)くるのです。(いけ)の(みず)が(つち)を破って(やぶって)(うえ)までに出て(でて)くるので、(いけ)と言う(いう)(かたち)になるのです。全て(すべて)の生き物や動物(どうぶつ)や人間(にんげん)自体(じたい)が自分(じぶん)のお母さん(おかあさん)のお腹(おなか)から出て(でて)くるのです。そういうようなすべてのことが、ファラク(ふぁらく)と言う(いう)言葉(ことば)の意味(いみ)に入るのです。そういうファラク(ふぁらく)と言う(いう)機能(きのう)が、すべての植物(しょくぶつ)や動物(どうぶつ)や人間(にんげん)に対して(たいして)創造(そうぞう)してくれたのは、(みな)の(しゅ)、全能(ぜんのう)の唯一(ゆいいつ)の(かみ)、アッラー(あっらー)、であるということです。この幅広い(はばひろい)意味(いみ)をとった場合(ばあい)は、そういう(かたち)や方法(ほうほう)で全て(すべて)のものを創造(そうぞう)してくれた、その御方(おかた)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ことになるのです。

また、もう一つ(ひとつ)(べつ)の意味(いみ)で理解(りかい)するためには、(つぎ)のことが分かる(わかる)必要(ひつよう)があるのです。ここで(かみ)、その御方(おかた)自信(じしん)の名まえ(なまえ)、アッラー(あっらー)、という言葉(ことば)を使わないで(つかわないで)、その御方(おかた)の99の性質(せいしつ)の(なか)から、一つ(ひとつ)特殊(とくしゅ)な性質(せいしつ)のある特殊(とくしゅ)の役名(やくめい)を指摘(してき)したような表現(ひょうげん)にしているのです。この(しょう)の中心(ちゅうしん)テーマ(てーま)は、あらゆる不運(ふうん)、不幸(ふこう)、損害(そんがい)、逆境(ぎゃっきょう)、災難(さいなん)(とう)から守護(しゅご)を求める(もとめる)ことであるのです。だから、それが(よる)の暗闇(くらやみ)と思えば(おもえば)、それを突き刺して(つきさして)夜明け(よあけ)を抜きだす(ぬきだす)ような、能力(のうりょく)と(ちから)を持って(もって)いる御方(おかた)に守護(しゅご)を求める(もとめる)、ということです。(かみ)のこの特殊(とくしゅ)な役名(やくめい)を指摘(してき)する(ため)に(かみ)の名まえ(なまえ)、アッラー(あっらー)、と言わないで(いわないで)、その御方(おかた)のそういう暗闇(くらやみ)の(なか)から夜明け(よあけ)の明るさ(あかるさ)を引っ張って(ひっぱって)くれるような特殊(とくしゅ)な性質(せいしつ)が、この(せつ)で指摘(してき)されているのです。そういう性質(せいしつ)を持って(もって)いる御方(おかた)こそが、人間(にんげん)の不幸(ふこう)と不運(ふうん)の暗闇(くらやみ)は夜明け(よあけ)の明るさ(あかるさ)のように幸せ(しあわせ)と幸運(こううん)にしてくれるし、また全て(すべて)の災難(さいなん)からも保護(ほご)をしてくれるのです、と言う(いう)意味(いみ)がこのラッブル(らっぶる)・ファラク(ふぁらく)の言葉(ことば)の表現(ひょうげん)の(なか)に含まれて(ふくまれて)いるのです。

解説(かいせつ)(4):「かれが創造(そうぞう)してくれたもの(から発生(はっせい)するすべて)の(あく)から」というこの(せつ)の説明(せつめい)で、(つぎ)のことを明らかにする必要(ひつよう)があるのです。

 その第一(だいいち)は、どんな(あく)でも、アッラー(あっらー)がわざわざ(あく)としてそれを創造(そうぞう)しているわけではない、ということです。ここで言って(いって)いるのは、アッラー(あっらー)が創造(そうぞう)してくれた全て(すべて)のものから発生(はっせい)するすべての(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)、ということです。アッラー(あっらー)がどんなものでも、(あく)のためにあるいは、(あく)という目的(もくてき)で創造(そうぞう)したわけではないのです。その御方(おかた)のやる全て(すべて)のことは(ぜん)であり、(なに)か良い(よい)目的(もくてき)で、(なに)か良い(よい)役名(やくめい)を果たす(はたす)ためであるのです。がその御方(おかた)が創造(そうぞう)してくれたある創造物(そうぞうぶつ)から時々(ときどき)(わる)が発生(はっせい)する場合(ばあい)もあるのです。またある(しゅ)の創造物(そうぞうぶつ)から、ほとんど(わる)が発生(はっせい)することが多い(おおい)場合(ばあい)もあるのです。だから、そういう創造物(そうぞうぶつ)から発生(はっせい)する(あく)から、その御方(おかた)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ことが人間(にんげん)に必ず(かならず)必要(ひつよう)であるのです。それは、どんな人間(にんげん)でも、自分(じぶん)自身(じしん)の知恵(ちえ)と(ちから)だけで、そういうふうな多く(おおく)の(あく)から自分(じぶん)自身(じしん)の守護(しゅご)が出来ない(できない)からです。

 その第二(だいに)は、この一つ(ひとつ)の(せつ)ですべての創造物(そうぞうぶつ)の(あく)から守護(しゅご)を求められて(もとめられて)いるのです。だから、またあとでいろいろな(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)のが、必要(ひつよう)ではないのですが、これから(つぎ)のいろいろな(せつ)と、この(しょう)と(つぎ)の(しょう)の(すべて)の(せつ)で、またいろいろな(あく)から守護(しゅご)を求められて(もとめられて)いるのです。というのは、この(しょう)と(つぎ)の(しょう)で述べられて(のべられて)いる(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)ことは、この述べられて(のべられて)いる(わる)が特別(とくべつ)なものであり、その特別(とくべつ)な(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)のは、人間(にんげん)には、何より(なにより)も一番(いちばん)大事(だいじ)なのです。

その第三(だいさん)は、全て(すべて)の創造物(そうぞうぶつ)から発生(はっせい)する(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)(ため)には、一番(いちばん)妥当(だとう)と、効果的(こうかてき)なやりかたは(なに)でしょうか?それらの創造(そうぞう)(しゅ)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ことであるのです。自分(じぶん)の支配(しはいにん)と戦う(たたかう)(ちから)がどんな創造物(そうぞうぶつ)も持って(もって)いないのです。またその御方(おかた)が、我々(われわれ)が知って(しって)いるその創造物(そうぞうぶつ)から発生(はっせい)するすべての(あく)と、我々(われわれ)が全然(ぜんぜん)知らない(しらない)そういうふうな(あく)の全て(すべて)も、良く(よく)ご存じ(ごぞんじ)であるのです。その創造(そうぞう)(しゅ)が、自分(じぶん)の創造物(そうぞうぶつ)のことを完全(かんぜん)に支配(しはい)しているのです。だから、そういうふうな御方(おかた)から守護(しゅご)を求める(もとめる)ことによって、われわれが知って(しって)いる(あく)であろうが、全然(ぜんぜん)知らない(しらない)(あく)であろうが、各創造物(かくそうぞうぶつ)の各悪(かくあく)から守られる(まもられる)のです。また、この現世(げんせ)に存在(そんざい)している(あく)だけじゃなくて、来世(らいせ)の全て(すべて)の(あく)からも守られる(まもられる)のです。

その第四(だいよん)は、ここで「(あく)」という言葉(ことば)が直ぐ(すぐ)に直接(ちょくせつ)受ける損害や、被害や、痛みや、気の毒のことや、(くや)しさことや残念(ざんねん)なことのような意味(いみ)で使われて(つかわれて)いるのです。また、こういうふうないろいろなことを直ぐ(すぐ)に直接(ちょくせつ)受けないで(うけないで)、(なに)かの原因(げんいん)で、そういうふうな結果(けっか)がでてくる可能性(かのうせい)がある場合(ばあい)でも、その原因(げんいん)のことも「(あく)」という言葉(ことば)の意味(いみ)に入って(はいって)いるのです。例えば(たとえば)、病気(びょうき)、飢餓(きが)、(なに)かの事故(じこ)や戦争(せんそう)でけが人(けがにん)になることや、火炎(かえん)で焼かれる(やかれる)ことや、(へび)やほかの動物(どうぶつ)に噛まれる(かまれる)ことや、子供(こども)や親しい(したしい)友人(ゆうじん)の(し)で悲しむ(かなしむ)ことのような直ぐ(すぐ)、直接(ちょくせつ)受けられる(うけられる)ことが、ここで「(あく)」の一つ(ひとつ)の意味(いみ)にあるのです。けれども、直ぐ(すぐ)(め)に見えない(みえない)ような「(あく)」もこれの意味(いみ)に入って(はいって)いるのです。(なに)かの原因(げんいん)によって、似た(にた)ような「(あく)」が将来(しょうらい)の結果(けっか)としてでてくる可能性(かのうせい)があった場合(ばあい)でも、その原因(げんいん)のことも同じく(おなじく)「(あく)」の意味(いみ)でとられているのです。この二番目(にばんめ)の意味(いみ)の「(あく)」の(れい)としては、不信者(ふしんじゃ)たちや、多神教(たしんきょう)(とう)や、罪深い(つみぶかい)方々(かたがた)の場合(ばあい)は、直ぐ(すぐ)に(なん)の「(あく)」も直接(ちょくせつ)受ける(うける)ことがないこともあるのです。また、場合(ばあい)によっては、ある特定(とくてい)な(つみ)によって、一時的(いちじてき)な楽しみ(たのしみ)や利益(りえき)のこともあるのです。けれども、こういうふうな(ひと)(たち)が、最終的(さいしゅうてき)には、結果(けっか)として、あらゆる(かたち)でこの現世(げんせい)でも、また来世(らいせ)でも、「(あく)」に直面(ちょくめん)することがあるのです。だから、そういうふうな原因(げんいん)のことも「(あく)」の意味(いみ)に入る(はいる)のです。そういうふうな両方(りょうほう)の「(あく)」から守護(しゅご)を求める(もとめる)ことを、この(せつ)で教えて(おしえて)いるのです。

その第五(だいご)は、もう(すで)に直面(ちょくめん)している(わる)からも、また、まだ直面(ちょくめん)していない(わる)からも、両方(りょうほう)の(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)意味(いみ)もこ(せつ)の意味(いみ)に入って(はいって)いるのです。

解説(かいせつ)(5):全て(すべて)の創造物(そうぞうぶつ)から発生(はっせい)する(あく)の(あと)で、これから創造物(そうぞうぶつ)から発生(はっせい)するある特殊(とくしゅ)な(あく)から(とく)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ように教えられて(おしえられて)いるのです。それの第一(だいいち)は、「 深まる(ふかまる)(よる)の暗闇(くらやみ)が凄く(すごく)覆われた(おおわれた)(とき)の(あく)(危害(きがい))から、」のことです。アッラー(あっらー)が(よる)の深い(ふかい)暗闇(くらやみ)が「(あく)」として創造(そうぞう)したわけではないのです。けれども、犯罪(はんざい)や、邪悪(じゃあく)や、残酷(ざんこく)のようなことが、殆んど(ほとんど)(よる)の暗闇(くらやみ)の(なか)で起こって(おこって)いるのが多い(おおい)のです。有害(ゆうがい)な動物(どうぶつ)もおもに(よる)の暗闇(くらやみ)の中に(ほか)へでてくるのです。

預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)が、あるハヂース(はぢーす)でそういうことを教えて(おしえて)いるのです:「太陽(たいよう)が沈んだ(しずんだ)(あと)には、悪魔(あくま)たちがあらゆる方面(ほうめん)に撒き散らす(まきちらす)のです。だから、(よる)の暗闇(くらやみ)が終わる(おわる)までに、自分(じぶん)の(こども)たちを(いえ)に戻して(もどして)、飼育(しいく)動物(どうぶつ)を結んで(むすんで)おくようにしなさい。」このハヂース(はぢーす)からも(よる)の暗闇(くらやみ)の(あく)のことが明らか(あきらか)になるのです。

またここで、(よる)の深い暗闇(くらやみ)の(あく)から「夜明け(よあけ)の(しゅ)に守護(しゅご)を求める(もとめる)」と言う(いう)ような表現(ひょうげん)は(こころ)に強い(つよい)、印象的(いんしょうてき)な、効果(こうか)を与える(あたえる)のです。

解説(かいせつ)(6):それの第二(だいに)は、「結び目(むすびめ)に(いき)を吹きかける(ふきかける)妖術使い(ようじゅつづかい)の(ひと)たちの(あく)から」という(せつ)では、妖術(ようじゅつ)を掛ける(かける)行為(こうい)自体(じたい)もいろいろな特殊(とくしゅ)な(あく)の(なか)には、一つ(ひとつ)酷い(ひどい)「(あく)」である、ということが明らか(あきらか)に教えられて(おしえられて)いるのです。また預言者(よげんしゃ)ムハッマド(むはっまど)((かれ)にアッラー(あっらー)の慈悲(じひ)と平安(へいあん)があれ)のいろいろハヂース(はぢーす)に基づいて(もとづいて)、全て(すべて)のイスラーム(いすらーむ)の学者(がくしゃ)が妖術(ようじゅつ)のことが、ハラーム(はらーむ)だと言って(いって)、これのことがはっきりと禁じられて(きんじられて)いる、という結論(けつろん)に(みな)が一致(いっち)しているのです。

解説(かいせつ)(7):それの第三(だいさん)は、「嫉妬(しっと)する(もの)が実際(じっさい)に嫉妬(しっと)をした(とき)の行動(こうどう)の(あく)(災厄(さいやく))から。」という(せつ)では、嫉妬(しっと)をする(ほう)が(こころ)の(なか)にそういう気持ち(きもち)だけを抱いて(だいて)いて、実際(じっさい)になにも嫉妬(しっと)するような行動(こうどう)に移らない(うつらない)場合(ばあい)は、そういう嫉妬感(しっとかん)が(なに)も(き)にする必要(ひつよう)がないのです。相手(あいて)が、実際(じっさい)に嫉妬(しっと)の行動(こうどう)に移った(うつった)(とき)に、その(あく)から守護(しゅご)を求める(もとめる)ように、と言われて(いわれて)いるのです。

嫉妬(しっと)の意味(いみ)は、もしアッラー(あっらー)が(だれ)かに(なに)か恵み(めぐみ)や恩恵(おんけい)や特典(とくてん)を与えて(あたえて)くれた場合(ばあい)は、それに対して(たいして)ほかの(ひと)が焼いて(やいて)、その(ひと)からその恵み(めぐみ)を全部(ぜんぶ)盗られて(とられて)、自分(じぶん)の(ほう)がその全部(ぜんぶ)を貰う(もらう)ような気持ち(きもち)を抱く(だく)のが嫉妬(しっと)というのです。自分(じぶん)がそれを貰わなくて(もらわなくて)も、相手(あいて)からそれを全部(ぜんぶ)盗られた(とられた)(ほう)が良い(よい)、という気持ち(きもち)も嫉妬(しっと)になるのです。

そういうふうに嫉妬(しっと)をされている事態(じたい)が起こった(おこった)(とき)に、どういう対策(たいさく)がいいのでしょうか?こういう場合(ばあい)は、一番先(いちばんさき)にやることは、アッラー(あっらー)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ことです。それと同時(どうじ)にマウドヂー(まうどぢー)先生(せんせい)が(つぎ)の対策(たいさく)を進めて(すすめて)いるのです。

それの第一(だいいち)は、人間(にんげん)がアッラー(あっらー)を頼る(たよる)べきです。アッラー(あっらー)の意思(いし)がない限り(かぎり)、どんな(ひと)もほかの(ひと)に被害(ひがい)を与える(あたえる)ことが出来ない(できない)、ということを固く(かたく)信じる(しんじる)べきです。自分(じぶん)に対して(たいして)どんなに嫉妬(しっと)をしている(ひと)がいても、アッラー(あっらー)以外(いがい)に(だれ)も自分(じぶん)に(なん)の(がい)も与える(あたえる)(ちから)がない、という信念(しんねん)を持つ(もつ)べきです。

それの第二(だいに)は、嫉妬(しっと)する(ひと)が、自分(じぶん)に対して(たいして)いくらいやな、(うそ)の話し(はなし)を言いふらして(いいふらして)いても、それを(き)にしないことです。最終的(さいしゅうてき)に(みな)が真実(しんじつ)が分かる(わかる)のです。(ひと)の悪口(わるくち)を言いふらして(いいふらして)いる(かた)自身(じしん)が、(みな)に悪い(わるい)と思われる(おもわれる)のです。自分(じぶん)として、(いや)な(はなし)を我慢(がまん)して、嫉妬(しっと)する(ひと)と同じ(おなじ)(れ)べ(る)に落ちない(おちない)ようにするべきです。

それの第三(だいさん)は、嫉妬(しっと)する(ひと)のことを、完全(かんぜん)に無視(むし)することです。(かれ)のいやな(はなし)を(き)にするのが、嫉妬(しっと)する(ひと)の目的(もくてき)ですので、それを完全(かんぜん)に無視(むし)すると嫉妬(しっと)する(ひと)の策略(さくりゃく)が自然(しぜん)と失敗(しっぱい)になるのです。

それの最後(さいご)の第四(だいよん)は、嫉妬(しっと)する(ひと)に対して(たいして)復讐(ふくしゅう)してやるという気持ち(きもち)にならないで、(ぎゃく)にチャンス(ちゃんす)があれば、そういう(ほう)に対して(たいして)、いつも親切(しんせつ)な扱い(あつかい)をしていた(ほう)が良い(よい)のです。一神教(いっしんきょう)で唯一(ゆいいつ)の(かみ)、アッラー(あっらー)、だけに頼って(たよって)いる信者(しんじゃ)の(こころ)の(なか)には、アッラー(あっらー)以外(いがい)に(だれ)の恐れ(おそれ)も入らない(はいらない)のです。そういう(ほう)が、(ひと)に嫉妬(しっと)されているから(なに)か怖い(こわい)ことが起こる(おこる)だろう、ということを絶対(ぜったい)に恐れない(おそれない)のです。だから(てき)に対して(たいして)も親切(しんせつ)な扱い(あつかい)の心構え(こころがまえ)を持って(もって)いるのです。

第114(だい114).(しょう)人類(じんるい) 人々(ひとびと)(アン(あん)ナース(なーす))

(しょう)説明(せつめい)

 本章(ほんしょう)はマッカ(まっか)初期(しょき)啓示(けいじ)で,前章(ぜんしょう)外部(がいぶ)から来る(くる)災厄(さいやく)対する(たいする)祈り(いのり)一対(いっつい)になって、自分(じぶん)内面(ないめん)由来(ゆらい)する(あく)に対し守護(しゅご)祈る(いのる)。われわれの日常(にちじょう)生活上(せいかつじょう)五感(ごかん)通じ(つうじて)働きかける(はたらきかける)(あく)囁き(ささやき)対して(たいして)、われわれの向上(こうじょう)発展(はってん)妨げ(さまたげ)無意味(むいみ)悩み(なやみ)原因(げんいん)となり、(こころ)重荷(おもに)にならないよう、アッラー(あっらー)導き(みちびき)ご加護(ごかご)祈る(いのる)。 (ウマル(うまる)三田(みた)解説(かいせつ)

慈悲(じひ)深い(ぶかい)何回(なんかい)何回(なんかい)無限(むげん)慈悲(じひ)下さる(くださる)アッラー(あっらー)御名(みな)において(始めます(はじめます))。

 言え(いえ)、「人類(じんるい)(しゅ)守護(しゅご)求める(もとめる)人類(じんるい)(おう)に、人類(じんるい)(かみ)に。こっそりと何回(なんかい)何回(なんかい)忍び込み(しのびこみ)、(悪い(わるい)考え(かんがえ)の)囁く(ささやく)(もの)(あく)から、それが人間(にんげん)(むね)(悪い(わるい)考え(かんがえ)の)囁きかける(ささやきかける)(もの)である。ジン(じん)であろうと、人間(にんげん)であろうと。」

解説(かいせつ)(1(1)):ここでも(かみ)自信(じしん)の名まえ(なまえ)、アッラー(あっらー)、をだして、アッラー(あっらー)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ということを言わないで(いわないで)、この(まえ)の(しょう)と同じく(おなじく)、アッラー(あっらー)のいろいろな性質(せいしつ)を出して(だして)、そういう性質(せいしつ)の御方(おかた)に守護(しゅご)を求める(もとめる)、と言う(いう)表現(ひょうげん)の(かたち)になっているのです。それは、ある特殊(とくしゅ)な(あく)に対して(たいして)、アッラー(あっらー)のある特殊(とくしゅ)な性質(せいしつ)が適応(てきおう)しているからです。

 この(しょう)の初め(はじめ)の三つ(みつ)の(せつ)「言え(いえ)、「人類(じんるい)の(しゅ)に守護(しゅご)を求める(もとめる)、人類(じんるい)の(おう)に、人類(じんるい)の(かみ)に」で、アッラー(あっらー)の三つ(みつ)の性質(せいしつ)を述べられて(のべられて)いるのです。第一(だいいち)は、アッラー(あっらー)の「人類(じんるい)の(しゅ)」という性質(せいしつ)のことを述べられて(のべられて)いるのです。その意味(いみ)は、全て(すべて)の人類(じんるい)の、生まれた(うまれた)(とき)から死ぬ(しぬ)までに、面倒(めんどう)をみている御方(おかた)に守護(しゅご)を求める(もとめる)ということです。(じんるい)の(みな)の「(しゅ)」であるから、そういう御方(おかた)こそ(ひと)の守護(しゅご)が出来る(できる)御方(おかた)であるだろう、と言う(いう)ことがここで指摘(してき)されているのです。

 同じく(おなじく)、「人類(じんるい)の(おう)に、人類(じんるい)の(かみ)に(せつ)で「(おう)」と「(かみ)」と言う(いう)性質(せいしつ)から見れば(みれば)、そういう御方(おかた)こそが(みな)の守護(しゅご)を出来る(できる)(ちから)と能力(のうりょく)を持って(もって)いることが明らか(あきらか)になるのです。だから、「(しゅ)」と「(おう)」と「(かみ)」のような性質(せいしつ)を持って(もって)いる御方(おかた)であれば、そういう御方(おかた)にこそ守護(しゅご)を求める(もとめる)対象(たいしょう)にしなければいけない、と言う(いう)ことが明確(めいかく)に理解(りかい)できるのです。

解説(かいせつ)(2):「こっそりと何回(なんかい)も何回(なんかい)も忍び込み(しのびこみ)、囁く(ささやく)(もの)の(あく)から」と言う(いう)(せつ)では、アラビア語(あらびあご)の(もと)の言葉(ことば)で「ワスワシル(わすわしる)・カンナス(かんなす)(ハンナス(はんなす))」と言う(いう)言葉(ことば)が使われて(つかわれて)いるのです。これの初め(はじめ)の言葉(ことば)「ワスワス(わすわす)」の意味(いみ)は、何回(なんかい)も何回(なんかい)も忍び込んで(しのびこんで)来て(きて)、(ひと)の(こころ)に(なに)か悪い(わるい)考え(かんがえ)がしょっちゅう入れる(いれる)努力(どりょく)している(かた)のことが「スワス(わすわす)」というのです。また、それのやり方(やりかた)として、相手(あいて)にその努力(どりょく)している(かた)の努力(どりょく)のことがなんとなく(き)がつかないようにしているのです。一回(いっかい)や二回(にかい)や三回(さんかい)だけで、人間(にんげん)が悪い(わるい)考え(かんがえ)を簡単(かんたん)に自分(じぶん)の(こころ)に受け入れない(うけいれない)のです。だから「ワスワス(わすわす)」と言う(いう)ということは、相手(あいて)がそれを(き)がつかないように、何回(なんかい)も何回(なんかい)もび込んで(しのびこんで)来て(きて)悪い(わるい)考え(かんがえ)を囁く(ささやく)のです(つぎ)のアラビア語(あらびあご)の言葉(ことば)「(か)((は))ンナス(んなす)」のいみは、忍び込んで(しのびこんで)こっそりと来て(きて)、また直ぐ(すぐ)隠れて(かくれて)、また、そういうふうに一度(いちど)来て(きて)、また隠れる(かくれる)というような行為(こうい)は、何回(なんかい)も何回(なんかい)も繰り返す(くりかえす)ことです。この両方(りょうほう)の言葉(ことば)が一緒(いっしょ)に出た(でた)場合(ばあい)は、悪い(わるい)考え(かんがえ)を人間(にんげん)の(こころ)に入れる(いれる)(ため)に、人間(にんげん)が死ぬ(しぬ)まで(かれ)に悪い(わるい)行い(おこない)をやらせる目的(もくてき)で、悪魔(あくま)たちが一生懸命(いっしょうけんめい)に、継続的(けいぞくてき)に、何回(なんかい)も何回(なんかい)も、努力(どりょく)しているのです。だからそういうふうな(あく)から人間(にんげん)が、自分(じぶん)の(ちから)だけで(なに)も出来ない(できない)ので、人間(にんげん)の「(しゅ)」と「(おう)」と「(かみ)」である御方(おかた)の守護(しゅご)を求めない(もとめない)といけないのです。

 先程(さきほど)の説明(せつめい)の通り(とおり)でワスワシル(わすわしる)・(か)((は))ンナス(んなす)の意味(いみ)を分かって(わかって)、各信者(かくしんじゃ)は自分(じぶん)自身(じしん)がそういう(あく)からアッラー(あっらー)に守護(しゅご)を求めて(もとめて)、自分(じぶん)自身(じしん)が、悪魔(あくま)の囁き(ささやき)に負けない(まけない)ように頑張る(がんばる)必要(ひつよう)があるのです。これのもう一つ(ひとつ)の意味(いみ)は、ダアワー(だあわー)のことをやっている(ひと)に対して(たいして)は、反対(はんたい)する方々(かたがた)が、人びと(ひとびと)にいろいろ悪い(わるい)、(うそ)の囁き(ささやき)を言いふらして(いいふらして)いる場合(ばあい)もあるのです。そういう場合(ばあい)は、その(うそ)の、自分(じぶん)の反対(はんたい)の囁き(ささやき)のことに対して(たいして)、答える(こたえる)(ため)に時間(じかん)を無駄(むだ)にしないで、それのことをアッラー(あっらー)に守護(しゅご)を求める(もとめる)べきです。自分(じぶん)に対して(たいして)反対(はんたい)活動(かつどう)や囁き(ささやき)のことをアッラー(あっらー)に任して(まかして)おいて、自分(じぶん)でやるべきダアワー(だあわー)の(かつどう)に集中(しゅうちゅう)した(ほう)が良い(よい)のです。

解説(かいせつ)(3):「それが人間(にんげん)の(むね)に(悪い(わるい)考え(かんがえ))囁きかける(ささやきかける)(もの)である。ジン(じん)であろうと、人間(にんげん)であろうと。」悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)が最終的(さいしゅうてき)に悪い(わるい)行い(おこない)の原因(げんいん)になるのです。第一(だいいち)段階(だんかい)で、悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)の影響(えいきょう)で、悪い(わるい)考え(かんがえ)が(こころ)に定着(ていちゃく)するようになるのです。それで人間(にんげん)が悪い(わるい)ことをやる覚悟(かくご)をするのです。そういうふうに進んで(すすんで)、最後に悪い(わるい)行い(おこない)をし始める(しはじめる)のです。だから、悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)の時点(じてん)で、この(しょう)で教えて(おしえて)いるように、アッラー(あっらー)に守護(しゅご)を求めた(もとめた)場合(ばあい)は、その悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)が、(こころ)に定着(ていちゃく)しないのです。そういうふうに人間(にんげん)が悪い(わるい)行い(おこない)まで進まない(すすまない)のです。

 この(しょう)の最後(さいご)の二つ(ふたつ)の(せつ)「それが人間(にんげん)の(むね)に(悪い(わるい)考え(かんがえ)を)囁きかける(ささやきかける)(もの)である。ジン(じん)であろうと、人間(にんげん)であろうと。」で悪魔(あくま)や人間(にんげん)どちらも「人間(にんげん)の(むね)に(悪い(わるい)考え(かんがえ)を)囁きかける(ささやきかける)(もの)である」、と言って(いって)いるのです。そのどちらも悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)のことを進める(すすめる)順番(じゅんばん)がどういうふうにするのか?

 まず一番初め(いちばんはじめ)に、囁き(ささやき)する(もの)たちが、不信仰(ふしんこう)や多神教(たしんきょう)や無神論(むしんろん)やアッラー(あっらー)と預言者(よげんしゃ)たちに対して(たいして)公然(こうぜん)たる反攻(はんこう)や敵意(てきい)の考え(かんがえ)を囁く(ささやく)のです。それに失敗(しっぱい)した場合(ばあい)は、信者(しんじゃ)に宗教(しゅうきょう)の名まえ(なまえ)で、実際(じっさい)に宗教(しゅうきょう)の教え(おしえ)の(なか)に含まれて(ふくまれて)いないことが、宗教(しゅうきょう)の一部(いちぶ)だ、と言って(いって)ごまかすのです。それもだめだったら、こんどは、宗教(しゅうきょう)の違反(いはん)のことを良い(よい)行い(おこない)と見せかけて(みせかけて)進めて(すすめて)みるのです。これも効果(こうか)がないと分かったら(わかったら)、小さな(ちいさな)(つみ)を犯した(おかした)場合(ばあい)は、おもに悪い(わるい)ことにならない、という囁き(ささやき)をしてみるのです。この策略(さくりゃく)もきかないならば、こんど宗教(しゅうきょう)のことが自分(じぶん)だけまでに限って(かぎって)おいて、(ひと)にダアワー(だあわー)も、(なに)もしないような、(あく)のことを進んで(すすんで)みます。それもだめだったら、こんどうイスラーム(いすらーむ)の国に住んで(すんで)いても、そこでイスラーム(いすらーむ)の法律(ほうりつ)、シャリアー(しゃりあー)、を実行(じっこう)させて貰う(もらう)ために(なん)の努力(どりょく)をする必要(ひつよう)もないという悪魔(あくま)の悪い(わるい)考え(かんがえ)を囁きます(ささやきます)。自分(じぶん)一人(ひとり)だけで毎日(まいにち)5(5)(かい)の礼拝(れいはい)と断食(だんじき)と(た)のイスラーム(いすらーむ)の儀礼(ぎれい)やっていて、シャリアー(しゃりあー)を(くに)に実行(じっこう)させるために危険的(きけんてき)な政治(せいじ)努力(どりょく)の代わり(かわり)にダアワー(だあわー)だけやっていれば良い(よい)、というような(ま)違った(ちがった)考え方(かんがえかた)がこっそりと忍び込んで(しのびこんで)囁く(ささやく)のです。

 こういう悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)が、よその(ひと)や悪魔(あくま)から人間(にんげん)の(こころ)に入る(はいる)、ということに限らない(かぎらない)のです。人間(にんげん)の自分(じぶん)自身(じしん)の考え(かんがえ)や気持(きもち)も、そういうふうになって、自分(じぶん)自身(じしん)で自分(じぶん)に悪い(わるい)囁き(ささやき)することもあるのです。あらゆる宗教(しゅうきょう)や哲学(てつがく)や社会学(しゃかいがく)を勉強(べんきょう)して、そちらの(なに)か間違い(まちがい)考え方(かんがえかた)が(き)になって、イスラーム(いすらーむ)の考え方(かんがえかた)から離れる(はなれる)よう囁き(ささやき)も、自分(じぶん)自身(じしん)でやることもあるのです。あるいは、気楽(きらく)な生活(せいかつ)をしたい希望(きぼう)が湧いて(わいて)きて、イスラーム(いすらーむ)の厳しい(きびしい)戒律(かいりつ)から逃げる(にげる)ような囁き(ささやき)も、自分(じぶん)自身(じしん)にやることもあるのです。

解説(かいせつ)(4):(せい)クルアーン(くるあーん)の第一章(だいいっしょう)、アル(ある)-ファテハ(ふぁては)、でアッラー(あっらー)に正しい(ただしい)(みち)を導いて(みちびいて)さい(ください)、と言う(いう)お祈り(おいのり)があるのです。それの答え(こたえ)として、アッラー(あっらー)は全聖(ぜんせい)クルアーン(くるあーん)が人類(じんるい)に与えた(あたえた)。またそれが、この世の中(よのなか)は終わる(おわる)までに、(もと)のことばのまま残して(のこして)おく約束(やくそく)もしているのです。過去(かこ)1500(1500)(ねん)の(あいだ)には、これが(もと)の言葉(ことば)のまま、(いま)でも残って(のこって)いるのです。そのままこれからまたあとで、この(よ)が終わる(おわる)まで、残らない(のこらない)わけがないのです。アッラー(あっらー)から正しい(ただしい)(みち)を辿りたい(たどりたい)人びと(ひとびと)のために(せい)クルアーン(くるあーん)の導き(みちびき)が、この(よ)が終わる(おわる)まで残る(のこる)のですが、それを妨げる(さまたげる)のはなんでしょうか?

それの答え(こたえ)が、この最後(さいご)の(しょう)の中心(ちゅうしん)テーマ(てーま)に指摘(してき)されているのです。それは悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)であるのです。だから、アッラー(あっらー)が人類(じんるい)に最後(さいご)に教えて(おしえて)いるのは、そういう悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)から、人類(じんるい)の「(しゅ)」であり、「(おう)」であり、「(かみ)」であり、アッラー(あっらー)の守護(しゅご)をめなさい(もとめなさい)、ということです。そういう守護(しゅご)を求めない(もとめない)限り(かぎり)、(せい)クルアーン(くるあーん)の一番初め(いちばんはじめ)の(しょう)、アルーファチハ(あるーふぁちは)、に言われた(いわれた)通り(とおり)に、正しい(ただしい)(みち)の導き(みちびき)がいくらあっても、またその導き(みちびき)の願い(ねがい)が毎日(まいにち)の5(5)(かい)のサラート(さらーと)の各ラカート(かくらかーと)でいくらしても、そういうふうな悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)によって、人間(にんげん)の生活(せいかつ)と生きる(いきる)目的(もくてき)が全部(ぜんぶ)だめになってしまうのですし、また、この(よ)でも、あの(よ)でも不運(ふうん)を(まねく)ことになるのです。それで、そういう人間(にんげん)の最終(さいしゅう)始末(しまつ)は、地獄(じごく)で永久(えいきゅう)に、(いま)の(からだ)のまま焼かれ(やかれる)ことになるのです。悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)が自分(じぶん)の永久的(えいきゅうてき)な、最終(さいしゅう)始末(しまつ)の原因(げんいん)になるのです。(せい)クルアーン(くるあーん)の最後(さいご)の章で指摘(してき)している悪い(わるい)考え(かんがえ)の囁き(ささやき)が、どれ(ほど)恐ろしい(おそろしい)ことなのか、それが自分(じぶん)の最終(さいしゅう)の始末(しまつ)の結果(けっか)から分かる(わかる)のです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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http://www.dawahislamia.com/my-japanese-translation-of-last-surahs.php

MY JAPANESE TRANSLATION OF LAST PARA 30 (AMM) OF HOLY QURAN

 HAS BEEN COMPLETED WITH EXPLANATIONS OF THE LAST 20 SURAHS IN DETAIL

 

All basic concepts of Tauheed, Risalat and Akherat have been explained in detail in these explanations in the light of Quranic verses and the basic morality standards required by a Muslim have also been explained in detail, as urged in various verses.

 

In the beginning, in order to show the importance of trying to understand holy Quran, the influencing power of the Quranic eloquence has also been elaborated with the detailed story of Meccan non-believers prostrating in Sajda while our Prophet was reciting Surah An-Najm and some persecuted migrant Muslims came back from Habsha with the rumors of all Meccan having adopted Islam.

The importance of the obligation to go to Sajda while reading Quran, wherever it is so marked in the sidelines of relevant verses,